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山内昌之「将軍の世紀」 寛政改革の行詰り (1)盗妖騒動と武家規範

歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。今月登場する将軍は、第11代・徳川家斉です。

※本連載は、毎週水曜日に配信します。


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   1603年(慶長8年)にイエズス会宣教師が編んだ『日葡辞書』によれば、白浪(Xiranami) とは盗賊のことだ。白浪物は、歌舞伎の河竹黙阿弥や講談の松林伯円(しょうりんはくえん)の作品を通して江戸時代でも人気を博した。しかし、現実に起きた白浪の犯罪はとても、黙阿弥の『鼠小紋東君新形』(ねずみこもんはるのしんがた)や『三人吉三廓初買』(さんにんきちさくるわのはつがい)のように絵になる芝居に遠かった。とくに十一代将軍・徳川家斉と将軍補佐・松平定信の時代、寛政三年(一七九一)四月に二十日間も江戸市中を震え上がらせた盗賊騒動は歴史に類を見ない事件である。これは、幕府の武威を失墜させ、怪しげな流言つまり妖言で市中をおびえさせた事件として盗妖騒動と呼ばれた(竹内誠『寛政改革の研究』)。定信は次のように回顧している。

「盗妖てふ事あり。ここにも盗入たりといへば、かしこにも入たり。きのふは何ケ所へ盗入たりといふ。それより町々にても犬声など聞ては、そよ盗きたりけりとて、鐘などうちならすにぞ、その鐘の声をききて又うちさはぎつつ一夜いねず。かかる事半月計にも有けん」(『宇下人言』)。

 しかも武家が盗賊に襲われながら切り捨てられなかったという噂が広がった。武威に関わる流言蜚語が飛ぶだけで幕府には鼎の軽重が問われかねない。『御触書天保集成』の「盗賊之部」には寛政三年から天保七年までの盗賊取締関係の法令が十一点も収められているが、そのうち九点までが盗妖騒動の月に出されたものだ。なかでも、大目付への触では武家屋敷に盗賊や狼藉者が押し入る場合には、近所の面々で申し合わせて「相互ニ一屋敷と心得」、主人が家来を召し連れて鎮めよと指示した。そのうえで、「法外の始末これあり候得は、討捨申すべき儀ニ候」としている(『御触書天保集成』下、六五〇五)。

 武士が盗賊ごときを鎮定するのに他家から助太刀を受けるのはいかがなものか。こうした正論は厳しい現実にかき消され、「向三軒両隣」の協力を申し合わせる屋敷も現れた。寛政三年には、駿河台胸突坂(現山の上ホテル近辺)あたりの武家屋敷では「向七軒両隣、うしろ三軒」と大仰な取り決めをする者も現れた。それでも押込に遭った武家がいたらしい。それも「番頭大久保豊前守」だというのだから洒落にもならない。この人物らしき者は、小姓組番頭(十番組)の大久保豊前守(彦兵衛)忠温(ただあつ)であろう(『柳営補任』一。『寛政重修諸家譜』第十二、巻七百十三)。『江戸幕府役職武鑑編年集成』収載の限りでは、豊前守は須原屋の『寛政武鑑』の寛政三年以降、出雲寺の『大成武鑑』の寛政六年以降の版に載っており、屋敷は四谷御門外とある。事もあろうに将軍直率の常備軍団・小姓組番の四千石高の頭で、家禄五千石の大身旗本の屋敷が抜き身をさげた五人に襲われたのだ。

 しかも江戸城の堀に近い屋敷は、東西が四谷仲町通と赤坂喰違に抜ける濠端にはさまれ、南に紀伊殿上屋敷、北に尾張殿中屋敷がある江戸城防衛の中核地点(今の上智大学北隣)にあった(『江戸城下変遷絵図集  御府内沿革図書』十一巻)。足軽小頭が巧みに梯子を使って狼藉者たちを取り押さえていなければ、将軍親衛隊長ともいうべき者は腹を切るだけでは済まない。足軽小頭が加増を受けたのは当然にせよ、豊前守が八年に無事に書院番頭に転じたのは解せない。幕府の信賞必罰人事は静かに崩れ出していた(『よしの冊子』下、十六)。町方にも同じ頃に出された触は、夜中に「怪敷者」が通るなら、木戸を閉めて問い糺し盗賊だと分かれば、「召し捕り候とも打ち殺し候とも致すべく候」とあった(『御触書天保集成』下、六二七九)。犯人を逮捕できる権限は町奉行所や火付盗賊改など公権力に限られるのに、木戸番や町内による個人の「打ち殺し」を正当化するのは、法の支配の転換であるだけでなく、町人・百姓を保護する武士の義務を自己否定しかねないのではないか。

 盗妖は白浪の由来、後漢の末に黄巾の乱の余党が西河の白波谷に隠れて集団で悪事を働いたよりも大胆だったかもしれない。火付盗賊改本役の長谷川平蔵宣以(のぶため)に拘束された大松(だいまつ)五郎は、盗みをはたらく時には駕籠に乗り、若党に扮した手下を供に仕立てた。鑓を立てながら挟箱を持たせ、葵の紋所の提灯を点じて押しまわした。葵小僧と名乗り、大身旗本めいた出で立ちの盗妖の真実が後世に伝わらないのは、定信や長谷川平蔵らが関係書類や証拠を一切合財処分したからだという説がある。押し込み先で婦女子へ落花狼藉に及んだ葵小僧の罪状を細かく詮議すると被害者の内情が表に出てしまう。葵小僧の一件は数日で審理を終わらせ、逮捕の十日後に首魁の首は晒された。これほど手早い一件落着は、三世紀に及ぶ将軍の世紀でも珍しい(「五人小僧」『三田村鳶魚全集』第十四巻)。

 盗妖騒動は現象・実体・本質の三面で幕府に大きな課題をつきつけた。現象としては、武士が階級として一体性をもつエートスと力を失っていたことである。実体としていえば、能力のある武士の人材開発に幕府が失敗した点である。本質として見るなら、幕府を維持する意志と支える力が歴史の大きな方向性とずれはじめたことだ。この三つの危険に気付いたのは松平定信である。彼は古宝物図録集ともいうべき『集古十種』の編者、名品の多い随筆家としてのイメージが強い。しかし彼は、身体鍛錬を兼ねて剣術・槍術・馬術・弓術の免許皆伝をとり、鈴木清兵衛邦教に学んだ起倒流柔術の名手でもあった。自らの「気」を調整しながら人間を「本体」に戻そうとする柔術は、儒教の経書を通して人間にひそむ「本性」を理性的に会得するのと同じように、武士の自己修養に不可欠であった。昌平坂学問所の開設や学問吟味につながる改革を成功させる定信にとって、アイルランド国立大学の徳川思想史研究者キリ・パラモアがすこぶる要約するように、柔術は文武両道の柱でもあった(Kiri Paramore. Japanese Confucianism: A Cultural History, Cambridge UP, 2016, chp.3)。

 旗本御家人の教養や政治知識の劣化は寛政年間になる前ですら覆いがたく、武道に精進せず、先祖以来の家禄にしがみついて日々を無為に過ごす者が多かった。天明五年の大身旗本・藤枝外記教行(二十八歳)と新吉原大菱屋抱え女・綾絹(あや衣とも。十九歳)の相対死(心中)は、「君とね(寝)やるか五千石とるかなんの五千石君とねよう」と三味線に合わせて一世を風靡したが、後室・みつ(十九歳)も夫の死を偽り家は改易となった。これは大田南畝の『俗耳皷吹』と『一話一言4』(巻二十七)で紹介されている(『日本随筆大成』第三期4、別巻4)。盗妖が武家屋敷を嘲弄するかのように襲った背景も分かる気がする。

 藤枝外記の死も歌も定信は知っていたのではないか。それは、寛政三年に水野左内為長が記した直参らの退廃にもつながる。「四ツ谷新屋敷辺(あたり)至て人物あしく、御旗本ニても大小さし候ハ稀にて、単物(ひとえもの)ニ緋ぢりめんの丸ぐけ抔いたし、脇差一本或ハ無刀の者多く、武げい学文(問)等いたし候ものハ、大に謗りわるく申立(もうしたて)候ニ付、おのづから人物宜しからざる放蕩のミの人多く御ざ候由」(『よしの冊子』下、十六)。

 両刀を差さないというのも驚くが、学問に励む新屋敷の加藤三平なる人物を憎み、寛政二年秋の大嵐の際、近くの旗本寄合(無役の者)は三平の門や垣根をわざと毀した。三平は素知らぬ顔をして修復するなど、とりあわないので最近はなぶられることもない、実に小身の旗本は人柄がまったく悪い。最近も新屋敷の内で「近来ニこれ無き大博奕」があり蕎麦屋が大儲けしたそうだ。また、本所の十八歳の御徒(おかち)が吉原の女郎屋二階で役人を偽って客改で金を脅し取る事件が起きた。長谷川平蔵が召し捕った若者は、懐中に捕縄と十手をしのばせており、小悪党の狡さだけが際立つ。親も「宜しからざるもの」だというから、幕府の役に就けない旗本御家人らのすさんだ気分は、親子・一家・地域に蔓延していたのだろう(『よしの冊子』下、十六)。もとより『よしの冊子』は日時を必ずしも確定できない情報が多く、探偵・風聞の類が混入しているのですべて一次史料として信頼するわけにいかない。しかし、史実として確定できる事件の起きた雰囲気や事件の詳細を同時代的によく伝えている以上、二次史料よりも高いレベルで事実を記録している場合が多いことも、橋本佐保氏の詳細な分析から確認できるのではないか(「『よしの冊子』における寛政改革の考察」『史苑』七〇の二)。

 興味深いのは、無役であれ役付であれ、さして変わりがない実務知識や武家教養の欠如を後世に伝えてくれたことだ。なかでも、老中の松平越中守定信・本多弾正大弼忠籌(ただかず)・松平伊豆守信明だけが「歴々の御学者」で目立つ反面、下の者は「一向文盲」で勘定奉行にも本を読む人がいないという指摘がある。良く言えば、計数には明るくても学問のできる人間が役人にいないというのだろう。代官といっても、定信の統治論たる『国本論』を一向に読めない。また『牧民忠告』を読めないからカナを附けてほしいという代官ばかりだというのだ。なにルビを附けたってやっぱり分からぬと水野為長はやや投げやりなのだ(『よしの冊子』上、五)。『牧民忠告』は、中国・元代の官僚・張養浩が県令となって記した書だが、江戸時代に会津藩の保科正之が藩政指南書として各大名に贈呈して有名になった。定信なら代官や旗本たちに、「よろしく学問し、六経史諸子百家の書を洽見(こうけん。広く読む)すれば、下民の情・稼穡(かしょく 農業)のくるしみ、照々として明かなるべし」と『国本論』の一部を引いて言い聞かせるに違いない(『翁草』巻の百二十八、第三期22巻所収)。

 幕府に人材が少ないのは事実にしても、各藩でも実情はさほど変わらない。天明九年に薩摩藩主・島津斉宣が家老たちに宛てた三箇条の訓諭書は、上下を問わず藩士の資質が劣化したことを嘆く。第一に、「大身小身によらず、幼年より我儘ニ生立(おいたち)候えハ、盛長の後國家の用に立ちがたく、別して氣の毒の至ニ候條、貴賤共ニ得と其旨を相考(あいかんがえ)、油断なく出精もっともの儀ニ候」。斉宣は、身分の上下に関係なく幼少時から気ままに育つので、成長しても「国家」(藩)の役に立たず、とりわけ自分に迷惑をかけると不満を隠さない。その点をよく考え注意して努力するのが当然だと叱咤する。

 第二に、「一門名代をも相勤(あいつとめ)候家格の向(むき)は、屹(きつ)と立ち候身分ニて専(もつぱら)國中の見当ニ相成事に候條、第一身持を慎(つつしみ)、家法を嚴にし、惰弱の風儀これなき様相心得、文武の藝ハ勿論、萬端礼儀正敷(ただしく)、威儀を失ざる様心掛候儀専要(せんよう)ニ候」。これは、島津家の一門などや藩主名代を務める高い家柄は、国中の模範として素行を正しく家をきちんと守り軟弱な様子を見せず、学問武芸はもとより万事に礼儀正しく、威厳を失わぬように努めるのが肝要だと談じる。斉宣は、藩屏の一門四家・一所持(いっしょもち)三十家・一所持格十二家らの当主・子弟の奮起を求めたのだ。

 第三に、「大身分の儀ハ家柄ニ應し夫々の役場へ召し仕るべきの処、是又(これまた)至(いたつ)て不才ニこれあり、書讀等不自由ニてハ相當の役儀も申付がたき事に候間、分限ニ随ひ諸藝を相嗜(あいたしなみ)、往々用立候様相心得、何篇(なにへん)律儀を相守(あいまもり)、風俗宜敷、士風も相立候様心掛るべく候」

 身分の高い者は家柄に応じて役儀を申し付けたいが、才がなく講読もできなければ役を命じられない。学問武芸を身につけ役立つように心がけ、武士たる気風を立てるようにと斉宣は世襲で安逸をむさぼる上士らに警告と激励を発したのである(天明九年一月廿八日付訓諭書『旧記雑録追録』六、二七八六)。ついでにいえば、明治維新を指導する小松帯刀清廉は実家・養家ともに家老を務める一所持の家柄だったのを見ると(『薩陽武鑑』)、斉宣の訓諭で奮起した者たちをいたのだろう。

 人材がいない点では朝廷も同じである。宝暦八年の竹内式部事件で意識の高い中堅公家十七名が処分されたのも大きい。桃園天皇の宝暦八年には天皇近習二十六人のうち六割以上が三十代より上だったのに、事件処分の余波で後桜町天皇の明和三年には七割近くを未熟な十代と二十代が占めるようになった。不慣れな女帝を補佐すべき近習が同輩に「虚言無礼」を働き、集団で「嘲哢」するだけでなく、上司や年長者を貶めるトラブルが頻発した。近習が徒党を組んで跋扈すれば、女帝とやがて後桃園天皇になる儲君に悪影響を与え禁裏の身分秩序が崩壊する危険もあった。宝暦事件は垂加神道などの学問に触発されて国家の大事を考える面もあったが、今回の事案は低レベルの集団的いじめにすぎず、公家たちの教養と知識の水準劣化をまざまざと示したにすぎない。そのうえ、結果として朝廷の要たる議奏を辞任に追い込む陰湿な事件となった(松澤克行「山科頼言の議奏罷免と宝暦事件」『論集 近世の天皇と朝廷』)。禁裏公家は到底武家の劣化を笑えたものでなかった。

★次回に続く。

■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。
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