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小説「観月 KANGETSU」#57 麻生幾
第57話
納戸(4)
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さっきと同じ光景が目の前に広がっている。
しかし、七海の目的はそれではなかった。
視線は自然とそこへ向けられた。
トキワ本店の紙袋はあった。
しかし中に、あのカバンはなかった。
答えは明白だった。
さっき戻って来た母が持ち出したのだ。
七海はわだかまりを抱いた。
母は、あのカバンを家から持ち出すために、忙しい中、わざわざ戻ってきたということである。
──母にとっちあんカバンはいったい何やち言うん?……。
七海は、その答えを必死に見つけようとした。
ただ、想像するにも、余りにも謎が多すぎる……。
七海はこの数週間のことをあらためて思い出してみた。
自分の身に起こったこと、周囲での出来事、母に対するわだかまり──そのすべては、4週間前に始まる。
しかし、そもそもは、誰かに尾けられているんじゃないか、誰かに監視されているんじゃないか、今思えば、それを感じた時よりすべては始まった。
そして1週間前、同じ勤務先の田辺が自分に襲いかかろうとした。
その翌日、親しくしていた熊坂洋平の奥さんである、良子さんが殺された。
自分を襲おうとしたことを目撃された、その腹いせか脅迫のつもりで田辺が殺(や)ったと警察は重要参考人扱いにしている。
それからだ。
一連の犯行が田辺のものだとしても、その頃から母の言動がいつものものと変わった。
熊坂洋平に対する警察の取り調べについて、いやに拘って、しかも表情を一変させて私に聞いてきた。
また昨日など、熊坂洋平のことに関心がない、といった風の“演技”をすることもあった。
そして、東京で殺されたとされる、真田和彦という人物の存在だ。
母は、その殺人事件の記事を熱心に見ていた。
しかし私が帰ってくると慌ててそのことを隠した。
さらに、さっきの母の一種異様な行動。
──これらはすべて繋がっちょんのか、そうやねえんか……。
突然、1階から物音が聞こえた。
だがその音は、母が戻ってきた時の音とは明らかに異質なものだった。
なにより、玄関が開く音が聞こえなかったのだ。
七海は気づいた。
その音は、できるだけ物音を立てまいとするものだ。
つまりは侵入者……。
思わず唾を飲み込んだ七海は、足手まといとなる松葉杖を急いで近くにそっと置くと、片足と腕の力だけで納戸の奥へと必死に進んだ。
使い古した小机に右足がぶつかり激痛が走った。
七海は手で口を被って声を出すことを堪えた。
何とか納戸の一番奥にある古い形のストーブの裏側に潜り込めた時、忍び足のような音が2階にやってきたことが分かった。
動き回る様子がわかった。
2階の部屋を何かの目的で回っている……。
そのことに気づいた七海は全身の鳥肌が立った。
──自分を探している!
もはや自分は緊急事態に陥っている、と七海は確信した。
明らかに違法手段によって正体不明の人物が侵入し、自分を狙っている!
七海の脳裡には当然その顔が浮かんだ。
──田辺が今、そこにいる!
恐らく、玄関の鍵は、慌てた母が掛け忘れたのだろう。
いつも私には施錠のことを口うるさく言う癖に自分の時になると、こんな時にまったく!
しかし、今、そんな愚痴を考えている場合ではない、と七海は自分を叱った。
恐らく、田辺に見つけられたら、タダでは収まらないだろう。
田辺が自分を落としたと厳密に言えるかどうかなんてもはや意味はない。
絶対にコイツなのだ!
(続く)
★第58話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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