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小説「観月 KANGETSU」#74 麻生幾
第74話
スナップ写真(1)
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「それと、観月祭の2日目に大原邸で行う、今回が最初の七島藺(しちとうい)工芸の実演、そっちの準備はどう?」
「バッチリ大丈夫です」
詩織が満足そうに大きく頷いた。
父が趣味にしていた杵築の伝統工芸「七島藺」のマイスター(名人)の資格を持つ七海は、「大原邸」でガイドをするアルバイトの他、大学での仕事の合間を縫って、時折、あちこちでワークショップを主催していた。しかし、杵築の武家屋敷で、しかも観月祭で観光客を前にして実演を行うのは初めてだった。
七海は一度腕時計に目を落としてから言った。
「今日はまず、大原邸で行灯を待ち受け、行灯の掃除や組み立ても私がすべてやります。大原邸担当の先輩にあたる真弓さんには本当に迷惑かけちゃってますので──」
七海はそう明るく言って、「塩屋の坂」の反対側にある「酢屋の坂」の中腹ほどの右手を見上げた。
そこには大原邸の大門(玄関)から裏手にある白黒の大きな土蔵と、主屋(しゅや)の入母屋(いりもや)造り茅葺(かやぶ)き屋根が間近に見えた。
「詩織さんこそ、これから大変でしょ!」
詩織へ視線を戻した七海が言った。
「毎年のことだけど、トラブルってつきものね。紙の行灯の一部の修復ができてなくて。朝から飛び回ってもう暑くて暑くて。だから今日はこれ1枚──」
詩織はそう言って、観月祭の漢字がプリントされたブルーのTシャツの首元をパタパタさせた。
「さすがにそれじゃあ寒いんじゃ……」
七海は呆れた。
「いいの。じゃあ、よろしゅう」
そう言って詩織が市役所の方へ歩きかけた時、ふと立ち止まって七海を振り返った。
「そうそう、先週、私に言ってた、東京に来ないかって誘われている件、どちらか決めたの?」
「いえ、それがまだ……」
七海は言い淀んだ。
「こっちは正直言って杵築に残って欲しいけど、結局、あなたの人生なのよ。早く決めちゃいなよ。時間の無駄、無駄──」
いつもの、意志の強さを物語る詩織の姿には颯爽としか言いようがない、と思った七海は羨望の眼差しでその背中を見送った。
そうしてから七海は、谷町通りをふと見渡した。
観月祭まであと2日だというのに、商店や飲食店の店先に観月祭の開催を告げるポスターが貼られているほかは、派手な飾り物があるというわけではない。
しかし、そのポスターだけでも七海にとっては心躍らされるものがあり、観月祭まで“あと2日”という響きもまた落ち着きをなくす気分にさせていた。
その時だった。
七海の脳裡に、その匂いと音が蘇った。
屋台で焼かれたイカや焼きそばが焦げる匂い……どこかの武家屋敷で奏でられている篠笛(しのぶえ・日本の伝統的な竹造りの木管楽器)の音色……。
そしてその姿もまた同時に頭の中に浮かんだ。
浴衣姿で手を繋ぐ七海が見上げたそこには、着物を着た父が自分に向けてくれた満面の笑みがあった。
東京都 JR総武線
電車の揺れに大きくバランスを崩した砂川は、ぶつかった隣に立つ男性に謝った。
「主任、やはり、梶原係長を説得して、人手をかけるべきじゃなかったですか?」
砂川が顔を歪めた。
「お前、まさか、その若さで、歩きすぎて足にきたのか?」
つり革に捕まる萩原がそう言って苦笑した。
「いえ、そんなことなんてありません!」
砂川は真顔で否定した。
「とにかく、捜査本部の今の流れは、殺された前日の夜、防犯カメラに映っていた、最寄りの東急多摩川線の下丸子駅改札口の前で真田和彦と言い争いになった若い男だ」
萩原が腹立たしい口調で言った。
「デスク主任の梶原警部補が引っ張っているアレですか。ベテランの梶原さんにはイッカチョウ(捜査第1課長)も一目(いちもく)置いていますからね」
砂川が萩原を見つめながら言った。
「ベテランというのは危ういところもある。鋭い筋読みで成功することもあるが、今回のように間違った見立てで全部を誤った方向へ引き摺っていってしまう──」
「ではやはり主任は──」
砂川が萩原の顔を覗き込んだ。
「とにかく、我々は、捜査圏内に誰も入れていない。間違いないのはそのことだ」
萩原の言葉に砂川は大きく頷いた。
(続く)
★第75回を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。