希望がなんだ、夢がなんだ。|くつざわ(@kutsuzawa_desu)
わたしたちは、なぜTwitterをやるのか。140文字という制限ある「ことば」に、何を乗せて、誰に届けたいのか。この連載では、日々“140文字の言霊”と向き合う人びとが、「自分にとってTwitterとは何か?」というテーマで文章を綴ります。第5回の筆者は、くつざわさん(@kutsuzawa_desu)です。
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「Twitterとわたし」。この連載のテーマである。
空虚とはまた違うが、何も見えなかった。何も書き出せない。
思考を巡らせ枝を生やし、そこから葉が生まれ、朽ち、積もりすぎた枯葉で地面が見えない。地に足をつける場所さえ見当たらない。だから「何も見えなかった」のだ。脳が埋もれていた。等身大の文章を書く能力も、若さゆえの気概も、枯葉を燃やす熱も、今の私は持ち合わせていない。
この原稿だって、書いては消してを繰り返した。
かつては持っていた希望や期待、これらが枯葉となり脳を埋め尽くしてしまった。夢を見るほど現実と向き合うことになる皮肉を、ここで文章にしたい。
夢見る人からすればいい気分になるものではないと思う。
そもそも私は愛とか、希望とか、夢とか、そういうの全部嫌いだ。それを無垢に語れる人も苦手だ。こんなことを言ってしまう自分に劣等感を抱き、惨めに思えてくるから、という自分本位な理由にも呆れる。
他人にも自分にも期待なんかしない方がいいし、希望なんて綺麗じゃなく泥臭いし、努力が報われる人は限られてるし、描いた夢は叶わないことの方が多いし、愛だけじゃどうにもなんないことで溢れてるし、スポットライトが当てられていないだけでこの世は絶望と失敗で溢れている。そもそも誰でも夢が叶えられていれば資本主義は成り立っていない。
「夢は追いかければ叶う」「努力は報われる」「希望を持って生きれば道はひらける」叶って、報われて、曇りない道を進めるごくごく少数の声。
人間はこういう非現実的でキラキラした話が好きだ。しかし、一般に成功者として括られた人間の言葉は、聞き手の視界に蓋をする。
例に漏れず、私もキラキラが好きだった。夢に向かっていれば叶う、努力は報われる、失敗してもなんとかなる、こんな人になりたい、この人の成功談が聞きたい。冷静に考えればすごく盲目的になっていたが、キラキラした思考でいられたのはTwitterのおかげでもあった。
140字という制限の中に収められたわかりやすい美談、顔見知りがリツイートした成功者の取材記事、誰かに勇気を与えるような数百もの「いいね」がついた言葉の数々がタイムラインに流れ、それを輝いた眼で見ていた。
それで、幸せだったのかもしれない。
初めてTwitterというものに触れたのは、高校一年生、雨が上がって普段よりジメっとした夏の日だった。高くもない自転車の鍵を失くしたことを初めて投稿すると、画面越しに友人達が励ましの言葉を飛ばしてくれ、8つの「ふぁぼ」がついたことに喜んでいた。
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