
小説「観月 KANGETSU」#45 麻生幾
第45話
合同捜査(5)
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別府総合病院
「まだ痛みは酷い?」
白衣の上に聴診器をぶら下げた30代半ばほどの医師が微笑みながら訊いた。
「ちょっとまだ……」
包帯でグルグル巻となった右の足先を、七海はそっと床につけてみた。
「痛っ!」
七海は小さく声を上げた。
「ああ、無理をしないで」
医師が慌ててそう言って続けた。
「恐らく、痛みは2日間くらいは続くでしょう。松葉杖(まつばづえ)は病院からしばらく貸与しますが、やはりお一人ではね。ご家族の方へのご連絡は?」
七海の脳裡に母の顔が浮かんだ。
しかし、心配をかけたくない、という言葉も同時に頭の中に浮かんだ。
でも、このまま帰宅してもどうせ話さなくてはならないことに気づいた。
「自宅は杵築市内ですので、今日はタクシーで帰ります」
その間に、母に連絡しようと思った。
七海はハッとしてそのことを思い出した。
近くのカゴの中に畳んでおいてある上着を手にして、ポケットを探った。
七海の手に、期待していた感触があった。
スマートフォンを取り出した七海は、まず、仕事関係の電話やメールの着信をチェックした後、涼からのメールを探したがそこにはなかった。
「先生、すみません、別府中央署の者ですが──」
磯村刑事が警察手帳を再び掲げた。
「ご存じの通り、事件性があるもんやけん、こん後(あと)、島津さんからは、警察署でさらに詳しい事情をお聞きしようち思っちょんけんど、それは何時頃が──」
「今日は無理ですね」
医師がキッパリ言った。
「無理?」
怪訝な表情でそう言った磯村刑事が黒木刑事と顔を見合わせた。
「強い鎮痛剤を投与しましたので、これから眠気が襲ってくるかと思います」
医師が無表情のまま言った。
「では──」
磯村刑事が医師に顔を向けた。
「まあ、明日、島津さんのご自宅に伺(うかが)うことにされた方がよろしいかと」
そう言い切った医師は、もう一度、七海を振り返った。
「今、言ったように、ちょっと眠たくなるかもしれない。そんな状態では帰宅時危ないので、3時間ほどここでゆっくりしていった方がいいです。その頃、また来ます」
医師はそう言って七海の元を離れ、磯村刑事たちに軽く会釈をしただけで処置室を後にした。
「明日は、やっぱし勤め先を休まれて、ご自宅ですね?」
そう訊いたのは黒木刑事だった。
「自宅から杵築駅まで車を使っているものですから、この足ではアクセルもブレーキも……」
七海は恨めしそうな表情で右足の包帯へ目をやった。
「では、明日の朝、また電話いたします」
2人の刑事が目配せしてから立ち去ろうとした時、七海はたまらず声を掛けた。
「そちらでは、杵築のパン屋の奥さんが殺された事件を捜査してらっしゃるんですよね?」
磯村刑事と黒木刑事は顔を見合わせた。
「それが何か?」
黒木刑事が怪訝な表情で聞いた。
「いや、いいんです」
七海は慌ててそう言ってから背を向けた。
刑事たちが帰ってからというもの、七海はそのことが不満でならなかった。
大学の階段で突き落とされた時も、また、2人の刑事がやってきた時にしても、涼から一度も連絡が入らないのはどうしたっていうの?
同じ刑事課ならば、いくら特別捜査本部の仕事が忙しくても気づいてもおかしくないはずである。
昨日ぎくしゃくしたことが尾を引いているとは思えなかったし、思いたくもなかった。
(続く)
★第46話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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