【死体なき殺人事件#2】|伝説の刑事「マル秘事件簿」
警視庁捜査一課のエースとして、様々な重大事件を解決に導き、数々の警視総監賞を受賞した“伝説の刑事”と呼ばれる男がいる。
大峯泰廣、72歳――。
容疑者を自白に導く取り調べ術に長けた大峯は、数々の事件で特異な犯罪者たちと対峙してきた。「ロス事件(三浦和義事件)」「トリカブト保険金殺人事件」「宮崎勤事件」「地下鉄サリン事件」……。
老境に入りつつある伝説の刑事は今、自らが対峙した数々の事件、そして犯人たちに思いを馳せている。そして、これまで語ってこなかった事件の記憶をゆっくりと語り始めた。/構成・赤石晋一郎(ジャーナリスト)
異臭が混じる業火と黒煙
東京都唯一の村落・桧原村。この静かな集落で事件が起きたのは1997年4月のことだった。
その日、バス通り沿いにある住宅から黒煙がもうもうと立ち上がっていた。そこは少し寂し気な風情が漂う屋敷だ。周辺住民はいつも浜中家で行われている野焼きだろうと気にとめなかったという。大工をしていた浜中家の長男が仕事で出た廃材などを燃やすことがよくあったからだ。
焼却は数日に渡り続いた。
業火の中、木材やオガ屑が燃える音がパチタチと鳴った。煙の中にはわずかだが異臭が混じっていた――。
毎年9月、警視庁は〈行方不明者捜索強調月間〉として、身元不明者の再捜査を行っている。
浅草寺に受付のテントを開設し、行方不明者や身元不明者を募るのと同時に、鑑識課の方でも身元不明者と変死体の指紋を照合する等の作業が行われる。つまり行方不明者の再捜査を重点的に行うのだ。
1年近く行方不明のままの祖母
1998年9月、〈行方不明者捜索強調月間〉のなか、五日市署に浜中家親族の人間から相談が寄せられた。
「祖母がもう1年ちかく行方不明になっているが、行方不明になる理由がなく納得が出来ない」
この相談に事件性ありと判断した五日市署は、警視庁捜査一課に相談を持ち掛けた。捜査一課長は事件番として待機していた殺人犯捜査2係・大峯班に浜中サチコ(仮名)失踪事件についての捜査を下命する。
事件の概要は次のようなものだ。
1997年4月、五日市署管内、桧原村に所在する一戸建て住宅で三男・浜中克己、良子夫婦(共に仮名)と同居していた83歳の浜中サチコが所在不明となった。同月23日、三男夫婦から母親の捜索願が出されていた。
それから一年あまりサチコの行方は洋として知れなかった。
浜中家の親族はある疑念を持っていた。三男の妻・良子が怪しいと。
良子は「義母が朝出かけて郵便局に行ったきり帰ってこない」と語っていたが、その言葉にはいくつか不審な点があった。
まず、義母サチコがその日に郵便局を訪れた様子はなかった。更に親族などの証言によると、良子は過去に義母の郵便貯金を使い込んだことがあることもわかった。ますます怪しんだ親族たちは、屋敷の床下に埋めたのではないかと、徹底捜索をしたこともあったが遺体は出てこなかったという。
浜中家三男の妻を事情聴取
9月25日、捜査本部は浜中良子を朝5時45分から任意同行で呼び出し事情聴取を行うことにした。
取調官は大峯班デスクの浦東寛美が務めた。杉並区麻雀店店員殺人事件でデスクを務めた金田はその後異動となり、浦東が大峯班の後任デスクとなっていた。
浦東は交通畑の出身で、刑事の中では珍しく勤勉で真面目なタイプの男だった。粘り強く取調する男で、知能犯捜査には定評がある刑事だった。大峯がオウム真理教事件で土谷正実の取調べを行うときに同席させていた腹心の一人でもあった。
良子は「私は思うことがあり、自分の心の中で思うことを主人にも話さなかった。そのことを一人で背負ってきた」と思わせぶりなことを口にする一方で、「お婆さんは4月19日に家を出て、姉さんの所に行ったと思った。私は、その後のことはよく知らない」と頑なに否定を続けた。
浦東が2時間あまり粘り強く追及を続けたものの、良子はときに証言のブレは見せるものの、犯行については一向に認めようとしなかった。
午前7時、大峯は取調べ官交代を決断する。任意同行の段階で取調べが長引き連日になってしまうと、被疑者が逃亡したり、自殺する可能性が高まる。早期決着の為に、自ら乗り出すことにしたのだ。
浦東に代わり大峯が取調べ室に入った。大峯は他の捜査員を排して、良子と一対一で向き合った。
そして眼をじっと見つめた。
良子は4人の子を持つ普通の主婦という雰囲気だった。おとなしくて地味な女性で、苦労をしたのだろう身体からは生活感が滲み出ていた。
警察署の中にいることで心理的なプレッシャーは相当なものだったのだろう。両手を膝のうえに置いたまま、ショートヘアーの頭を項垂れたままでいる。
――あなたの話は辻褄が合わない。自分でもわかってるだろう。
大峯は諭すように語りかけた。
「そうですね……」
良子が小さな声で答えた。
――あなたは周りの人に嘘の話をして、それで押し通そうしているよな。嘘を本当の話と思いこんで話してはダメだよ。よく考えてごらん。
良子は項垂れたままだ。
――やった事は仕方がないんだよ。子供のことや生活のことを考えれば、自分できちんと整理しなければいけないぞ。隠したまま生きて行くことはできなだろう。
良子の目に涙が浮かんでいるように見えた。大峯は(彼女には何か心配事があって話せないのだろう)と直感した。
――もしかしたら、いちばん下の子供さんのことを気にしているのかい。心配なのか?
小さく頷いた。
大峯はこの時、良子が義母を殺したのだと確信したという。
――子供さんはあなたが刑務所に入っても、亭主や親族が面倒をみてくれるだろう。警察も面倒を見る。だから心配せず、話してみたらどうだい。
大峯が取調室に入って1時間あまりの時間が過ぎようとしていた。
良子は声を上げて泣き始めた。
「子供が学校でどう思われるかと思うと怖くて怖くて話せませんでした……。娘の大学の学費もあるし……、主人にも会わせる顔がない……」
涙が膝の上に零れた。
「私がお婆さんを殺しました」
きっかけは125万円の郵便貯金
良子がとうとう自供を始めた。
「4月17日――。お婆さんが郵便局に出かけると聞いて私は動揺しました。郵便局に行かれてしまうと、私が勝手に引き出した125万円のことがわかってしまう。玄関先の上がり框に座りお婆さんが靴を履こうとしていました。この時間、子供は学校に行き主人も出かけており家には誰もいませんでした。
私は台所にあった家庭用の消火器を持ってきて、後ろから思いっきり頭を殴りつけました。
『痛てぇぇぇーー』
お婆さんは絶叫して倒れました。その後も10回以上、消火器で殴ったら動かなくなったので死んだと思いました……」
殺人の動機は義母の郵便貯金をネコババしたことの発覚を恐れた為だった。夫の収入に、良子もテレホンクラブの受付などのパート収入を得ていたが、良子がやり繰り下手のせいか生活費がいつも不足していたという。長女は大学生、次女は高校生、三女は中学生であり、末っ子の長男はまだ小学生。それぞれの学費や生活費で、家計は火の車だったようだ。
良子が他に浪費しているなどの素行を確認することが出来なかったこともあり、主婦が生活費に困った末に行った犯行だと断定するに至った。
9月25日、良子の自供により、五日市署に〈桧原村老女(義母)殺人・死体損壊及びに遺棄事件〉の捜査本部が設置された。殺人犯捜査2係・大峯班と五日市署の刑事を中心に40人あまりの特捜部隊が編制された。
捜査員は「地取り班」、「鑑取り班」、「特命班」、「証拠班」、「科学資料班」に分けられる。地取り班は、犯行現場周辺をエリア分けして聞き込み捜査を行う班。鑑取りは被害者の親、兄弟、親族から動機につながるような背景があるかを捜査する班。特命班は捜査本部にきた情報について捜査する班。証拠班は証拠品の管理を行い、科学資料班は科捜研と連携しながら科学的捜査を行う班となる。
話は逸れるが、警視庁捜査一課でも異彩を放っていた殺人犯捜査2係・大峯班について少し詳述したい。
証言をするのは殺人犯捜査2係・大峯班の刑事である佐野輝である。佐野は1997年から大峯班配属になっていた。本事件は杉並区麻雀店店員殺人事件に続く、大峯班として捜査に携わった3つ目の事件だった。
配属されたばかりのころ佐野は、大峯のことを「いい加減なオヤジだな」と思っていたという。
「大峯係長は良子の取調べも最初は五日市署でやったものの、2日目からはさっさと霞が関の警視庁本庁舎に戻ってしまい、そこで取調べを行っていました。五日市署の捜査本部でも朝に捜査会議をすると、係長はすぐに姿を消してしまうんです。つまり五日市署の捜査本部にほとんどいなかったのです」
警視庁捜査一課の多くの班では、捜査本部が設置されると刑事は班長と共に連日のように泊り込み勤務となることが当然だった。昼は捜査で走り回り、夜は捜査本部で若手刑事が作った夕食を取り、夜半過ぎまで飲む。合宿生活のような毎日のなか疲弊する捜査員も多かった。
「大峯班は毎日酒を飲むこともありませんでした。大峯係長も自宅に帰るので、部下も自宅に帰れた。私が捜査一課の他班にいたときは、何週間も捜査本部に泊り込み毎日酒飲むのが当たり前だった。でも、毎日酒を飲んでいたら次の日の午前中は仕事にならないんですよ」(佐野)
捜査本部で飲み会を開かないのは、大峯曰く「税金である捜査費を使って警察官が酒を飲むことを良しとしなかった」からだという。大峯が捜査本部に長居をしないのも、無駄な会議をしない為であり「捜査員を管理しない。個性は仕事で出してもらえばいい」というポリシーを持っていたからでもあった。
強面で体育会系だと思われがちな大峯だが、意外にもその捜査スタイルは合理性を重視したものだったのだ。佐野が述懐する。
「大峯班は、警視庁捜査一課で事件解決数を競う『トップ賞』の常連でした。その理由は個性重視、細かいことは言わずに捜査は部下に一任してくれるところにあった。例えば私が上司と喧嘩しても咎められることはありませんでした。杉並区麻雀店店員殺人事件のとき、管理官と怒鳴り合いの大喧嘩になったことがあった。遺体発見した捜査中に、管理官が私に対して『あいつは誰なんだ?』ケチをつけたことがあった。私は遺体発見の手柄をあげたばかりで、舐められてなるかとカチンと来て、管理官と怒鳴り合いの喧嘩をしてしまった。でも大峯係長からそれを咎めることは全くありませんでした。人の心を掌握する力というか、懐の深さというものが彼にはありました」
大峯班には選りすぐられた敏腕刑事が揃っていたが、わずか1時間あまりで良子を自供させ事件解決の道を開いたように大峯自身の捜査能力も抜群だった。その背中を見ている部下も、「自由」と「責任」を感じながら結果を出すべく捜査に勤しむわけだ。
事件に戻ろう。
良子は自供したものの、捜査員は桧原村という独特な村社会の中で苦戦をしていた。桧原村は、信号が1つしかないような寒村(当時)で、捜査員が一件聞き込みをしただけで、情報が村中に話が回るような雰囲気だった。いくら聞き込みを行っても、良子の犯行を裏付けるような証言がなかなか出てこない。
良子は義母を殺害後、その遺体を処分していた。彼女はこう供述したのだ。
〈4月19日、(屋敷内の空き地に)波板トタンを敷いたうえに遺体を置き、材木やぬいぐるみ等と一緒に灯油をかけて焼いた。お婆さんの遺体は、翌日までくすぶらせながら燃やしました。焼いて残った灰と骨はゴミ収集日にゴミとして出したり、川に投げ捨てたりしました。大きな骨だけはどうすればいいかわからず暫く持っていましたが、結局、普通のゴミとしてごみ収集日に出した〉
特命班だった佐野が回想する。
「遺体についての裏付け捜査には、本当に苦戦をしました。ゴミ処分場に行き、ブルドーザーで集積ゴミを掘り返したりしましたが、1年前の犯行ということもあり遺体の骨や灰などを発見することはついぞ出来ませんでした」
良子の自供だけでは公判維持をすることが難しくなる可能性が高かった。遺体、もしくは殺人の証拠となる物証を捜査本部は早急に割り出さなければならなかった。
大峯は殺人現場となった浜名家内での証拠、物証集め、そして鑑定を急いだ。
良子は犯行現場になった玄関で、血しぶきによる飛沫痕も綺麗に掃除して消していた。だが、細かく検証すると壁や柱に僅かだが血痕が残っていることがわかった。
また、良子が供述した遺体を焼却したときに使用したという波板トタンが、未だ物置に置かれていることもわかった。
大峯が回想する。
「飛沫痕を採取してDNA鑑定をしたら義母のDNAと一致した。更に波板トタンも押収し鑑定にかけたところ、『人脂』が付着しているという結果が出た。DNAと人脂を割り出した鑑識班と科学資料班の働きが、もう一つの決め手になった。これは遺体を焼いた証拠になると捜査本部は色めき立ったね。自供、DNA、そして人脂の証拠をもって良子を立件できると確信を持つことができた」
普通の主婦がなぜ、義母を殺し、遺体を焼却するという残忍にまで手を染めたのか。きっかけは「義母の郵便預金から無断で125万円引き出して使ってしまったことが、知れてしまうと怖れた」という、些細といえば些細にも見える理由だった。
良子は逮捕後の心境を、自ら書いた手記こう綴っている。
〈私は17年間、生活を共にしてきた義母を殺しました。何の恨みもありませんでした。きっと私が義母を消火器でなぐっている時、もうろうとする頭の中で『なぜ良子がこんなことをするのだろう』と思いながら息をなくしていったのだと思います。私は自分のことばかりを考えて、義母のこと、夫の兄弟のことなどその時は考えられませんでした。
殺人を犯したことなど話せる人はなく、どんな時も私は『ひとり』なんだと痛感しました。でも、夫や4人の子供たちのことを考えると、自分から警察に行くことが出来ませんでした。夫はいつも私をかばってくれました。この夫のためにも、私が義母を殺した事実を話してはならない、私が犯人であってはならないと思い、9月25日まで無言のまま通してきました。心残りは星の数ほどありますが、もうあきらめました。
でも一番、かわいそうなことをしたのは義母です。何の心配もない老後を過ごさせてあげようとしたのに……。私はなんてバカなことを考えたのでしょうか……。ほんとうにバカな女です〉(一部要約)
対照的な2人の女
殺人犯捜査2係・大峯班が手掛けた2つの「死体なき殺人事件」。〈杉並区麻雀店店員殺人事件〉の村田裕子は夫の不倫を知り我を失い、〈桧原村老女(義母)殺人・死体損壊及びに遺棄事件〉の浜中良子は生活費の為に義母を殺めた。
元ソープランド嬢で勝気な裕子に対して、地味な主婦だった良子と、2人の人物象は対照的だ。しかし、共に衝動的に人を殺し、残忍な形で遺体を処分するという異常な犯行に手を染めた。
刑事は彼女らの一瞬の油断や、心の隙を突き、事件解明への突破口を開いて行った。事件も捜査も一瞬の出来事が明暗を分けることになる。
人生の綾とは実に魔訶不思議なものなのだ――。