野口聡一が見た宇宙という「暗黒の死の世界」と「絶対的な孤独」
宇宙飛行士の野口聡一さんが11月16日午前9時27分(日本時間)に、自身にとって3度目となる宇宙飛行へと旅立つ。イーロン・マスク率いるスペースXが開発した運用第一号機「クルードラゴン」に搭乗して、野口さんはISSへと向かい、今回もまた船外活動――EVAに従事する予定だ。日本人ではいまだ4人しか経験したことのないEVAだが、そこで宇宙飛行士たちは何ものにも遮られることのない「闇」を目にするという――。
野口聡一さんの宇宙飛行を記念して、『宇宙から帰ってきた日本人』(稲泉連著)より第6章「EVA:船外活動体験――星出彰彦と野口聡一の見た『底のない闇』」の一部を特別に公開する。
あの球体のなかですべてが起こった
日本人として若田光一に次ぐコマンダーとして宇宙に向かう予定の星出(彰彦)と同様に、2020年に3度目の宇宙への滞在が予定されている野口聡一は、『宇宙からの帰還』を高校3年生のときに読んだことを、宇宙飛行士を志した原点に挙げている。
彼は2005年のスペースシャトル・ディスカバリー号でのミッションの後、2009年12月からソユーズでISSに長期滞在した。
彼がEVAを行なったのは、そのうちの最初のミッションだった。その1度目のミッションから帰還してからまだ1年足らずの2006年2月、『中央公論』誌上で立花隆と対談した彼は、EVAという体験について聞かれてこう語っている。
〈窓越しに景色としての地球を「見る」のと、EVAで目の前にある地球を物体として「感じる」のとでは、リアリティが違う。何しろ自分が生まれて以来見てきたすべての人々、すべての生命、すべての景色、すべての出来事は、目の前にある球体で起きたことなのですから。地球と1対1で対峙しながら考えたことは、見渡す限りの星空の中で生命の輝きと実感に満ちたこの星は地球しかないということでした。それは知識ではなく実感です。天啓と呼んでもいいかもしれない。それが私にとっての人生観の変化と言えるのかも知れません〉(『宇宙からの帰還』文庫版より)
EVAの際に見た光景を「知識ではなく実感」と表現する彼の言葉は、星出や毛利、サーナンの言葉とも共鳴し合うものだろう。
この対談が行なわれてからすでに10年以上の歳月が流れ、JAXAの東京事務所で会った野口は、最初のミッションでのEVA体験が「いまもなお心に引っかかったまま」だと話した。
「僕は船外活動を3回、合計で20時間くらい外に出ましたが、ある一瞬の感覚がとりわけ強く印象に残っています。ふと目の前にある地球が一個の生命体として――ある意味では自分と同じ生命体として――宇宙に存在しており、いまこうして僕らが話をしているように、そこに一対一のコミュニケーションが存在するかのような気持ちになったんです。僕は地球の周りを回っている。地球も太陽の周りを回っている。大きな物理法則に従いながら、ある1点で2人というか、その2つが共存しているという感覚があった。僕は2005年のあのときから、ずっとそのことの意味を考えてきました」
このような言葉からも分かる通り、野口は宇宙体験による自らの内的な感情を率直に語ってきたタイプの飛行士だ。
JAXA
だが、初めてのミッションのために訓練を行なっていた頃を振り返るとき、野口は金井と同様に「もともとは宇宙に行くのは単に出張に過ぎない」という気持ちを抱えていたとも語る。
「僕も最初のうちは金井さんと同じような話をしていた可能性はありました。宇宙に行くと言っても、定められた機体に乗り、必要な作業をやり、帰って来るだけです。それが自分の仕事だ、と。飛行機のパイロットと同じです、というふうに思うようにしていましたからね」
宇宙飛行士のミッションはあくまでも仕事であり、定められたロケットに乗り、長い訓練で培った技量を発揮する。それが宇宙飛行士に課せられた役割だ。だから、「神の存在を信じるか」「人生観は変わったか」といった質問を受けても、自分の興味とは異なるそんな抽象的な問いには答える必要はない――といった気負いのようなものがあった、と野口は言うのである。
ところが最初のミッションの後から、彼は宇宙体験による内的な衝撃を積極的に語る日本人宇宙飛行士の1人になった。
その大きなきっかけとなったのが、2003年2月1日のスペースシャトル・コロンビア号の帰還時における事故だった。
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宇宙飛行士としての原点
1965年に神奈川県横浜市に生まれた野口は、10代の頃から宇宙飛行士という仕事に憧れてきた。後に2005年の1度目の宇宙飛行までを描いた自伝『オンリーワン』によると、初めてその職業を意識したのは1981年4月、アメリカによる最初のスペースシャトル計画の打ち上げの瞬間をテレビで見たときだった。
また、それ以来宇宙への憧れを見せるようになった彼が、両親から〈こんな宇宙の本が出ているよ〉と渡されたのが、同じ時期に出版された立花隆著『宇宙からの帰還』だった。アメリカ人宇宙飛行士たちの「その後」の姿が描かれた同書を読み、大学受験を控える高校生だった野口は、宇宙飛行士を現実的な仕事としてイメージできるようになった、と振り返っている。
『宇宙からの帰還』の「むすび」で、立花は次のように書いている。
〈彼らにインタビューをしながら、私は自分も宇宙体験がしたいと痛切に思った。彼らと話せば話すほど、写真やテレビや活字で伝えられている宇宙体験と実体験がどれほどちがうかがよくわかるのだ。そして、私が宇宙体験をすれば、自分のパーソナリティからして、とりわけ大きな精神的インパクトをうけるにちがいないだろうと思う。そのとき自分に何が起きるだろうか。私はそれを知りたくてたまらない〉
野口もまた、この一冊のノンフィクション作品を読んで同じ気持ちを抱いたという。
1浪の末に東京大学理科一類に合格した野口は、航空学科(現・航空宇宙工学科)に進んで航空機エンジンの研究を行なう。大学院でも同じく航空機エンジンの研究を専攻し、修士課程の卒業後に石川島播磨重工業(IHI)に就職した。
入社して間もなく高校の同級生だった女性と結婚した野口が、当時のNASDAが公募した3度目の宇宙飛行士選抜試験を受けたのは1995年のことだった。
3年前に行なわれた2度目の選抜試験のときは、実務経験3年以上という資格を満たしていなかった。長女が生まれたばかりで、IHIでの仕事も充実してきた時期だったが、これを逃すと次の試験がいつあるかも分からない。妻の勧めもあって受験を決めた。そして、冬から翌年にかけての長い試験の末、野口は572人の応募者のなかからたった一人の宇宙飛行士候補に選ばれたのだった。
野口氏
コロンビア号の空中分解
以後、彼は宇宙飛行に向けてアメリカなどで訓練を続けていったわけだが、そんななか、いよいよ最初のフライトの実現が近づいてきたときに起こったのが、2003年のコロンビア号の事故であった。
当時、すでに数度のフライトの延期を経て、野口の訓練期間は6年に及んでいた。NASAの宇宙飛行士たちとも家族ぐるみの付き合いとなり、彼自身も次回のミッションに最優先で指名される「プライムクルー」という立場を得て、あとは3月に予定されているフライトの日を待つばかりだった。
自著のなかで野口はコロンビア号の空中分解事故の日を、〈ぼくの「それから」を一変させた日〉(以下、『オンリーワン』より)と書いている。
そもそもコロンビア号が打ち上げられた1月16日は当初、彼が宇宙に初めて旅立つはずの日だった。だが、ISS側の準備が遅れたため、打ち上げ日を別のクルーに譲ったという経緯があった。事故で亡くなった7名の宇宙飛行士は、当然のことながら全員が訓練をともにしてきた仲間だった。
事故後、スペースシャトル計画の全ての予定はキャンセルされ、宇宙飛行士たちは遺族のケアを担当するグループと機体の部品回収のグループに分けられた。野口は後者を担当し、テキサス州とルイジアナ州にまたがって散った部品を探すため、事故の2か月後に森林地帯で捜索を行なった。
捜索では防護服などを装備した1チーム20名が、等間隔で1列になって進む。毒蛇のいる暗い森のなかを何度も転びそうになりながら進むと、隣の捜査員が真っ黒になった耐熱タイルの破片をしばらくして見つけた。
そのとき、彼はこう思ったと書いている。
〈見つかってよかったと思う反面、今日まで誰の目にも触れずにここに眠っていたのかと、コロンビアの遺骨を拾っている気持ちになりました。森の上のテキサスの青空は事故当日と同じ色でした。ぼくの友人たちは、そのときになにを思っていたのか。彼らの冥福を祈りつつ、森を後にするしかありませんでした〉
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「死」との直面
落下部品の捜索活動にも加わって以来、野口にとって宇宙へ行くことの意味は変わらざるを得なかった。それまでは一つの「職業」であり「仕事」だと考えていたフライトが、自らの死とも直結する人生の観念的な問題を含むようになったからだ。
野口は3人の娘の父親でもあり、この頃はすでに長女が7歳になっていた。幼子の2人はともかく、長女はコロンビア号の事故で飛行士が亡くなったことを理解しており、事故が起きた理由や宇宙開発の意義をしっかりと話して聞かせる必要もあった。家族に向けて遺書も書いた。そうして次のフライトの予定が決まらない日々を過ごすなかで、野口は「それでも宇宙に行く意味とは何だろう」と考え始めるようになったと言う。
「僕の方が事故のあった機に乗っていた可能性も、十分にあったわけです。だから、宇宙に行くことに対する葛藤が生じたのだと思う。それがなければ、ぽっと行ってぽっと帰って来る、という可能性はあったといまでも思いますから。僕の場合はそれができなかったんですね。あの事故以来、単に自己実現や船外活動のテクニックを披露するといったことだけでは、自分が宇宙に行こうとする理由を説明できなくなりました。宇宙に行く意味を自分がどのように捉えるべきか。あの事故を間近で見てなお、それでも飛びたいと言える理由をはっきりさせなければならない、と思ったんです」
――その理由を考えた結果はどのようなものだったのでしょうか。
「例えば、宇宙ステーションの組み立ては、確かに壮大な計画だけれど、そのために死ねるかと言ったらたぶんそうじゃない。ならば、宇宙に行くことで得られるのは、自分自身の内面的な変化であったり、世界を見つめる目を次のステージに進めたりという、そういったことなんじゃないか、と考えるようになりました」
船外から見た地球
宇宙からの帰還後、野口は大学の研究者と共同研究を行ない、学会誌に「内面世界の変化」や無重力による「定位感の喪失と再構築」といったテーマで論文を寄せるなど、自身の宇宙体験の分析に積極的な姿勢を見せていく。次回のミッションでも新たな研究のアプローチを模索している。
そして、宇宙体験の意味を積極的に模索する彼のこうした姿勢に、コロンビア号の事故とともに強い影響を与えたのが、1度目のミッションでのEVAの体験だったのである。いわば野口は仲間を失った事故で宇宙体験の内的な意味を考え始め、後のEVA体験によってその思考をさらに深めていったことになる。
では、野口にとってそれはどのような体験だったのか。
彼の初めての船外活動は2005年7月、宇宙滞在の7日目に行なわれた。3時間かけて宇宙服を身に着け、エアロックの気圧を抜いた後にハッチを開けて宇宙船の外へ出た。その瞬間、〈目に飛び込んできたのは、猛烈な光の量でした〉と彼は同じく自著『オンリーワン』のなかで振り返っている。同時に圧倒されたのは、太陽の光を反射するその地球が、宇宙船内から見るものとは比べようもないほどの〈存在感〉を放っていたことだ。
また、地上400キロメートルから見る地球はあまりに大きく、眩しく光り輝いているにもかかわらず、〈手を伸ばしたら届くのじゃないかというほどの親しみやすさ〉を感じさせた。
〈同じ宇宙からでも、船内からと船外からとでは、圧倒的に見えるものが違いました。宇宙船から見ている景色は、端的に言うと新幹線の中から見る富士山のようなもの。ひとつの景色でしかないんです。きれいだと感じるし、懐かしい地形を見ると感激もする。でも、手を伸ばせば届く様なリアル感はない。
しかし船外に出ると、なによりもまずその存在感に圧倒されてしまう。「目で見る」ことと「触感で感じる」くらいの違いがある〉
それは野口にとって、〈匂いたつような、概念や吹き込まれた知識ではない、間違いなく存在しているという「青」い地球〉だった。彼がハッチを開けた瞬間に直感的に抱いたのは、「生きている地球がそこに確かにある」という実感だったのである。
〈そして、その光に満ち満ちた世界にぼくのすべてが在る。これは、地球というのはかけがえのない世界なのだ。どうしてぼくのすべてが在る地球を外から見ているんだろうか。
生きている、生き生きとした存在。どこかに意思を持っている物体であるというようなリアリティがある。そこを走っている車が見えてしまうようなリアリティがある。そこに住んでいる人が見えるんじゃないかというようなディテール感がある〉
このように言葉を重ねながら、野口は〈見たことを表現したいのに使える言葉は限られてしまう〉と、言葉で表現しようとしてもそれがかなわないもどかしさを吐露している。それでも、読む者に決して全てが伝わらないと理解してなお、彼は言葉を重ねずにはいられない。
言葉にならない会話
船外活動の間にときおり地球の方に目を向けると、野口はそれが自分に何事かを語りかけているような気がしたという。そのうちに胸に生じたのが、次のような答えの出ない問いだった。
〈ぼくが生まれてから知っているすべてがそこにある。まちがいなく、ある。でも、すべてがあるはずなのに、外からはなにも見えない。すべてのものが存在して、ゆっくりと回っている。単なるひとつの天体として、突き放せない。
その強烈な存在感は生き物のようでした。「オレはここにいる」と、語りかけてくるんですから。地球とぼくとの、一対一の対峙。そこに生まれた言葉にならない会話。
この輝きはなんだろう。輝きは命を持っているからだろう。すべての命を内包しているから、その命が輝いているんだろう。太陽の光を反射しているのが理屈だとしても、地球本来の内包する輝きからのものではないのか。ぼくの命の流れがその輝きの中にすべてあって、ぼくもそこにいるべき存在。なのにこうして外から見ている不思議さは何だ?〉(『オンリーワン』)
宇宙という暗黒の死の世界を背景にするとき、そのような生命に溢れた地球はより際立って見えるようだった。それを彼は世阿弥が『花鏡』のなかで言う「離見の見」という言葉で説明しているが、それはもはや言葉を超えた何かだったということだろう。
薄い大気の層の境目には〈生死のせめぎ合い〉があり、それは野口に地上にいたときは意識しようにもできなかったその双方を意識させた。そして、人間だけではない全ての命の歴史を、地球こそが見守ってきたのだという〈確信〉を覚えたと彼は書いている。
〈僕はいま、こうして外から地球を見ているけれど、間違いなくあの星へ帰っていく。地球で生きる69億人のなかの見分けのつかない一人として、もといた場所に戻り、そしていつかあとかたもなく消え、地球の一部に還っていくのだ〉(『宇宙少年』)
だからこそ、その「生」の世界にも「死」の世界にも属さず、本来は〈地球の一部〉であるはずの自分が見ている光景が不思議だった。〈生死のせめぎ合いの世界からどうして自分が外れているのかを体が納得していない〉ような気がした。そして感じたのは、〈絶対的な孤独〉だったと野口は自著で振り返っている。
「あのときに自分が見たもの、感じたものはいったい何だったのか」
と、3度目の宇宙飛行を控えた彼は言った。
「おそらくその答えには自分の人生のなかで、長い時間をかけてたどり着くべきなのだろうと思っています。答えを探す過程そのものに意味があるのかもしれないし、そうではないかもしれないけれど」
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文・稲泉連(ノンフィクション作家)
1979年生まれ。早稲田大学第二文学部卒。2005年、『ぼくもいくさに征くのだけれど―竹内浩三の詩と死―』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。主な著書に『復興の書店』『豊田章男が愛したテストドライバー』『「本をつくる」という仕事』『宇宙から帰ってきた日本人』がある。
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