小説「観月 KANGETSU」#59 麻生幾
第59話
逃走者(1)
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レンタル着物を着た女性観光客たちがそぞろ歩きする「商人の町」の雅(みやび)やかな風情を、けたたましいサイレン音が蹴散(けち)らした。
突進するように「塩屋の坂」の下に停まったパトカーから飛び出した涼は、2名の制服警察官を引き連れて一気に石畳を駆け上がった。
一度、角を右折して七海の自宅の玄関を見通せるところまで辿り着いた時だった。
頭まですっぽり被うフード付きの黒いジャンバーを着た正体不明の何者かが、七海の家の前で、一人の女性の首元を掴んで地面を引き摺っていた。
女性は手足を激しく動かして抵抗している。
涼は一瞬で、その女性が七海だと分かった。
「おい! お前!」
そう叫びながら全速力で走る涼の視線は、玄関の右側に停車している白いミニバンに向いた。
ミニバンの後部ドアが大きく開け放たれている──。
──七海を拉致する気だ!
“フードの男”は、涼の声に気づいて振り向いた。
だが目深に被ったフードにサングラスもかけているので顔つきは認識できなかった。
“フードの男”は七海とミニバンを急いで見比べた後、七海をその場に放り出し、ミニバンの運転席に走った。
エンジンは掛けっぱなしにしていたのか、ミニバンはすぐに発進。50メートルほど先の四つ角を左折し姿を南方面へと消した。
「緊急配備要請! 手配車、トヨタの白色ミニバン。車種は不明。ナンバー、大分533、沼津の『ぬ』、9803──。以下不明だが、よろしく!」
涼は七海の元へ走りながら背後の制服警察官を振り向かずにそう叫んだ。
「了解!」
大声でそう応じた制服警察官たちは足を止めて無線を掴み、指令センターに直結する至急コールボタンを押し込んだ。
「怪我は?!」
七海の元に駆け込んだ涼が声をかけた。
青ざめた顔をして髪の毛がくしゃくしゃのまま目を見開いた七海の顔は血の気がひいているように涼には思えた。
「痛むところはどこや?」
涼はそう聞いてから七海の全身に急いで目をやった。
腕のほか、肘や膝に幾つもの擦過傷と皮下出血が見受けられた。
携帯電話を掴んだ涼は躊躇わずに119番をコールした。
消防本部の指令センターに涼が状況の説明を始めた時、
「大丈夫よ」
と七海が押し留めた。
「でも念のため──」
「いいん。歩くるし(歩けるし)」
そう告げた七海は、涼に抱きかかえられながらも歯を食いしばるような表情で立ち上がった。
駆けてきた制服警察官の一人が近くに転がっている松葉杖を拾って七海に渡してくれた。
「ありがとうございます」
そう言って七海は初めて笑顔をつくった。
「何があった? 話せるか?」
七海の瞳を覗き込むようにして涼が訊いた。
七海は大きく息を吐き出してから口を開いた。
「なんかなし(とにかく)突然やった──」
七海は途中で激しく噎せ返った。
「そん時、2階におったん。それで、家ん中に侵入者がおる、と気づいた時には、わたし、すぐに納戸ん中に隠れたん……」
七海は整理して話そうと心がけた。
まだ混乱している七海の雰囲気を察した涼は黙って頷いて先を促した。
「納戸の中で息を殺してじっとしちょったんだけど……結局……」
七海は大きく肩で息をしてから続けた。
「後は、引き摺らるるままに玄関まで連れて行かれ、そん後、ここまで……
「で、田辺智之やったんやな?」
涼が急いで訊いた。
七海の耳にさらなるパトカーのサイレン音が聞こえた。
「たぶんそう……」
髪の毛を激しくかきむしった七海は顔を左右に振った。
「たぶん? はっきりと顔は見らんかったんか?」
「頭から黒っぽい何かを被うちょったし、サングラスもかけちょったけん……でも、たぶん、いえ、間違いねえわ」
「なぜ、間違いないと?」
「口臭が……」
(続く)
★第60話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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