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連載小説「李王家の縁談」#7 |林真理子

【前号まで】
韓国併合から十一年経った大正十年(一九二一)。佐賀藩主の鍋島家から嫁いだ梨本宮伊都子妃には、方子という娘がいた。伊都子妃は奔走の末、韓国併合後に皇室に準ずる待遇を受けていた李王家の王世子、李垠と方子の婚約にこぎつけた。そして、一年の結婚の延期を経て方子は懐妊する。

★前回の話を読む。

 大正十年は、伊都子(いつこ)にとって大きな不幸と大きな幸せが訪れた年であった。

 六月十八日に、鍋島の父、直大(なおひろ)が七十六歳の生涯を終えたのである。

 最後の藩主であった直大は、まさに維新のまっただ中に生きた。戊辰戦争を戦った後は、最初の藩知事となり、岩倉具視使節団の一員としてアメリカに渡った。ロンドンでも学んだ父は、最初にヨーロッパを見た日本人の一人である。後に外交官として活躍したのは当然だったろう。

 サムライの精神を忘れず、最先端の広い知識と見識を持った偉大な父。伊都子はどれほど敬い、慕ってきたことだろうか。

 父には亡くなった前妻との間に長女も嫡子もいたし、外腹(そとばら)の子どもも五人いた。しかし子煩悩で家庭を大切にし、伊都子や妹たちを大層可愛がった。

 伊都子は自分と性格が似ているとして、ことに目をかけてくれたものだ。

 ふつう皇族妃が、実家に行く例はめったになかったのであるが、何かあると伊都子はすぐに馬車を永田町の鍋島邸に走らせた。李王家王世子(おうせいし)との縁談を打ち明けた時も、最初は驚いたものの、

「日朝融合のために、それも一案かもしれぬ」

 と言ってくれた父の言葉がなければ、これほど大胆に話を進めていたかわからない。

 父のことを思うと、自然に涙が溢れてくる。日ごと大きくなっていく方子(まさこ)の腹を見るたび、

「父上は、どうしてもう少し長生きしてくださらなかったのか」

 とつぶやかずにはいられない。そうしたら曽孫の顔を見せてやれたのだ。

 が、伊都子が悲しんでいるうち、またたくまに例年よりも暑い夏がやってきた。臨月の大きなお腹を抱える方子のために、伊都子は製氷会社から、おそろしく高価な氷柱を届けさせた。これを枕元に置いておくだけで、温度がまるで違うのだ。

 そして八月十八日、午前二時、待ち受ける伊都子と守正王の元に、男児誕生の知らせが届いた。二人ですぐに王世子邸に向かった。伊都子は三十九歳にして祖母になったのである。

 寝台には、取り上げられたばかりの赤ん坊が眠っていた。見れば見るほど、整った顔をしている。目元が方子そっくりで、伊都子は顔がほころんでくる。

 なんという手柄を娘は上げたのだろうか。日朝融合を、こうして赤ん坊で形にしたのである。この子は、日本と朝鮮二つの高貴な血をひくのだ。まるで宝石の結晶のような赤ん坊ではなかろうか。

「まあさん、よくおやりになりました。なんとあなたはおえらいのでしょう」

 産後の疲れも見せず、半身起き上がっている方子に声をかけずにいられない。自分がかなわなかった「男子出産」を、方子はらくらくと為しおおせたのだ。

 方子が朝鮮の王世子と結婚した時、

「子どもが出来ない体なので、日本の皇太子妃候補からはずされ、朝鮮の王子に下げわたされた」

 という噂がかなり広まり、伊都子はどれほど口惜しい思いをしたことだろうか。そうした輩に見せてやりたい、この丸々とした元気な赤ん坊を。生まれたてだというのに、鼻筋のとおった赤ん坊を。

 王世子も赤ん坊のそばを離れない。眠っているといっては微笑み、泣き出したといっては喜ぶ。肉親の縁に恵まれなかった彼が、初めての子どもを得て、どれほど喜んでいるか、伊都子は手にとるようにわかった。

 気がつくと、時計はもう朝の八時をまわっている。皆で五時間近く赤ん坊を飽かず眺めていたことになる。

 その後、梨本宮家のシトロエンに乗った伊都子は自宅で守正を降ろし、永田町の実家に向かった。父の位牌に男児誕生を報告したのである。手を合わせていると、つくづく安堵がこみ上げてくる。王子が生まれたことによって、朝鮮王家はこれからも存続するのだ。国は日本のものになったとしても、李王が朝鮮の王であることは間違いない。方子は今日、未来の王を産んだのである。

「父上さまのご加護をいただいたのでありましょう。まことに有難うございます」

 いつのまにか傍には、栄子(ながこ)も額(ぬか)づいている。栄子もこれまた若く美しい曽祖母だ。

 この後、再び守正と共に王世子邸に向かい、初孫の顔をゆっくりと二人して眺めた。舅や姑がいるなら到底出来ないことであるが、使用人だけの王世子邸は、伊都子も好きなようにふるまえる娘の家なのである。

 その後いったん帰ったものの、方子と赤ん坊が気になって仕方ない。重箱に方子の好物を詰め、アイスクリームや西洋菓子と一緒に届けさせた。製氷会社にも、氷柱の追加を頼んでおく。

 お七夜に赤ん坊に名前がついた。伊都子は大満足である。

「日本語名でも違和感がないもの」

 という自分の意見がとおり、赤ん坊は晋(チン)と命名された。が、伊都子はこう呼ぶつもりはまるでない。

「シンちゃん、シンちゃん」

 と声をかけて、朝鮮人の職員たちに、陰で嫌な顔をされている。

 その代わり伊都子は、お祝いをたっぷりはずんだ。「晋(しん)ちゃん」には鮮魚と白羽二重の反物、王世子と方子には新鮮な魚を混ぜ合わせた祝儀ものの交魚を、そして王世子家の職員全員に、金一封を贈ったのである。

 氷柱の方も、毎日二本届けさせている。

 本当に晋は可愛らしかった。伊都子は一日おきに王世子邸に通う。時々は栄子や、学習院に通う娘の規子(のりこ)を連れていくこともある。

 三ケ月を過ぎると、身内だということがわかるのか、抱っこするとにこっと笑うようになった。裁縫の得意な栄子は、晋のために産着を何枚もこしらえてくれる。前妻の子どもたちのほうはいても、栄子にとっては初めての血のつながった曽孫なのだ。

 晋のために乳母や、若い侍女も増やして、王世子邸はいっきににぎやかになった。子ども部屋からは、若い女性たちのあやす声やわらい声がたえず聞こえてくる。最近はそれに王世子の、

「こっちを向いてくださーい」

 というやさしい命令も加わる。

 写真は昔からの王世子の趣味で、ライカでよく方子を撮影していた。それに加え、わが子の誕生に合わせて、アメリカからベル&ハウエルの十六ミリ撮影機をとり寄せていたのである。家二軒分ほどの高価な機械で、王世子は声をたてて笑うようになった王子を飽かず撮る。その傍には李鍵(イゴン)が立つようになった。彼の父は、王世子の兄にあたる李堈(イガン)だ。皇太子の座が、二十歳年下の弟、李垠(イウン)に渡ったことで、李堈は反逆的な態度をとるようになった。日本に対する反逆をあらわにするので、本国では英雄的な存在である。しかし奔放な生活でも知られ、何度かの結婚を繰り返し、妓生(キーセン)との噂もたえない。李鍵はその長男である。美男子の誉高い父親の容貌をそのまま受け継いでいるが、性格ははるかに温和だ。若い叔父を頼り、陸軍幼年学校に留学してからというものよくこの王世子邸を訪れている。

「王世子殿下、そんなに何度も何度も、こっちを向いてーとやられると、晋さまが疲れておしまいになりますよ」

 朝鮮語でからかった。王世子もそれに応える。やはり祖国の言葉で語り合うのは楽しそうだ。それを横目に見ながら、伊都子は方子と共に居間に入った。座るやいなや、さっそく包みを開ける。細かいスモッキング刺繍で胸を飾った子ども服が出てきた。

「この頃銀座の伊勢與(いせよ)商店に、いいものが入るようになりました。これはイギリスのものだけれど、ごらんなさい。この刺繍の凝っていること……ヨーロッパで、子どもを大切にすることといったら、日本の比ではありませんよ。私が宮さまと一緒に、ロンドンに行った時は……」

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