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清武英利 記者は天国に行けない⑥「墓場に持って行かせるな」30年を超えて暴かれた電力業界の闇

事実を申し上げるのが天命と思った——30年を超えて暴かれた電力業界の闇。/文・清武英利(ノンフィクション作家)
★前回を読む。

1

熱気を孕む玄関の暗がりで、新聞受けから取り出した朝刊の五段抜きの見出しに目を奪われ、そのまま動けなくなった。2014年7月28日。月曜日である。手にした朝日新聞の1面トップにはこうあった。

〈関電、歴代首相に年2000万円〉。袖見出しには〈計7人 72年から18年献金〉〈内藤元副社長が証言〉とある。

関西電力で政界工作を長年担った元副社長の内藤千百里ちもりが朝日新聞の取材に応じ、少なくとも1972年から18年間、在任中の歴代首相7人に「盆暮れに1000万円ずつ献金してきた」と証言したというのだ。

その4日前に、私は『しんがり 山一證券 最後の12人』が、講談社ノンフィクション賞を受賞することになったという報せを受けていた。その賞は読売新聞社会部の大先輩である本田靖春がちょうど30年前に受賞しており、その足元にも及ばないけれども、読売新聞グループに抗いつつ、これでメシを食べていけるかもしれない、と思い始めていた。

そんな浮き立った気分に、朝日の記事は冷水を浴びせるものだった。そこに暴露された電力業界の政界献金問題は、記者時代に私が追跡したものだったからだ。

朝日によると、政界全体に配った資金は年間数億円。内藤が献金したと証言した7人の元首相は、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登――。戦後の保守政治を担ってきた大物である。関電にはトップシークレットの裏資金があり、時の首相だけでなく自民党の有力政治家にも配っていたという。「一に電力の安泰。二に国家の繁栄」のため特定の派閥に関係なく、権力者に配られているところからみても、献金は電力業界に続く宿痾だったことがわかる。

――すごいな、すっかり追い越されたか。

そんな驚きと嫉妬が過ぎ去ると、記者時代の上気した気分が戻ってきた。自分の年齢や劣弱に逃げ込もうという気持ちを、後輩たちから鞭打たれたような気にもなった。そして、1984年初夏の出来事を思い出した。

2

沈静な東京・武蔵野の大きなしもた屋の前で、フーッと大きな息をついた。昏い夜空に垂れこめた雲が薄く光っている。2階の板壁を仰ぎ見、それから目前の石の表札に視線を移して目を凝らすと、「那須なす しょう」と読めた。

私が新聞記者の名刺を持ち始めて10年目にたどり着いた、電力業界の大立者の自宅だった。やがて経団連会長となる平岩外四の後任として、那須は84年6月、東京電力の社長に就いたばかりだった。那須には翌年末、全国の電力会社の連合体である電気事業連合会の次期会長の椅子に座るレールが敷かれていた。

――やっと、ここまで来た。

私はその2年前に、読売新聞の青森支局から地方部内信課という部署に転じ、科学技術庁(現・文部科学省)担当として原子力問題を取材していた。内信課に配属されたときに自ら手を挙げたのだ。

門前で、用意してきた質問をもう一度反芻した。

「電力業界を挙げて自民党に献金をしていますね。『政治献金はしない』という電力業界の宣言に反していますが、東電のトップとしてどうお考えなのですか?」

それはずっと疑問に思っていた問いかけだった。

一つは、電力業界の政治献金である。電力会社は地域独占の公益企業であるため、1970年代から企業献金を自粛すると表明してきた。しかし、その裏では政治家個人のパーティー券購入などの形で事実上の献金をしている、と言われ、私自身も政治献金を認める証言を電力会社幹部から得ていた。証言をしたその幹部は「原子力とは哲学だ」と私に言った。

「資源のない日本では原子力の未来に賭けるしかない。それを信じるか、信じないかは、その人の哲学による」というのだ。つまり、彼は原発の必要性を自己の哲学として固く信じる一方で、隠れて政治家に資金や支援をする業界の行為に不満を抱いていたのである。自宅の居間で聞く彼の話は、何度聞いてもぶれなかった。その証言を那須にぶつけ、反応によっては記事にする道を探ろうと私は考えた。

尋ねたいことはもう一つ、あった。

私が駆け出しの7年間を過ごした青森県の下北半島を、原子力基地化しようとする計画のことである。那須が東電社長に就任する2か月前の84年4月に、電事連会長の平岩らは青森県に対し、下北半島に核燃料サイクル施設を建設したい、と要請していた。

私が読売新聞青森支局に赴任した75年時点では、下北郡東通村で東京、東北両電力が進めていた下北原発の予定地に巨大な柱が一本屹立しているだけで、本州最北端の下北郡大間町には、電源開発株式会社が新型転換炉を作るという机上の計画しかなかった。下北はまだ「コアダネ(太陽が当たらない)」と言われる過疎の地で、原子力施設は半島の点に過ぎなかったのだ。

ところが、地元漁民らの反対運動をかわして、2つの原発建設話はじわじわと進んだ。81年には大騒ぎの末、原子力船「むつ」の新母港がむつ市関根浜に決まる。その2年後に首相だった中曽根康弘が総選挙の遊説で青森市を訪れ、「下北半島を将来、原子力発電のメッカにすれば地元へのメリットは大きい」と記者会見でぶちあげた。すると、その約4か月後に、下北半島に、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物貯蔵施設、それに使用済み核燃料再処理工場を集中的に作りたいというのだった。

こうして原子力施設は線としてつながり始め、「原子力半島」と呼ばれるようになった。

この集中立地は偶然に積み重なったのだろうか。私は巨大な絵図を描き、仕掛けた人物や組織があると思った。国と政治家、電力業界には違いない。資源エネルギー庁のエネルギー企画官だった広瀬勝貞は81年に私にこう言ったものだ。「下北は原子力の一等地だ。ワンパックにした原子力施設を作ることが可能だ。現状ではだまし、だましして積み重ね(基地化)していくしかないが……」。広瀬はその後も原子力政策を牽引し、経済産業事務次官に就く。いまは大分県知事だ。

――ではさらに一歩進めて、広瀬以前のその人物はどこの組織の誰で、いつから進めてきたのか?

電力業界だけのはずがなかった。電事連は当初、核燃料サイクル施設を九州に作ろうとしたのだから。そして、その中核となる日本初の民間再処理会社「日本原燃サービス」の社長に九州電力出身者を据えた。候補地として、徳之島や馬毛島(いずれも鹿児島)、平戸(長崎)などが次々と浮かんでは消えた。

再処理工場は核燃料サイクル事業の中心施設だ。原発で燃やしたウラン燃料から、核分裂していないウランと新たにできたプルトニウムを取り出して新たな燃料を加工し、軽水炉や高速増殖炉で燃やすという触れ込みだった。しかし、核兵器の原料であるプルトニウムを扱うことから危険性が指摘され、建設に協力した青森県庁首脳も「再処理工場は嫌われ者だ」と思っていた。

しかも、電力側は当初、九州各地に触手を伸ばし、地元で激しく拒否されると、一転して下北半島に話を持ち込む。そのやり方は原子力船「むつ」の再母港化の動きと同じだった。放射線漏れ事故を起こした「むつ」は長崎県佐世保港で修理し、そこを追い出されると、約束に反して青森県に戻ってきた。新たな厄介者の出現に、青森県庁首脳たちまでが苦い思いで見つめていた。

3

いま考えてみると、成算の薄い夜回り取材ではあった。那須本人はおろか、東電首脳に面識はなかったのだ。だが、新聞社の名刺と科学技術庁担当という肩書はこんなときにこそ使うべきものだった。玄関先で名乗ると、那須本人が出てきて、名刺を見ながら言った。

「ああ、あなたのお名前はお聞きしていますよ。まあ、どうぞ」。私は拍子抜けして、間もなく60歳になる小柄で頭の大きな男の目をじっと見た。電力関係者の周辺を歩いていたものの、東電社長が私を知るはずがない。

――だが、東電総務部は一介の記者のことまで把握しているのだろうか?

私は書斎へと通される間に、那須が総務部総務課長、総務部長、取締役総務部長、常務、副社長と出世してきた「総務閥」の能吏であることを思い出した。

総務閥は、「東電中興の祖」と呼ばれる木川田一隆(元経済同友会代表幹事)から水野久男、平岩、そして那須と続く東電の本流である。彼らの総務部は永田町や霞が関との交渉窓口で、政官界に人脈を広げているだけでなく、新聞社やテレビ局の首脳と定期的に会合を持ち、出版社や雑誌社、果ては情報誌主宰者やフィクサーまがいの人物たちとも接点があった。もっとも当時は、巨大証券会社や銀行までが総会屋やアンダーグラウンド世界と癒着を続ける、酷い時代ではあったのだが。

那須は頑固な内面を隠しているように思えた。小さな身体には不釣り合いなほどの大きな目で、静かに私が何を切り出すのかを眺めている。突然、自宅に乗り込んで、正面から切りつけようという記者を招き入れ、堂々と応対する、その度量に私は気圧されるものを感じた。

新聞記者は自分とは釣り合わない大物に取材する際、慌てることがないよう日頃から訓練を受けている。私の場合は、支局長から「相手に呑まれそうになったら、相手がアレを致すところを思い浮かべろ」と教えられていた。曰く「大臣でも知事さんでもタダの人間だ。メシも食えば糞もする。セックスだって汗をかきかき致すんだ」。だが、那須のそのシーンはどうしても思い浮かばなかった。思いの外に簡素なしもた屋と和室の膨大な蔵書にも驚いていた。

そして、私が自民党への献金問題を持ち出すと、彼はにこやかに、かつきっぱりと否定した。

「業界の政治献金はあり得ませんよ。絶対に」

「幹部から証言を得ているのです」

「いや、その方は何か勘違いされています」

「個人献金といった形ではどうですか?」

「聞いていませんね」

私は自分のディープ・スロート(情報源)に信頼を置いていたので、食い下がり、思いつく限りの質問を繰り返した。だが、那須は踏み込みを許さなかった。もどかしさを感じながら、那須邸を辞し、駅への暗い道で考えた。ディープ・スロートが嘘をついているわけがない。彼が私に嘘をつくメリットがないのだ。しかし、那須や電力会社に具体的に詰め寄れば彼の素性があぶり出されてしまうだろう。電源立地をめぐる世界は小さなムラのようなものだ。

記事にできるような段階ではないのだ。電力ムラの村長はかくもはっきりと否定し、それを突き崩す傍証が少なすぎる。それから、原子力半島の絵図を描いてきた“黒幕”について、那須には聞きただしていないことに気が付いた。献金を巡る質問で頭がいっぱいになり、2つ目の質問は半ば飛んでしまっていた。

それからも一人であちこち取材を続けたが、社長宅への夜回りが知れ渡ってしまい、政治献金問題には踏み込めなかった。

あのとき継続的な調査報道の必要性を痛感したのだ。あるいは複数の記者で組織的に取材をしていれば、違った結果が出たかもしれない。だが、そのころの私はまだ1人で、地方部に在籍する電力業界の“部外者”だった。

そして、読売新聞には科学部や経済部を中心に原発推進を是とし、電力業界の闇を暴くことをタブーとする空気があった。間もなく、私は社会部への異動を命じられ、電力業界とは無縁な東京のサツ回りに投入された。

4

それから約30年が過ぎていた。私は玄関に突っ立ったまま、関電の元副社長の証言を伝える朝日新聞朝刊を読みふけっていた。その記事は1面に続き、2面で〈原発利権を追う 「関電の裏面史」独白〉という連載をスタートさせていた。独白は生々しかった。関西電力社長・会長を歴任した芦原義重が田中角栄に献金するシーンはこうだ。

〈芦原さんが角さんの事務所で1000万円を渡すと、角さんは「おーい。頂いたよ」と昭さんに伝える。昭さんは「そうですかー」と受け取りに来る。1000万円は紙袋や風呂敷で持っていく。大した重さではなかったね。私が昭さんに電話で「行きますよー」と言えば、「いらっしゃーい」と面会を入れてくれた。

芦原さんが直接、総理や党の実力者に渡す資金がありますねん。会社のトップクラスのみ知っている〉

ちなみに、昭さんとは田中の秘書で「越山会の女王」と呼ばれた金庫番の佐藤昭子のことである。

〈官房長官、自民党幹事長、政調会長ら実力者と野党幹部には1回200万~700万円。年間総額は数億円になると思う。私が政治家の実績を伝えると、芦原さんが金額をパパッと決めた。芦原さんと一緒に運んだのは年間14、15人はおるでしょうな。他の役員が運んだ分もあった〉

こんな詳細な証言が、どのように引き出されたのだろうか。

『オーラル・ヒストリー』という著書もある政治学者・御厨貴は、朝日の取材にこう語っている。

〈これほど痛烈な自己批判は過去にない。(中略)内藤氏は電力業界に誤りはないと信じてきたが、原発事故で過信だったと気づいた。関電にとって目指すべきモデルで超えるべき対象だった東電の事故は、裏方仕事が国家のために役立つと信じてきた彼の価値観を画期的に変えたのだろう〉。また取材を指揮した朝日の編集委員・市田隆は、未曾有の原発事故をきっかけに、裏仕事や原発利権の実態を世間に明かすべきだと考える人が出てきた、と特別報道部の著書『原発利権を追う』(朝日新聞出版)で打ち明けている。

告発者は、信頼に足りかつ鮮烈な印象の記者が現れるのを待っていたのである。象徴的な光景がある。

それは2013年の小晦日こつごもりの夕暮れだった。寒風が大阪中に吹き渡った日で、1人の女性記者が赤いマフラーに首を埋めるようにして、目指す邸宅を探し当て、インターホンを鳴らした。朝日新聞大阪本社社会部の藤森かもめという。同僚たちに「かもめ」と呼ばれているが、入社13年目、30代の終わりに差し掛かった中堅記者である。この日もアポなしの突撃取材だった。

「原発と電力会社と政治家のからみを取材しています。内藤さんにお目にかかって、差し支えのないところでお話を聞かせていただけませんか」

彼女の最初の幸運は、内藤本人が出てきたことである。門を挟んで、もう1度来意を告げると、作務衣姿の内藤はしばらく考え、「まず上がりなさい」と告げた。

彼は京都帝国大学(現・京都大)を卒業して、47年に現在の関電に入社した。権力者だった芦原の秘書として政財界工作を担い、83年に副社長に就任する。ところが、4年後の2月26日の取締役会で、「経営の私物化」を理由に、代表取締役名誉会長だった芦原に連なって解任されていた。「関電の二・二六事件」と呼ばれる社内クーデターだが、彼女が取材に訪れたのは、その後に勤めた関連会社相談役を退いて15年が過ぎ、恨みや辛みも和らいでいた時期だったと思われる。

藤森が夜回りをしていたころ、関電の内部や元幹部には、「朝日新聞が各電力会社の政治献金を改めて調べるチームを組んだ」という情報が流されていた。会社の警戒警報である。

――それなのになぜ家に上げてくれたのだろう。

藤森は不思議に思い、後になってその理由を尋ねると、

「いや、大晦日の前日に汚い赤いぼろきれを巻いた記者がいて、気の毒に思ったから入れたんだよ」

と照れたような笑いを浮かべた。アンデルセン童話の「マッチ売りの少女」のような言われ方だったが、赤いぼろきれは、4、5000円で買ったアニエスベーのブランドマフラーで、彼女の「一張羅」だった。

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