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斎藤佑樹 涙に濡れたハンカチ 石田雄太

最後の登板で涙腺を崩壊させた栗山監督の言葉。/文・石田雄太(スポーツジャーナリスト)

最後のピッチング

斎藤佑樹は溢れる涙を拭おうともせず、ベンチに座っていた。

2021年10月17日、札幌ドーム。すでに今シーズン限りでの引退を表明していた斎藤は、この日、現役最後のマウンドへ上がった。プロ11年、これが89試合目の登板だった。右ヒジと右肩を痛めて思うように投げられずにいた斎藤が1軍の試合で投げたのは2年ぶりのこと。1人の打者を相手に7球を投げて、彼のプロ野球人生は幕を下ろした。初球は129キロのストレート、ラストボールはフルカウントからアウトコースいっぱいを狙って投げた125キロのツーシーム。真っ向勝負を挑んだ結果は、フォアボール……試合後、斎藤はこう言った。

「結局、僕が勝負していたのはそういうところだったんだなと思いました。バッターとじゃなく、自分との勝負。一球一球、声を出して投げなければ気が紛れないくらい、肩は痛かった。それでもマウンドへ上がれば投げられちゃうし、気持ちも高ぶってくる。気持ちと現実のギャップは最後まで埋められませんでした」

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斎藤佑樹

投げたい。でも肩が痛い。だから痛くない投げ方を探す。そうするとイメージから程遠いボールしか投げられなくなる。そのギャップ——プロに入ってからの斎藤は、バッターと勝負する前に自分と戦わなければならない日々と向き合ってきた。

そのことを誰よりも理解していたのがファイターズの栗山英樹監督だった。最後のピッチングを終えた斎藤はベンチの奥で満面の笑みを浮かべていた。そこへ寄り添ったのが栗山監督だ。斎藤に言葉を投げ掛けた瞬間、斎藤の涙腺が決壊した。力強く背中を叩き、肩を抱く。時間にしてほんの十秒。斎藤はその言葉を明かさなかったのだが、じつはこのとき、栗山監督は斎藤にこう言った。

「緊張したか。真剣勝負だからこそ佑樹の持ってるものが引き出されたな。本当によかったぞ。ありがとう」

甲子園再試合で勝てなければ

15年前の夏——斎藤は甲子園で7試合に先発、69イニング、948球を投げて名門、早実に夏の初優勝をもたらした。

決勝の相手は、駒大苫小牧だった。北の王者は73年ぶりの夏の甲子園三連覇を目指し、エースの田中将大は超高校級右腕と騒がれていた。斎藤はそんな田中と対峙し、178球をひとりで投げ切って延長15回、引き分け再試合へと持ち込んだ。中学3年のときに斎藤を初めて見て才能に惚れ込んだという和泉実監督は、斎藤の成長を噛みしめていた。

「春のセンバツで負けたとき、斎藤は悔しくてしょうがないと言いました。準々決勝で横浜高校にボロ負けしたんですけど、早実にしてみれば荒木大輔以来の全国大会ベスト8です。普通の子なら達成感のようなことを口にするものですが、斎藤は開口一番、『全然、ダメです』と言った。もともと大口を叩いて自分にプレッシャーをかける男ですけど、『こんなんじゃ、夏の甲子園で勝てません』と言い切りました。そういう向上心が彼にスポンジのような吸収力の土台を作ってくれたんでしょう」

高校2年の秋、斎藤は明治神宮大会で駒大苫小牧と対戦して敗れている。早実は4回途中から登板した田中に17個のアウトのうち、13個を三振で奪われて、完璧に封じ込められた。斎藤は試合後に乗り込んだ荷物車の中で、和泉監督とこんな話をしている。

「苫小牧に勝てないと甲子園で優勝できねえぞ。どうやって勝つ?」

「1対0です」

「おっ、俺も1対0なら勝てると思う。1対0を目指して頑張ろうや」

明確な目標を掲げて勝ち上がり、甲子園の決勝で引き分けた。そもそもこの年の早実は西東京大会の初戦、都昭和に3対2と薄氷の勝利を掴んだところから辛勝が続き、甲子園の2回戦で大阪桐蔭を大差で下して、俄然、注目を集めたダークホースだった。斎藤が振り返る。

「決勝で引き分けて宿舎に帰ったとき、夜のミーティングがあったんです。あのとき、和泉監督が僕たちに言った言葉は今でも忘れられません。正直、引き分けた時点でチームの中には僕も含めて『あの駒大苫小牧に1対1だ』『よく頑張ったよ』『明日は楽しくやれればいいよな』と、緩んだ空気がありました。そうしたら和泉監督がものすごい剣幕で『明日は絶対に旗を獲りに行くぞ』と怒って……監督ってすごく優しくて温厚なんですけど、たぶんもう1個上のスイッチを入れようとしたんでしょうね。あのときは和泉監督の言葉でみんな、ピッとなりました。もしあの一言がなかったら僕たちは勝てなかったかもしれません」

和泉監督はこうも言った。

「今まで出会った子の中で、斎藤が3年間で1番伸びたと思っています。入学したときから『すげえな』というキレのあるボールを投げていましたけど、負けず嫌いだからすぐに試合でキレちゃう。心をコントロールできない場面をたくさん見てきました。だけどあの夏の甲子園での2週間は、精神的な苛立ちを完璧に封じ込めていた。そうさせたのは彼の一途な向上心だったと思います」

斎藤もこう話す。

「和泉監督は答えを言わずに僕が行きたい方向へ導いてくれる、そんな存在でした。あの再試合で勝てていなければ大学での優勝もなかったかもしれないし、プロ野球選手になっていないかもしれない。その後の人生で1度も1番になれないまま終わっていたんじゃないかという気がするんです。あそこで勝つか負けるかの最後の気持ちの一押しというのは、あの場所へ行った人間じゃないとわからないと思います」

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948球を投げた甲子園

フィーバーは嫌だった

2006年8月21日。駒大苫小牧との決勝再試合は、早実が4対3と1点差に迫られながら9回表もツーアウトとなった。ここで田中が打席に入る。斎藤はスライダーを続けて、田中を追い込んだ。そして4球目、147キロが高めに外れてボールになる。そのスピードに甲子園がどよめいた。延長15回を含む4連投、すべてを1人で投げ抜いて、この夏の945球目に投げた147キロは、見るものの度肝を抜いた。

「あの147キロは投げられて当然のボールでした。最後、田中に投げた144キロも、自分の中で150キロは出ていたと思います」

斎藤はストレートで田中を3振に打ち取って優勝を決めた。その瞬間、斎藤は両の拳を握りしめ、クルッと振り返って雄叫びを上げた。

「優勝の瞬間、センター方向に向かってガッツポーズしたのは松坂(大輔)さんのイメージです。僕がずっと目指してきたのは横浜高校の松坂さんでしたからね。でもじつは、もしアウトカウントを間違えてガッツポーズしていたら恥ずかしいじゃんって思っていたんですよ。松坂さんのときはあっという間にみんなが集まってきた印象があったのに、『あれっ、まだ来ないぞ』って(笑)」

早実が夏の甲子園で初優勝を遂げ、そのど真ん中にいた斎藤佑樹は一躍、時の人となった。ハンカチフィーバーはとどまるところを知らず、凱旋したハンカチ王子を一目見ようと、東京駅には約1000人、早実のお膝元である国分寺には約3000人もの人が集まる騒ぎとなった。

「いつもは閑静な住宅街なのにたくさんの人が集まって、テレビカメラもいて、優勝したらこういうもんなんだろうなと思っていたんです。でも、翌朝にもまだカメラマンがたくさんいて、その日から学校の先生が送り迎えをしてくれるようになりました。あれはないと思いましたね。有名になりたくてなったわけではないし、聖人君子のような生活をしていたわけじゃなかったから、ものすごくイヤでした。今まで買い食いしていたパン屋さんにも行けなくなって直行直帰の生活です。周りも『斎藤だけを置いていけないよ』ってすごく気を遣ってくれました」

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大学の先輩に叱られた

 甲子園で優勝することを目標としていた一高校生が、あっという間に日本でもっとも顔と名前を知られたハンカチ王子に祭り上げられる……あの頃の自分を、今の斎藤はどんなふうに記憶しているのだろう。

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