「日本沈没」小松左京の遺言 太田啓之
SF界の巨匠が描いた「憂国の魂」は、現在も受け継がれている。/文・太田啓之(朝日新聞記者)
高度成長の終焉を予言
生誕90年、没後10年を迎えたSF作家・小松左京が今なお熱い。昨年には、新型感染症のパンデミックで人類が滅亡する危機を描いた長編SF「復活の日」(1964年)が「コロナ禍を予言した」と注目を集め、ネットフリックスで「日本沈没」がアニメーション化された。そして現在は、TBSが小栗旬、松山ケンイチ、香川照之らの豪華キャストで「日本沈没―希望のひと―」を放映中だ。こちらもネットフリックスが全世界に配信しており、同社が小松の「日本沈没」を、「世界的に通用する日本発のコンテンツ」と見なしていることの表れだろう。
「日本沈没」は1973年3月、その約半年後の石油ショックによる高度成長の終焉を予言するかのように刊行された。作品の終幕近く、沈没の危機をいち早く察知し、国民を国外に脱出させる道筋を作った田所博士は、沈みゆく日本列島と運命を共にすることを決意する。そんな田所に、政財界の黒幕・渡老人はこう語りかける。
「日本人全体がな……これまで、幸せな幼児だったのじゃな。二千年もの間、この暖かく、やさしい、四つの島のふところに抱かれて……外へ出て行って、手痛い目にあうと、またこの四つの島に逃げこんで……子供が、外で喧嘩に負けて、母親のふところに鼻をつっこむのと同じことじゃ……。(中略)だがな……おふくろというものは、死ぬこともあるのじゃよ……」
「生きて逃れたたくさんの日本民族はな……これからが、試練じゃ……。(中略)外の世界の荒波を、もう帰る島もなしに、わたっていかねばならん……。いわばこれは、日本民族が、否応なしにおとなにならなければならないチャンスかもしれん……」
渡老人の言う「母親のふところのような日本」は、現実世界でもすでに半ば以上「沈没」していると言っていいだろう。19世紀に入り、急速な技術発展・工業化で、欧米の船がたやすく日本を訪れ、軍隊を送れるようになると、日本人は「日本列島にぬくぬくと引きこもる」という選択肢を永久に失った。幕末以降の日本史は、海外の脅威と直面せざるをえなくなった日本が自立を目指してもがき、挑み、あがき、戦い、敗れ、米国主導の世界秩序へと組み込まれていった過程といえる。
小松左京
日本人は「おとな」になれるか
21世紀の現代では米国のプレゼンス低下が続き、中国の台頭が著しい。気候変動の深刻化で自然災害が続発し、日本の穏やかな四季は過去のものとなった。日本列島は地震の活動期に入り、首都圏直下型地震の到来も確実視されている。
そんな中でも、日本は相変わらず国家として自律的な判断を下すことができず、新型コロナウイルス対策は後手に回り、最大級のパンデミックのさなか、「外圧」に負けてオリンピックを開催せざるをえなかった。
「日本人は幼児」という小松の冷徹な「自己評価」は、「日本沈没」の刊行から半世紀近くを経た現在もそのまま当てはまる。日本人は、どうすれば「おとな」になり、厳しさを増す「世界の荒波」の中を乗り切っていけるのか。小松が「日本沈没」という極限状況を想定することで日本人全体に投げかけた巨大な問いかけは、ますます切実さを増しているのだ。
そして、その問いに答えるために、どうしても避けて通れないのが、日本が自律性を喪失した最大の原因である「太平洋戦争の敗北」をどのように受け止め、乗りこえ、後の世代へと語り継いでいくかという、戦後76年を経て、いまだに合意に至っていない問題だ。
小松自身にとっても、先の戦争は自らの実存それ自体を左右するほどの重い体験であり、生前には「戦争がなかったら、私はSF作家にはならなかった」とたびたび発言している。その言葉通り、「日本沈没」「復活の日」、そして22世紀の太陽系をブラックホールが襲う「さよならジュピター」(1982年)と、「破滅の危機」を描き続けた小松の大作SFには、先の戦争の濃い影と苦悩が描き込まれている。
少女が惨殺された経験も
小松は1931年、大阪市に生まれた。著書「小松左京自伝」「SF魂」によれば、子どもの頃から父親に連れられて寄席やチャップリンの映画などに親しみ、「自他ともに認めるひょうきん者」に育ったが、1943年に神戸一中に入学してからは、戦局が悪化する中、あえて悪ふざけをしては教師や先輩の怒りを買い、始終殴られ、飢えに苦しみ、空襲に遭い、米軍機の機銃掃射で死にかけるという「今も心の傷がずきずきと痛む、屈辱的かつ悲惨な戦時」の日々を過ごした。
作家の野坂昭如が小松の作品集「ウインク」に寄せた解説によれば、小松は野坂に対し、焼夷弾で串刺しにされた女学生や、GIに強姦されて死んだ幼い女の子など、凄惨な戦中・戦後の話を語っていたという。
敗戦の時、小松は14歳。「もしあのまま戦争が続いていたら(中略)恐らく武器を取って敵と戦って、戦場に斃(たお)れたに違いない。そう考えると、地面が崩れ落ちるような恐怖が押し寄せた」(「小松左京自伝」)という。
60年に書かれた小松のSF第1作「地には平和を」は、まさにこの時の思いを反映させた作品だった。「昭和二十年八月十五日で戦争が終わらず、本土決戦へと突入したパラレルワールドの日本」で、米軍に対して絶望的な戦いを挑む少年兵を描いた作品だ。
当時の小松は、京都大学文学部イタリア文学科を卒業後、さまざまな職業を転々としつつ、作家を目指していた。著書「SF魂」によれば、「戦争についての作品を書きたい」という切実な思いを抱きつつも、「旧来の文学の方法でこうした(戦争への)重層的な思いを表現しようとすれば、それはたいへんな作業になるし、重苦しくて長いものになるのは自分でも分かっていた。そんな誰にも読まれないような作品を書くのはごめんだ」と、煩悶していた。
そんな日々に光をもたらしたのが、創刊されたばかりの「SFマガジン」との出会いだった。「SFの手法を使えば、現実にあった歴史を相対化することができる。『本土決戦で泥まみれのゲリラ戦を戦っている自分』という、あり得たかもしれないもう一つの未来を描くことで、戦争を経験していない後ろめたさにも落とし前をつけながら書くことができる」(「SF魂」より)。そう直観した小松は、わずか3日で400字詰め原稿用紙80枚の「地には平和を」を書き上げ、「第1回空想科学小説コンテスト」に応募。選外努力賞を受賞し、作家「小松左京」のデビューへとつながった。
「日本沈没」の執筆動機についても、小松は著書「SF魂」で、「僕は『本土決戦』『一億玉砕』という言葉に死を覚悟していた、あの絶望的な日々は忘れることができない」「玉砕だ決戦だと勇ましいことを言うなら、一度くらい国を失くしてみたらどうだ。だけど僕はどんなことがあっても、決して日本人を玉砕などはさせない」と語っている。
一方、小松は執筆にあたって参考にした本として、吉田満著「戦艦大和ノ最期」を真っ先に挙げる。「艦長以下がいかに毅然としていたか。乗組員たちがどのような気持ちで、どう振る舞ったか。沈没のクライマックスを書く上で、いろいろ刺激を受けた」(「SF魂」)としている。
73年の映画製作発表。小林桂樹が田所博士を演じた
日本人への「嫌悪と敬意」
「あまりにも情けない戦争」をした日本への憤りと、「毅然とした自己犠牲」を貫いた日本人への敬意と誇り。小松の内面には相反する2つの思いが渦巻いていた。
特に強いこだわりが感じられるのが、「特攻」で死んでいった人々への思いだ。小松は、20世紀の総力戦をまともに戦うだけのビジョンや戦略をついに持ち得なかった戦前・戦中の日本政府や軍部を嫌悪すると同時に、「特攻」で日本人が示した自己犠牲に対しては、深い共感と敬意を隠さなかった。「日本沈没」では、米軍の日本人救出作戦司令が、メディアのインタビューに応える形でこのように語っている。
「日本の救援組織は、官、民、軍ともに、おどろくほど勇敢だった。——いくつかの実戦で、死地をのりこえてきたベテラン海兵隊員でさえ、二の足を踏むような危険な地点にも、彼らは勇敢につっこんで行った」
「私は、彼らは本質的にカミカゼ国民だと思う。——あるいは、彼らはことごとく勇敢な軍人だというべきかもしれない。——柔弱といわれる若い世代さえ、組織の中では同じだった……」
特攻に赴いた若者たち一人ひとりの、死に際の本当の思いについては、小松も私も知りうる立場にはない。しかし、小松がかつての戦争で「日本の未曽有の危機の中、究極の自己犠牲を行った若者たち」の中に、日本人としての最高の「美質」と「可能性」を見いだしていたことは疑いえない。
「日本沈没」では、現場の救援組織隊員たちだけではなく、政府の中枢にある政治家や官僚たちも、私心を捨てて全力で己の責任を全うし、一人でも多くの日本人を救おうとする。これについては「哀しいほど実感が涌かない」(評論家の長山靖生氏「日本SF精神史」)との指摘もあるが、現実を単になぞるだけならば、「日本沈没」も先の戦争のような「バッドエンド」で終わるしかなかったはずだ。
政治学者の片山杜秀氏が著書「見果てぬ日本」で指摘したように、小松が「日本沈没」で試みたのは、未曽有の国難に対して、最前線で立ち向かう人々だけではなく、政府の首脳の一人ひとりに至るまでが、かつて特攻に赴いた若者たちのような自己犠牲の精神を貫くのであれば、日本は「真の総力戦」を完遂し、「おとなの民族」へと脱皮しうるかもしれないという、壮大な思考実験だったのではないか。
片山氏
「さよならジュピター」と戦争体験
「さよならジュピター」は22世紀の未来、太陽に突入してくるブラックホールの進路を変えるため、人類が総力を挙げて木星を爆発させ、ブラックホールの進路を変えようとする物語だ。そこには「太陽系を救うために消えてゆく木星」と「計画を成功させるため、木星と運命を共にする主人公英二」という「二重の自己犠牲」が組み込まれている。
福島県立医科大教授でSF研究家でもある下村健寿さんによれば、小松は晩年、下村さんに対して「『さよならジュピター』には自分の戦争体験と、その時の『死』に対する想いが反映されている」と明かしている。
同作のラストシーンでは、英二の盟友でもあった科学者カルロスが、小惑星の上に建てられた英二らの墓を訪れ、同行した女性学者ミリーに、「もし、ぼくがあなたより先に死ぬような事があったら……ぼくの墓を、この小惑星の上につくってくれないか」と頼むが、ミリーは「いや!」「絶対にいや!」「好きな仲間たちのお墓をつくるのは、もうごめんだわ」と拒絶する。カルロスの言葉も、ミリーの言葉も、特攻で亡くなった若者たちへの小松の思いを代弁しているのだろう。戦争がもう少し続けば自分も同じ運命をたどったであろう人々への深い哀悼と連帯感、そして「あんな犠牲を強いられるのはもうごめんだ!」という強い拒絶感——。
一方、「地には平和を」では、小松は歴史の改変をもくろむマッド・サイエンティストにこんな過激な言葉を言わせている。
「日本の場合、終戦の詔勅一本で、突然お手あげした。その結果、戦後かれらが手に入れたものは何だったか? 二十年をまたずして空文化してしまった平和憲法だ!」
「そんなことなら、日本はもっと大きな犠牲を払っても、歴史の固い底から、もっと確実なものをつかみあげるべきだった。(中略)日本という国は、完全にほろんでしまってもよかった。国家がほろびたら、その向うから、全地上的連帯性をになうべき、新しい“人間”がうまれて来ただろう」
自ら直接執筆することがかなわなかった「日本沈没」の第2部についても、自伝の中で小松は、国土を失った日本人たちが「無領土国民、民族としての伝統的なアイデンティティを維持しながら、むしろ18世紀のナショナリズムの誕生以来の人類社会の停滞性を緩和していく大きな役割を果たすんじゃないか」との構想を語っている。
なぜ「SF」だったのか
戦争への強い拒絶感と犠牲者への深い哀悼。その一方で「戦争、あるいはそれに匹敵するほどの災厄に総力で立ち向かうことが、国家の枠を超えた新たな日本人を生み出す」という信念——。小松の内面は明らかに矛盾し、分裂していた。
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