「入学式も授業もギター持ち込み」「学ランにウルフカット」THE ALFEE“今だから語れる”50周年の20大ニュース
学生運動に翻弄された高校での出会い
――今回、文藝春秋編集部からの企画オーダーは、題して「デビュー50周年記念 THE ALFEEの20大ニュース」。まずは、3人の出会いが起点かと思います。高校時代に出会った皆さんは、どのような高校生活を送っていましたか? 高見沢さんと桜井さんは、明治学院高校の同級生ですよね。
高見沢 僕と桜井が通っていた明治学院高校はすごく自由な雰囲気。だからギターを持っていこうが平気だったし、卒業写真を見たら、髪もみんな長かったね。
桜井 長かった。
坂崎 たしか、桜井はウルフカットだったんだよね?
高見沢 そう。でも、明学で最初のウルフカットは俺だったんだよ。
桜井 たしかに高見沢が一番初めなんだけど、髪が細くてサラサラだったから、ウルフというよりも「すだれ」になってるの(笑)。
高見沢 まあね。ロッド・スチュワートを意識していたんだけどね(笑)。あのころは、ウルフカットが流行っていたんですよ。明学は自由だから、髪型も制限はなかったけど、制服は着なきゃいけなかった。
桜井 同じ敷地に大学があったからね。
坂崎 なるほど。制服を着てると高校生だとわかる、ということか。
桜井 学ランを脱いじゃえば、中身は全部私服なんだけど(笑)。
高見沢 高校1年のときがちょうど1970年。学生運動がピークを迎えた直後だった。
桜井 東大安田講堂事件(1969年)の熱がまだくすぶっていた。
高見沢 あの頃、構内にはまだ立て看板もたくさんあったし。
坂崎 僕が明治学院大学に入った1973年でも、まだ立て看板があったよ。
桜井 高校と大学が同じ敷地にあって正門も一緒だから、大学で問題が起こると、高校生も中に入れなくて休校ばかり。しかも、今なら携帯で事前に連絡が来るのかもしれないけど、登校して初めて知らされてさ。
高見沢 その当時は「休みか。ラッキー!」ってくらいの認識でね、サッサと帰ったよな。
桜井 だから、試験もなくて、レポート提出ばっかりだった。
今でも覚えているのが、中庭でサッカーをやっていたときのこと。6チーム作って戦うんだけど、2チームが試合をしているとき、ほかの4チームはやることがないから校庭をうろうろ歩くんだよ。そしたら、隣で大学生と機動隊の小競り合いがはじまって。ジュラルミン製の楯がこっちに飛んできて。持ち帰ったら先生に「返してこい!」なんて言われてさ。
坂崎 そんなことがあったんだ!?
高見沢 四六時中だよ。明学は結構、学生運動が盛んだったんだから。
桜井 でも、やっているのは明学生じゃないんだよね。ほとんどは他校の大学生。僕らが高校1年の時の文化祭の前夜祭が学生運動の学生たちに潰されちゃって、新聞沙汰にもなった。
高見沢 その見出しが「高校生怒る」。映画『大魔神怒る』じゃないんだから(笑)。僕らは三無主義(無気力・無関心・無責任)と呼ばれた世代だから、そんな燃えカスが高校にありつつも、運動には冷めていましたね。
先輩たちはバリケードを作って、先生をロックアウトしてたらしい。高校生なのに。でも、先生たちから「バリケードはこのまま残しておくし、壊さない。だから、親御さんが心配するから今日は帰りなさい」って説得されたら、高校生の方も「わかりました」って帰っていったって(笑)。「これじゃロックアウトじゃないだろ」って、あとで先生が笑い話にしていた。
桜井 そういう校風だったよね。でも、校外に出たら他校の高校生からカツアゲされる。だから、腕時計はしなかった。
高見沢 周辺にヤンキーっぽいのがいたからね。明学の高校生は狙われがちでした。
桜井 ヤツらは後ろから来るんだよ。で、「おまえ、カネ持ってんだろ? ちょっと跳ねてみな」と言うわけ。チャリンチャリンと音がしないように、俺はポケットを押さえて跳ねたよ(笑)。
坂崎、フォークソング同好会を創設
——坂崎さんは、都立墨田川高校の出身。どんな高校生活でしたか?
坂崎 明学とは真逆の雰囲気の進学校。「勉強しない子はうちの学校に来ないで」という感じ。なのに、僕は高校の入学式にギターを持って行ったらしいね。自分では覚えてないんだけどさ。
桜井 それは、イケナイねえ。
高見沢 すごいなあ。
坂崎 で、「山谷ブルース」(岡林信康)を歌っていたらしい。今でも言われるけど、本当に覚えてない。高校1、2年の記憶がほとんどないんだよね。でも、同級生や先生が僕のことを覚えていて色々教えてくれる(笑)。それで記憶がちょっとずつ蘇ってくる。
たとえば、授業中もギターを持ち込んでいたから、当時30代だった担任の数学教師に言われたんだよ。「あなた、学校に何をしに来てるの?」って。
高見沢 女性の先生?
坂崎 そう。言われて初めて気がついたんだ。学校にギターを持っていったらいけないって(笑)。それで、堂々と弾くためにフォークソング同好会を作った。
高見沢 理由があれば持っていける、というわけか。
坂崎 そう。高校2年のときにフォークソング同好会を作って、3年生になってからは1つ下の学年に任せた。俺はギターを持っていきたいだけで、同好会で何かをしたいわけじゃないから。でも、その同好会はいまだに続いている。
桜井 坂崎が初代会長。
坂崎 そう。銅像が建ってもいい(笑)。
高見沢 坂崎の母校は進学校だからな。
坂崎 学生運動はぜんぜんなかった。ツッパリは数人いたけどね。
桜井 うちのクラスには学生運動やってるヤツがいたな。授業をよく欠席してたよ。
高見沢 ほーっ。
坂崎 僕は高校2年までは落ちこぼれていた。「そろそろ受験勉強しないと本当にまずいぞ」と思い始めたのが、高校3年になってから。
だから、3年生のときに山野楽器で開かれていたフォークソング・コンテストに一人で出たのは、“最後のけじめ”のつもりだったんだ。そこで、桜井と出会った。
「レコードかなと思ったら、桜井の生歌だった」
桜井 ちなみに、審査員は「走れコウタロー」を歌ってたソルティー・シュガーの高橋隆さん。
坂崎 優勝したのは、桜井たちの「コンフィデンス」っていうバンド。僕は参加賞。あのコンテストに出場していたのは大人ばかりで、高校生は6人だけだった。僕のほかには、コンフィデンスの3人と、早稲田実業の高校生が2人。大人からは「君らは高校生の割に上手だね」と言われていた。
僕は「桜井っていうのは良い声だな」と思ってたけど、コンテストで出会った早実の2人と「へそ下三寸」っていうバンドを結成することになった。
高見沢 早実の2人はギターが上手かったよね。
坂崎 「へそ下三寸」は2、3カ月間続けたんだけど、結局のところは音楽活動をあまりやらなかったんだ。そうしたら、たまたま……。
高見沢 出会っちゃったんだよね。
坂崎 高校3年の夏に、桜井と。でも、直接じゃないからね。コンフィデンスのメンバーと再会したんだ。
桜井 まあ、コンフィデンスもそんなに活動してなかった。でも、メンバーがクラスメートだから、学校でたくさん練習したよ。
高見沢 覚えてるよ。放課後にサイモン&ガーファンクルの曲が聞こえてきて、「誰かがレコードをかけているのかな」と思って見に行ったら、桜井の生歌だった。「あれっ、上手いじゃん!」と思って。エコーがワーッと校舎に響いていた。
桜井 階段の踊り場で練習してたからね(笑)。
(聞き手・内田正樹、構成・文藝春秋編集部)
本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載
桜井賢、坂崎幸之助、高見沢俊彦
「THE ALFEE デビュー50年の20大ニュース ノーカット2万2000字」
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