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どこかへ|角野栄子

文・角野栄子(作家)

ここではないどこかへ行きたい――。ずっとそう思って生きてきたような気がする。80年あまりも。じゃ、どこへ行くの? それが決まってない。いつも「どこか」なのだ。でも、そこには何かがあるはず。それが見たい。「ここ」がすごく不満だというわけでもないのに、何故かいつも少し不安を抱えていた。その不安が足を前に動かしていたようにも思える。

5歳の頃から一人で遠出をしていた記憶がある。家は東京の外れ、小岩にあった。そこから区をまたいで柴又帝釈天までたびたび歩いた。昭和の初めだから、下駄履きで。今なら、バスで20分以上はかかるだろう。参道には飴屋さんがあって、とんとこ、とんとこ、と調子のいい音を響かせて、細く伸ばした飴を切っている。ぴょーんと跳ねる猿のおもちゃなんかも売っていた。立ち止まってじっと見る。それからまた田んぼの道を、石ころを蹴飛ばしながらジグザグと歩いて帰ってきた。江戸川にかかるながーい橋を渡って、市川の国府台まで歩いたこともある。相当の距離だ。川沿いの低い木(多分さくら)が被さるように伸びた細い道を歩く。そこから登っていくと、私の記憶では陸軍病院があった。回復期なのだろうか、白い病院服を着た兵隊さんが散歩していたりする。この人はどこから来たのだろう? その「どこ」が知りたくなる。

親にはそんな遠くまで行ってきたとは言わなかった。言ってしまったら、何か大事なものがなくなってしまうような気がした。その頃、子どもは外で遊ぶのが普通だったから、親の方も心配もしなかったのかもしれない。叱られた記憶はない。

雨が降ると、落書きをした。ざらざらのわら半紙に、決まってどこかへ続く道から描き始めた。電信柱と線路を欠かさず描いたのが可笑しい。

弱虫でよく泣いたけど、心はいつも落ち着きなく動いていた。じっくり座り込んで考えて計画して、それから事を始めるのではなく、「あ、何かに出会えそう!」と思ったら、せっかちにも、それだけで動き出してしまう。作品を書くときもそう。だからときどき振り出しに戻らなければならないような失敗をする。でも、いっこうに懲りない。

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