山内昌之「将軍の世紀」 「みよさし」と王政復古の間(5)「世の中に差出る隠居五人あり」
歴史学の泰斗・山内昌之が、徳川15代将軍の姿を通して日本という国のかたちを捉えることに挑んだ連載「将軍の世紀」。2018年1月号より『文藝春秋』で連載していた本作を、2020年6月から『文藝春秋digital』で配信します。令和のいま、江戸を知ることで、日本を知るーー。
※本連載は、毎週火曜日に配信します。
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光格天皇は、御所造営で意志を通しただけでない。総じて旧格や古式を重んじるあまり政治意志の決定や物事の進め方にも、歴代の天皇と比べて強引な所が目立った。藤田覚氏は、天明六年の朔旦冬至旬儀を「かなり強引に再興した」とし、寛政三年には幕府に相談もせず御所内に神嘉殿を造営し新嘗祭を「かなり強引なやり方」で復古させたと表現する。御所の再興についても「朝廷側は妥協せず突っ張った」というのもその通りであろう。しかし、天明七年の大嘗祭を古儀で再興した反面、「重要な御禊行幸(ごけいぎょうこう)の再興はなかった」のだ(『江戸時代の天皇』)。これは大嘗祭に先立つ潔斎として、天皇が賀茂川へ行幸して身を清める禊(みそぎ)の儀式であり、河原の御祓とも豊(とよ)の御禊ともいった。本来は、陰陽寮の勘奏で賀茂川のうち二条から三条に至る川中一町四方に御禊幄を設けて実施する重要行事だったはずだ(『精選版 日本国語大辞典』)。『山科忠言卿記』には、「今夜大嘗会御禊なり。行幸の儀なし」とあるが、古式復興を語りながら東山天皇以来の宮中内部で済ませる略式の理由は分からない(『光格天皇実録』第一巻、天明七年十月三十日条御禊)。
光格天皇は、どういうわけか正月一日の四方拝に出ても、元日節会を催さないか、節会に出御しなかった。他の天皇と違うのは、寛政九年と十年に詩歌の試筆、歌書講読始、漢書読始を元日に行なったことだ。詩は長生殿というから白居易『長恨歌』の句「七月七日長生殿、夜半無人私語時」であろうか。和歌は亀の尾の山乃岩根とあるので『古今和歌集』の紀惟岳(きのこれおか)の「亀の尾の山の岩根をとめて落つる 滝の白玉千世の数かも」であろう。歌書始の古今集賀部は「亀の尾」も入った巻第七賀歌であり、漢書読始の尚書堯典は古代中国の理想的君主・堯の事績を描いた書経の一部である。十年は長生殿が「天筆和合楽也、福皆円満」と年始の揮毫に変わった以外は同じだ。節会に出ないのは変わらないが、十一年からは試筆、読始は取りやめになり、長続きしなかった(『光格天皇実録』一、二、三の各巻)。
光格天皇は朝幕関係で復古と改革を混淆させた独特な路線をほぼ自由に進んできた。しかし定信は際限のない天皇の新たな要求を拒否する覚悟を固めた。「新制度は履霜の漸おそるべければ、已後御新制の義は所司代にてかたく御ことはり申し上げ然るべし。此の義よくよくあと役へも申し伝へ維持すべき旨仰せ出ださる」(『宇下人言』)。
これから新規の要求がないように「少しでも災いの予兆があれば避けること」(履霜)、所司代が留めて処理すべきであり、後任にもよく引き継ぐべしとは、よくよくの言であろう。造営はむずかしいこともあったが、関白にも申し入れ、自筆で所司代に達して無事に造営にこぎつけ、新御所に天皇も院も遷幸還幸した。幕府にとっていちばんの成果は、「関白殿を初として皆関東の御威光をかたじけなく思はれけるとぞ」と禁裏公家に幕府の権威を再確認させた点にあるという。しかし、尊号一件ともなると禁裏だけの事柄でない。定信は国家の枠組と統治の正統性に関わる重大問題となる事を察知した。
光格天皇は実父・閑院宮典仁(すけひと)親王に太上天皇の尊号を生前に贈ろうとした。幕府は認めず、この案件を進めた一部公家たちを処分したのが尊号一件である。儀式はじめ宮中席次では、天皇の次に関白、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)が続き、親王はその後に位置づけられた。儀式で臣下の五摂家の後に実父の閑院宮が続くのは、親孝行の天皇ならずとも堪えがたかったに違いない。しかし天皇が考えたほど問題の解決はたやすくなかった。幕府は家康が開いて以来、禁裏で自らの意志が曲がらずに関白と武家伝奏につながるように、天皇の思惑がそのまま政務につながらないように関白と三公の政治軸を安定させておく必要があった。その座次に天皇でなかった人物がいきなり割り込むのは幕府の考える朝廷秩序を覆しかねなかった。前例がないわけでない。しかし、それらはいずれも承久の変と応仁の乱といった非常時や混乱期の悪しき例であり先例たりえないと幕府は考えた。
定信が危惧したのは光格天皇の遣り方である。寛政三年十二月に典仁親王に尊号宣下あるべき哉との勅問を四十一名の公家に下した。勅問は五摂家だけに下されるのが慣例であり、多人数に下すのは異例というほかない。結果は賛成が三十六名であり、明白な反対は前関白の鷹司輔平とその子・政熙(まさひろ)だけであった。幕府からすれば、天皇が衆を頼んで「御新制の義」を通そうとしたかに見えた。やや後の歴史を知る者なら、さながら安政五年の廷臣八十八卿列参事件の類似行為を上から光格天皇が仕掛けた印象を与えるかもしれない。しかも、「このうえ深き思召も在らさせられ候」と、譲位ともとれる厳しい表現が「御内慮書」に含まれた。この交渉スタイルは内裏造営の場合と似ている。この正面突破術は、光格天皇の対応すべてに共通しないだろうか。
今回は幕府も折れなかった。寛政四年八月に尊号宣下は「御無用」ときっぱり拒否する。光格天皇はいつものように正面突破を図ろうとし、十一月下旬を目途に尊号宣下を実行すると一方的に宣言した。すると幕府は、宣下の見合わせ、武家伝奏・正親町公明と議奏・中山愛親、同・広橋伊光(これみつ)の三人の江戸召喚を朝廷に通達した。天皇はさらに抵抗を試みたが、最終的には尊号宣下を中止し、正親町と中山の江戸召致に同意せざるをえなかった。幕府の厳しい態度はまだ続く。江戸に呼ばれた二人は、定信によって厳しい尋問を受け、朝廷による解官(官位剥奪)を待たずに、老中・戸田采女正氏教役宅で老中列座の上、定信から中山に閉門・正親町に逼塞の処分が下された。『寛政秘録夢物語 今古実録』では、中山が定信に「不忠不義の聚斂を事とし僅に千石二千俵の入貢(みつぎ)を惜みて、一天の君たる義を忘れ」などと江戸っ子の啖呵まがいの科白をはく。幕府が下に苛斂誅求をするのに千石二千俵の賄料が惜しいから太上天皇を認めないのだろうと中山が開き直る勇気はまずありえなかった(国会図書館DC十七コマ)。中山の処分には、その回答に「不束ニ失態の段々」があり「不埒に思召し候」という強い一文が加えられた。武家伝奏と議奏の役職罷免は朝廷の手に残され、禁裏の面子はぎりぎりで保たれた。しかし、あり様は江戸で次のような落首が流行ったのであり、中山らは京都との勝手の違いを痛感したのではないか。
逼塞と聞てさつそく発足と 沙汰より正親町がい(間違い)のすじ
中山のこんにやく玉が悪玉で 光りはぬけてかへる閉門
(『江戸時代落書類聚』上巻、巻の拾壱)
それにしても光格天皇は強すぎる意志を持った人である。「世の中に差出る隠居五人あり」という川柳がはやった。仙洞(上皇)になった光格天皇、将軍の実父・一橋一位(治済)、薩州栄翁(島津重豪)、新桑名楽翁(松平定信)、そして知名度は劣るが沼津藩主の老中・水野忠成の家老で悪名の高い土方縫殿助有経の父・祐真だというのだ。このうち光格上皇と祐真のいずれかを除いて松浦静山を入れる説もある。「去れども、予はなにも世の中に差出し覚へも無ければ、何(いず)れ山人の所説是ならん」(『甲子夜話』3、巻四十一の五)。光格天皇は同時代人からも特異な個性の持ち主だと見なされていたのである。
(了)
★次回に続く。
■山内昌之(やまうち・まさゆき)
1947年生、歴史学者。専攻は中東 ・イスラーム地域研究と国際関係史。武蔵野大学国際総合研究所特任教授。モロッコ王国ムハンマド五世大学特別客員教授。東京大学名誉教授。
2013年1月より、首相官邸設置「教育再生実行会議」の有識者委員、同年4月より、政府「アジア文化交流懇談会」の座長を務め、2014年6月から「国家安全保障局顧問会議」の座長に就任。また、2015年2月から「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会」(略称「21世紀構想懇談会」)委員。2015年3月、日本相撲協会「横綱審議委員」に就任。2016年9月、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の委員に就任。