いけ花と、流れる時間――坂村岳志
文・坂村岳志(花人・喫茶「さかむら」主人)
20年前、師の許を離れて、いけ花を自身の仕事として独立して以来、なにかに躓き、どこかに迷いこんでしまったような時にはいつも、音楽を聴くことに心身を集中させることで何かしらの出口のようなものを見出してきました。明確な花道論だとか、そうしたものではない、身体で聴いて心の深くに働きかけてくるものに呼応する感覚。
使用する花材のすべては、自身で採取してきたものだけを用いるのが僕自身の決まり事として、あります。
日々、時間のゆるすかぎり里山を歩くのですが、かといって四季折々の自然が織りなす風景を、ゆっくり眺め歩くようなことは、あまりありません。日課としての山歩きの目的は、花材を探すためのものではなく、季々の自然の気配に自分の身体を同機させるためのものだからです。
そうしたときに、もっとも動員されている感覚は聴覚でしょう。折々に踏み分けて歩く足下の音、自分の呼吸音、遠くで枯枝の落ちる音、竹林のそよぎ、無数の鳥達の声や梢を渡る風の音。季節や時間帯によってそれらは無限のヴァリエーションで身体を包み込みます。眼はあくまで利己的に自然を切り取りますが、耳は無条件に周囲の情報を身体に取り込みます。
そうして聴覚を主体に自然と同機した日々の身体をもって、或る日の或る時、いよいよ鋏を携えて山に這入ります。花材採取と云う目的を持った眼で。
永い時間、目隠しをされて知らない場所に連れてこられた人が、ようやく目の覆いを解かれた時に眺めるような景色が、そこにはあります。朽ち落ち苔むした風倒木、枯れても尚、花であることをやめようとしない名も分からない花、実を残すだけとなった草木。耳が識ることのなかったそれらすべてが、未だ演奏されることなく埋もれていた膨大な楽譜のように眼前に拡がっているような感覚におそわれます。
そうして見つけた心魅かれる草木を、彼らに気付かれることなく静かに鋏をいれて持ち帰り、準備しておいた花器にひっそりと移し替える。眠りについた子供を起こさないように布団に移すような手つきで。大きなシャボン玉を運ぶ人の仕草で。
そうして大切に持ち帰られ、いけられた一木一草は、花をいけた本人の心を慰撫し、親しい来客の気持ちをやわらげることに違いありません。私的な愉しみの花としては、それで十分満足の得られることでしょう。ですが、いけた花を人々に観て戴くことを生業としている自分は、そこで終えることはできません。
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