保阪正康『日本の地下水脈』|疫病とファシズムの足音
昭和史研究家の保阪正康が、日本の近現代が歩んだ150年を再検証。歴史のあらゆる場面で顔を出す「地下水脈」を辿ることで、何が見えてくるのか。第一回のテーマは疫病とファシズム。明治以降、猛威をふるったコレラやスペイン風邪。日本の疫病対策は“軍事”に収れんする形で進んでいた。/文・保阪正康(昭和史研究家)
保阪氏
疫病の歴史的教訓を振り返る
明治以降の近現代史を振り返ると、日本という国家が形成される過程において、疫病との戦いがきわめて重要な意味を持っていたことがわかります。
ひとつ注目すべきは、疫病に対して人類が取りうる最強の対抗策はファシズム的な制度である点です。自由な移動や集会を禁止し、経済活動も規制して、私権を大幅に制限する――今回の新型コロナウイルスの封じ込めにおいても、より強い制限を国民に課した国家が大きな成果を上げています。日本で行われた緊急事態宣言とそれに伴う各種の「自粛要請」は罰則規定がなく、中国や韓国のそれに比べて強制力も弱いものでしたが、それでもファシズム的な側面を持つことは否定できません。
もちろん、私は今回日本政府がこれらの措置をとったのは、現状ではやむをえないと考えます。しかし問題は、こうした措置がファシズム的な素地を内包していることに、指導者や国民がどこまで自覚的であるかです。いつかコロナが終息した時に、ファシズム的な社会システムだけが温存されていたというのでは、私たちは歴史に何も学んでいないということになってしまいます。
そうならないためにも、政治指導者は「一時的に我慢してもらう代わりにウイルスとはこう戦うのだ」という明確な意思と目標を国民に示さなくてはなりません。また、われわれ国民の側は、シビリアンとしてその統治の在り方に自覚的でなくてはならない。緊急事態宣言がもつ「窮屈さ」と、それによって「人間性の喪失」が社会のそこかしこに現れるということを、解除後もしっかり記憶しておかなければなりません。
明治以降、日本の国家体制の構築は、すべてが「軍事」に収斂するプロセスの中で行われました。たとえば経済、産業の発展は軍と密接に結びついた政商によって主導され、日清戦争以降は戦争そのものが国家的ビジネスとしての性質を色濃く持つようになります。戦争で得た賠償金は、さらに軍を強化するために投じられました。欧米列強に少しでも早く追いつくために、そのような道を選択せざるをえなかったという事情もあります。
しかし、すべてが軍事に収斂する国家体制において、政治と軍事の関係性には矛盾が内包されていました。欧米列強のような文民統制の歴史をもたなかった日本は、軍事の下に政治が隷属するという、いびつな状況が進みます。すると必然的に個人の自由が制限された窮屈な、市民意識の希薄な社会となりました。その行きついた先は、まさに「人間性喪失」の世界そのものでした。
本稿では「明治10年のコレラの流行と大久保利通」「大正7年のスペイン風邪流行と原敬」「太平洋戦争下での疾病対策」という3つの時代において、日本の国家指導者たちがどう疫病と戦い、国民生活がどう変わったかを具体的に見ていきます。日本において近代国家はどのように成立したのか、そして疫病に対してどう対処したのかを振り返ることで、このコロナ禍において私たちが見失ってはいけない歴史的教訓が浮かび上がってくるように思います。
開国が感染症を招いた
日本は開国とともに海外から流れ込んだ疫病に苛まれます。1868年に誕生した明治新政府にとって、最も厄介な伝染病はコレラでした。
激しい下痢と嘔吐を繰り返し、脱水症状によって死に至らしめるコレラの最初の流行は、文政5(1822)年。まだ鎖国の頃ですが、外の世界との玄関口だった長崎から上陸したと考えられています。
安政5(1858)年には、江戸の街がコレラの脅威に襲われます。感染源は米国ペリー艦隊の旗艦ミシシッピー号で、中国を経由して長崎に入った際、乗員にコレラ患者が出ました。この年、日米修好通商条約を含む5カ国との不平等条約が結ばれ、それまで鎖国政策を続けて来た日本では国民に不安が広がりました。そのうえ外国から伝来した感染症の流行が重なったのです。江戸の死者数は数十万との記録があるほどで、「その怨みは黒船や異国人に向けられ、開国が感染症を招いたとして攘夷思想が高まる一因になった」(石弘之『感染症の世界史』)ともされています。
明治10(1877)年、西南戦争の折りには、海を隔てた清国でコレラの流行が始まりました。大久保利通らが率いる新政府は内務省衛生局を使ってこれに素早く反応します。過去のコレラの流行からも明らかなように日本は海外からくる未知の疫病に対し、非常に脆弱だったからです。加えて日本に入港する外国艦船を検査しようにも英国公使からは不平等条約をもとに拒否もされます。
大久保利通
清国でのコレラ流行を外務省からの報告で知った衛生局長の長与専斎らが中心になって早急に対応策をまとめます。8月に内務卿・大久保利通の名で「虎列剌(コレラ)病予防法心得」という通達を府県に発しました。この通達には「石炭酸による消毒や便所・下水溝の清掃などの予防対策」「患者発生の届け出」「避病院の設置」「清潔方法・消毒方法の施行」などが記載され、その第13条では「『虎列剌』病者アル家族」で看護に当たる者以外は、他家に避難させて「妄(みだ)リニ往来」することを許さず、とある。今の新型コロナの隔離政策とほぼ同じことを目指しています。この布告は近代日本における防疫の嚆矢といえるでしょう。西洋医学は明治2年に許可されますが、それを参考にしてのことでした。
北里柴三郎の学会発表
しかし大久保らの懸念は的中し、コレラは日本に上陸して猛威を振るいます。「日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見、また破傷風の治療法を開発するなどした北里柴三郎は1887年に行った「日本におけるコレラ」というウィーンでの学会発表で、その時の流行を次のように報告しています。
〈1隻のイギリスの軍艦がこの不気味な客人をわれわれの元によこしてきた。その船は9月8日に厦門(アモイ)(清国)を出て長崎に到着した。航海の途上、1人の水夫(乗組員)がコレラになり、到着の寸前に死亡した。彼は長崎の外国人墓地に葬られた。(中略)しばらくしてこの病気は長崎を超えて九州全土に広がった。九州の一部は当時西南戦争に見舞われていたため、流行病にとってはよりいっそう好都合な地ということになった。そのためそれに参戦した多くの兵隊と警官たちがコレラに罹患し、流行は彼らによって神戸、大阪、京都その他の地へとさらに広がった。(中略)この時の流行では、日本全体で1万3710人が病気にかかり、7967人が亡くなった(58%)〉
ここで重要なのは、全国から集められて西南戦争に従軍した兵士と警官たちがコレラに罹患し、彼らが故郷に帰ったことで感染が全国に拡大したと指摘されている点です。
西郷隆盛
西南戦争は、不平士族が中心になって維新の立役者の西郷隆盛を担いだ武力反乱で、日本最後の内乱でした。政府軍には明治6年の「徴兵令」によって集められた平民出身の兵士が多かった。彼らの登場によって戦争を生業とする士族(武士)の時代は完全に終わりを告げ、日本は欧米列強の軍事制度に範をとり、近代的な軍隊を整備していくことになります。
その草創期の段階で、疫病が軍における最大の敵として立ちはだかり、なおかつ軍が疫病の拡散役となったことは、その後の行く末を考えるうえできわめて暗示的です。
スペイン風邪の大流行
明治から大正期、「富国強兵」を目指す政府にとって何より重要なのは、国民の中から「良き健兵」を育成することでした。軍事の側からそうした要求があり、内務省の側もいわば「甲種合格(心身共に兵士に向いている)」に値する青年層を育成する、あるいはその数を減らさないという視点で、国民の保健・衛生行政に関する施策を講じてきました。
コレラの次に日本で感染症が拡大したのは、大正時代のスペイン風邪です。この新型インフルエンザウイルスは第1次世界大戦下の世界中でパンデミックを引き起こしました。そのため休戦を早めたとされます。
スペイン風邪は3度日本を襲いました。第1波は大正7年5月から7月。第2波は同年10月から翌年5月ごろまでで26万人が死亡しました。そして第3波は大正8年12月から翌年5月ごろで、死者は18万人以上にのぼったのです。
第1波と第2波がやってきた大正7年は「平民宰相」と呼ばれた原敬が内閣総理大臣に就任した年でもあります。当時の原敬内閣の閣議では、床次竹二郎内相が国民に伝える予防規則を報告しています。
原敬も罹患した
実はその原自身も9月の政権発足から1カ月もたたないうちに、スペイン風邪に罹患したと『原敬日記』に記されています。
原敬
〈(10月)26日 午後3時の汽車にて腰越別荘に赴く。昨夜北里研究所社団法人となれる祝宴に招かれ其席にて風邪にかかり、夜に入り熱度38度5分に上る。
29日 午前腰越より帰京、風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙(スペイン)風と云ふ)なりしが、2日間斗りにて下熱し、昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せしなり〉
現在であれば英国のボリス・ジョンソン首相のように即刻隔離され、執務停止だったでしょうが、原がどこまでこの未知のウイルスが引き起こす事態を深刻にとらえていたかは不明です。軽症だったのでしょう。
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