あの日から10年 福島・大熊町「やすらぎ霊園」物語~骨だけでも故郷へ
「帰りたい」──。失われた町の人びとの最後のよりどころ。/文・葉上太郎(地方自治ジャーナリスト)
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▶︎福島の大熊町は19年4月、避難指示が解除されたエリアに新しい町役場を建設し、町営墓地「やすらぎ霊園」を造成した
▶︎やすらぎ霊園に墓を建てた人々を追い掛けると、「被災者の10年間」が透けて見えた
▶︎大熊町には、骨になってしか帰れない。確かに現実はそうかもしれない。しかし、諦めない人々もいる
「帰れる土地」ができた
小山を切り開いた霊園に、冷たい風が吹き付ける。煽(あお)られた塔婆(とうば)が、カラ、カラと乾いた音を立てた。
「兄貴達もようやく墓に入れたね。お骨(こつ)はもう10年もアパートや家で安置してきたけれど、これでやっと安心して眠れるね」。74歳の女性が墓石に語りかける。供花を新しく差し替え、両手を合わせると、少しほっとした顔つきになった。
2月11日、福島県大熊町の町営墓地「やすらぎ霊園」。東日本大震災が発生した2011年3月11日から、あと1カ月で10年という月命日だ。
あの日、大熊町では津波に襲われるなどして、12人が亡くなった。女性の実家の「兄貴」も、4歳の孫と一緒に海に呑まれ、68年の人生を閉じた。
大熊町には、隣の双葉町との間にまたがって、東京電力福島第一原子力発電所が立地している。福島県は東電の営業エリアではないが、万一の時の犠牲を減らすために、「東京」の原発が建てられた。
津波で被災した原発は暴走した。6基ある原子炉のうち、4基の建屋などで爆発や火災が起きた。
大熊町では震災翌日の3月12日早朝から避難が始まり、全域が政府の避難指示区域になった。
放射能汚染された土地でも線量の高い地区は、政府が「帰還困難区域」に指定して立ち入り規制した。政府はそのうち原発周辺の約1600ヘクタールの買収を進め、「中間貯蔵施設」を建設した。福島県内の除染で出た汚染土壌などを処理・保管する施設である。女性の実家はこのエリアに含まれてしまい、先祖代々の墓まで移転を求められた。
帰還困難区域にはバリケードが
このため「兄貴」と孫の遺骨は、墓に納められないまま、実家が避難先に持ち歩いてきたのだという。
だが、大熊町では19年4月、比較的放射線量の低い山側の土地で、発災から8年にして初めて避難指示が解除された。被災前の人口の4%が住んでいた地区に過ぎないが、それでも「帰れる土地」ができた。
町役場は、このエリアを拠点にして復興を進めており、新しい役場庁舎を建設した。同年中にやすらぎ霊園も造成した。
女性の実家は昨秋、同霊園に墓を建てた。この日は、実家から納骨したという連絡を受け、別の用事も兼ねて墓参に訪れたのだった。
女性の家はやはり大熊町内にあった。帰還困難区域ではあったが、中間貯蔵施設の用地にならなかったので、原発から約60キロメートル離れた同県郡山市の避難先で、「いつかは帰ろうと頑張ってきました」と話す。しかし、「地震の被害に加え、イノシシに荒らされるなどして住める状態ではなくなり、除染の時に環境省に解体してもらいました。今日は更地になったのを確認するために来たのです」と目を潤ませる。
発災からの10年間、こうした被災者にどれくらい会ったろうか。
「帰りたい」という願いをついに果たせず、「せめて遺骨だけは故郷に埋葬してほしい」と言い遺した人。先祖代々の土地や家を失っただけでなく、友達もバラバラになって、「根なし草になってしまった。最後の拠(よ)り所として墓だけは故郷に設けたい」と涙する人もいた。
やすらぎ霊園に墓を建てた人々を追い掛けると、「被災者の10年間」が透けて見える。ただ、その姿はあまりに寂しい。
空き区画が目立つ「やすらぎ霊園」
バスに乗せられ散り散りに
原発から2.5キロメートルの地点に住んでいた根本友子さん(73)は、集落が丸ごと中間貯蔵施設の用地となり、故郷を失った。
震災前は社員10人強の運送会社を家族で経営し、あの日は家から徒歩5分の会社事務所にいた。
震度6強の烈震。事務所や家は海から約500メートルの場所にあったが、高台だったので津波の被害はなかった。40軒ほどの集落では、低地にあった1軒が流された。
日が暮れると、集落全体で公民館に集まった。一帯は停電していたため、発電機を調達して、テレビを見た。原発の情報はほとんどなく、津波の映像しか記憶にない。
根本さんはJAの役員を務めていて、仲間と加工場でモチや味噌を作っていた。これら産品を翌日、東京で開かれる物産展に運ぼうと、自社のトラックに積み込んでいた。夕食は荷物のモチをストーブで焼き、公民館に集まった人々に分けた。
午後9時頃、公民館に詰めていた役場職員が、町中心部の中学校体育館へ移るよう指示した。実は午後8時50分、県が原発から2キロ圏内への避難指示を出していた。午後9時23分には政府が3キロ圏内への避難指示を出した。なぜか根本さんらには詳細が伝えられなかった。
「皆、口には出しませんでしたが、原発で何か起きているなと感じていました」と振り返る。
夜が明けた3月12日午前5時44分、政府は避難指示の範囲を10キロ圏に広げ、大熊町はほぼ全域が対象になった。その頃、町内には茨城県から約50台のバスが到着していた。避難を見越した政府が、知らぬ間に派遣していたのである。当時の約1万1500人の住民は集会所に集められ、次々とバスに乗せられて、内陸部へ向かわされた。
大熊町民の避難所は、役場が把握しただけでも4市町の20数カ所に設けられた。根本さんは原発から30キロメートルほど離れた体育館に入った。午後3時36分、テレビを見ていたら原発が爆発した。
それでも「帰りたい。いつ帰れるのか」としか考えなかった。なのに事態はどんどん悪化した。
避難から3日後、原発から約100キロメートル離れた同県会津若松市に住む二男が車で迎えに来た。根本さんは母と夫、近くに住む妹夫妻の計5人で行動しており、母と妹夫妻の3人が二男の車に乗った。
根本さんは、夫が地元の区長を務めていたため、2人で残った。が、同じ体育館に避難していた高齢男性の体調が悪化し、放置すれば命に関わりかねない状態に陥った。二男にはもう往復のガソリンがなかった。放射能汚染への不安から福島県向けの燃料輸送が滞っていたからだ。根本さん夫妻は自家用車を1台持って来ていたので、この車で会津若松市の病院に搬送し、そのまま二男宅に身を寄せた。避難で衰弱した男性は、夏頃に亡くなったという。
霊園が最後の結び目
4月になると、町役場が根本さんを追い掛けるようにして会津若松市へ再避難した。住民も集結した。同市に仮設住宅が設けられると、根本さんも入居した。だが、四畳半の二間しかなく、母と夫の3人で暮らすには狭すぎた。母は雪深い会津を嫌がった。このため15年10月、太平洋岸のいわき市に家を建てた。
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