「日本人へ!」眞鍋淑郎 世界からの提言 ノーベル賞は「論争」から
ライバルから学び、得意分野で勝負——。90歳の世界的権威が語る最高の成果を出す秘訣。/文・眞鍋淑郎(ノーベル物理学賞受賞者)、取材・構成=津山恵子(ジャーナリスト)
眞鍋氏
古典的な物理学でノーベル賞
いま振りかえってみると、僕の研究生活は幸運の連続でした。大学院時代に書いた論文が、たまたまアメリカ人研究者の目に留まってアメリカへの招待状をもらった。アメリカの研究所でも、上司やスタッフ、環境に恵まれ、スーパーコンピュータを存分に使って研究に没頭できました。
しかもノーベル賞までもらったのですから。これには本当に驚きました。過去にノーベル物理学賞をもらった人たちのリストを見ると、現代物理学の進歩に大きな貢献をした人が大部分です。日本で最初に受賞したのが湯川秀樹さん、それから朝永振一郎さんで、お二人とも量子力学の分野に貢献をなさいました。
1967年に私が発表した論文が、地球温暖化に関する世界で最初の貢献だということでノーベル賞をもらったわけですが、気候の研究という古典的な物理学の業績で賞をもらった人は誰もいない。だから驚いたのです。だいたいノーベル賞をもらう場合は、何年か前から前評判というのが伝わってくるものですが、それも聞こえてきませんでしたし。
もっとも、この論文を書いたときは、温暖化の問題がここまで重要になるとは考えていませんでした。それは私だけではなく、おそらく誰も考えていなかったと思います。当時、私の研究に興味を持っていたのは、世界を見まわしても10人程度だったでしょう。それがいまや何千、何万もの人が世界中で研究しているのです。
ノーベル賞を創設したノーベルさんの遺言をみると、人類のウェルフェア(幸福、安泰)、人類の存在にかかわるような問題の解決に貢献した人に賞を出せ、とある。今まで一度も出してこなかった気候変動分野を授賞の対象にしたのは、ノーベル賞選考コミッティが、この問題が非常に大事であると理解したからで、その点では大きな意味があったと思います。
自宅でインタビューに答える
反対意見こそが科学の進歩には不可欠だ
私がアメリカにきたのは1958年です。75年にはアメリカ国籍を取得しました。私はノーベル賞受賞発表の直後に開かれた記者会見で、国籍を変えた理由を聞かれた質問に対し、こう申しました。
「私は他の人と調和的に生活することができないからです」
この発言の真意や背景なども含めて、日本の皆さんに伝えたいことはたくさんあります。
このインタビューを機に、私の人生を振りかえりながら、これまで大事にしてきた私のモットーについて、お話ししていきましょう。
まず言いたいのは、「ディスアグリーメント、つまり意見の違いや反対から学ぼう」ということです。
私は今も研究に取り組んでいるのですが、海が二酸化炭素を吸収しなくなる時間スケール(尺度)について、ある研究者と論争しています。彼にメールで「こういう点で意見が違う」と送ったら、すぐに返信がくる。
この前、私は彼に、こんなメールを送りましたよ。
「俺はお前とのディスアグリーメントを、非常にエンジョイしているんだ」
ディスアグリーメントから学ぶことは、科学にとって非常に大切なのです。それが日本では、まったく違った研究結果が発表されても、面と向かって相手に反対したりすることはあまりない。喧々諤々と議論したりしたくはない、相手の気分を壊したくない、という気持ちは、僕もよくわかります。
ところがアメリカでは堂々と反対意見を口にする。この国に来て、まず、そのことを感じました。
違う意見に反対するとなると、「具体的にどこが、なぜ違うのだろう」と考えなければいけません。それが「自分の意見のほうがいいと思う理由はなぜか」「自分の意見が正しいことを立証するためには、どんな研究をしなければならないか」と考えるきっかけにもなるのです。
議論相手の研究者も同じように、自分のビューポイント(見解)が正しいことを確かめようとするわけですから、お互いの研究結果を、また突き合せれば、そこから多くを学ぶことができます。その結果、両方の科学者とも将来は大成功。意見の違いをもとにして研究を進めることは、科学の進歩には不可欠なのです。
先ほどの記者会見で、日本から国籍を変えた理由を問われたとき、こうもお答えしました。
「アメリカでは私がしたいことができます。他人がどう感じるかを気にする必要はあまりありません。実を言うと、他人の感情を傷つけたくはありませんが、他人が何を考えているか解明するために、他人を観察している余裕もありません。だから、アメリカは素晴らしいと思ったのです!」
「私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありませんでした。自分の使いたいコンピュータを全て手に入れ、やりたいことを何でもできました。それが日本に帰りたくない一つの理由です」
ノーベル物理学賞のメダル
ライバルの研究が最も参考になる
もう一つ大切にしているモットーは「競争相手から学べ」ということです。
いままでの研究生活を振り返ってみると、私がもっとも学ぶことが多かったのは、競争相手の研究からでした。競争相手のアイデアがいいと思ったら、すぐに僕はそれを取り入れました。ライバルの真似をするのは、悪いことのように思われるかもしれませんが、僕はさっさと真似をしました。
例を挙げるとすれば、温暖化の研究では僕よりも有名なジム・ハンセンという研究者の仕事かな。彼の論文を読んでみると結構いいことが、それもたくさん書いてある。彼の論文を読むことで、自分の研究で行きづまっていた点が解決したことは何度もあります。
競争相手のアイデアを真似して、その上に自分のアイデアを乗せたことで大きく研究が進む。そんなことも少なくありませんでした。私には何人か研究上のライバルがいましたが、その人たちの研究こそが、自分の研究にとって一番のベネフィット(利益)になったのです。
先ほど申し上げた「ディスアグリーメントから学ぶ」ということ、そして「競争相手から学ぶ」ということは、ちょっと違うことのように思えるかもしれませんが、異なる視点や意見から学ぶという点で、大きく関係しているのです。
得意なこと、好きなことで勝負せよ
日本の人に伝えたい3つ目は、「自分の得意なことや好きなことをしなければ、競争には勝てない」ということです。
私から見ると、日本の人は見た目をとても気にして、人生の進路や、研究分野などであっても、格好がいいものを選びがちです。私が言いたいのは「格好で選ぶな」ということです。
「格好がいい」とか、「格好が悪い」というのではなくて、自分が本当に好きなこと、得意なことを選ばないといけません。
好きな分野、得意な分野を選ぶと、面白くなって、どんどん、のめり込む。ところが、他人から格好がいいと思われたくて、好きでも得意でもない分野にいけば、それに夢中になれないし、競争にも絶対に勝てません。
このモットーは自分の体験に根差しています。
僕は旧制中学のときから医者になろうと思っていました。昭和6年に愛媛県の新立村(現・四国中央市)で生まれたのですが、おやじも、じいさんも村で医者をしていましたし、兄も医者でした。
僕も、それを見て、医者は格好いいなと思って大阪市立医大(当時)に入学しましたが、すぐに、「どうも向いていないな」と感じるようになりました。
大学が新制に切り替わった時期に当たったので、1年後に医大から東京大学に進みましたが、不器用なので、実習のカエルの解剖では神経をちょんぎるわ、化学の実験では爆発をおこすわ、と散々でした。
このとき自分のような不器用な人間が医者になるのがいいのだろうかと、真剣に考えました。医者でなければ何が向いているのか。そう自問自答した末に、じっくりと問題に取り組める研究者の道を選んだのです。
また、専門課程に進むとき、理論物理学にするか、地球物理学か選ばなければいけませんでしたが、このときも自分の得意なことは何かと自問自答しました。
同じ講義をとっていたので目の当たりにしましたが、理論物理学を専攻しようという人たちは、ものすごく頭が切れる。日本でもトップクラスの秀才が集まっていたのではないでしょうか。
だから「俺の能力で理論物理なんかに入ったら、とても競争にならん」と思って、地球物理学を選びました。天気を研究することにしたのは、自然現象のおもしろさに以前から興味を持っていたからです。このときも自分の興味があるものを選んだわけです。
すでにエスタブリッシュ(確立)された分野を選んでしまうと、周囲からは格好よく見られるかもしれないけど、その分野ですごい研究成果を挙げたとしても、「まあまあだね」という評価になりかねませんよ。優秀な先達がたくさんいるわけですから。
ところが自分で新しい分野を切り開けば、白いキャンバスに絵を描くようなもので、自由自在にできるわけです。
いまの時代、僕が最初に使った頃に比べて約100万倍もの速度のコンピュータを、多くの人が自由に使えるようになりました。昔は我々だけがコンピュータを持っていて、他の人はそういうものを持っていなかった。
またデータについても、人工衛星を使って大気の状態や陸面の温度、乾燥度、雨量などが観測できるようになりました。海水のデータも、全世界で何千というブイから水温や酸素の濃度などが観測できる。
こうしたデータをどんどん使って研究ができる、非常に恵まれた環境にあるのですから、今の若い人はなんとラッキーなのであろうと思います。大いに張り切って、世界に羽ばたいて研究してほしい。それが僕のレコメンデーション(助言)です。
防空壕にも行かずに勉強
ここからは私のこれまでの人生と、アメリカへ行くことになった経緯を振り返り、そこから地球温暖化の問題についてもお話ししていきましょう。
先ほども言ったように、生まれたのは、地域の医者は父1人だけという愛媛県の小さな村でした。
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