藤原正彦 線路は続くよ 古風堂々30
文・藤原正彦(作家・数学者)
1年半のコロナ禍を経て、人に会えないことがいかに辛いか、人と会って話すことこそが元気の源であることを思い知った者は多くいるだろう。私なども、長きにわたって築いてきた内密親密濃密な関係の女性達と、ソーシャル・ディスタンス保持不能のため、1年半も会えずすっかり参っている。もう私のことなどすっかり忘れているかも知れない、と考えると目の前が真っ暗になる。
子供や孫と会うのさえ最小限に抑えてきたが、私達夫婦がワクチン接種を終えたこの夏、藤原家全員集合を決行した。息子達とその家族がPCR検査陰性確認の上、蓼科の山荘にやって来た。私達、息子3人、嫁2人、孫2人の総勢9名が1週間近く、涼風吹きぬける山荘で、マスクなしに食べ話し遊んだのであった。
2歳と3歳の孫と遊べたのが私達にとっては何よりだった。3歳のオーちゃんが図鑑を丸暗記するほどの鉄道オタクで、明けても暮れても「大井川鉄道ED90形アプト式……」などとつぶやいているのがおかしかった。そこで茅野駅前に鎮座する蒸気機関車を見せに連れて行った。オーちゃんが自分の背より大きな車輪にたまげている間に説明板を読むと、諏訪鉄山からの鉄鉱石輸送に使用されたC12形機関車とあった。小学生の頃が思い出された。
幼い頃より、夏休みの初日から最終日までを、八ヶ岳西麓にある母の生家で祖父母と過ごすのが慣わしだった。トンネルに入る合図の汽笛を耳にするや慌てて窓を閉める、ということを何十回もくり返し、6時間をかけて新宿から茅野まで1人で行ったのだ。駅には野良着のふんごみ(踏込袴)でなく和服でおめかしした祖母が迎えに出ていて、煙で煤だらけとなった私の顔を駅の水道水で洗ってくれた。茅野駅から3里ほど山へ入った祖父母の住む部落には、満州からの引揚げ後にしばらく暮らしていたこともあり友達が多く、方言も自在に操れたから毎日が楽しかった。
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