ミスターが感じた「銅メダルの重み」|短期集中連載「長嶋茂雄と五輪の真実」最終回
短期集中連載「長嶋茂雄と五輪の真実」の最終回。悲願の金メダルではなかったが──。苦痛で一瞬、顔が歪んだ。/文・鷲田康(ジャーナリスト)
※第2回を読む。
エースを襲ったアクシデント
「思ったよりボールが(自分の身体の)内側に入って目を離してしまいました」
西武・松坂大輔はその瞬間をこう振り返った。
2004年8月17日。アテネ五輪野球の日本代表は、アテネ郊外にあるエリニコ・オリンピック・コンプレックス内のメイン球場で、金メダルへの最大のライバルとなるキューバとの試合を戦っていた。
日本は2回に西武・和田一浩のツーランで先制すると、4回にはダイエー・城島健司と近鉄・中村紀洋の連続アーチで2点を追加。4対0と試合を優位に進めていたが、アクシデントがエースを襲ったのである。
4回1死からキューバの3番、ユリ・グリエルの強烈なライナーが松坂を直撃した。
グリエルが打った瞬間に、松坂は体を捻ってボールを避けようとしたが、それが逆にボールから目を離すことになってしまった。打球は右肘の上を直撃。3塁線に跳ねたボールを追いかけ、一度はそのボールを拾い上げたが、タイムがかかると同時にポロリと地面に落とした。ベンチから慌ててヘッドコーチの中畑清が駆け寄った。
ベンチ裏に引っ込んで治療を受けた松坂。しかしアクシデントにも気力は全く衰えていなかった。
「一瞬しまったと思いましたけど大丈夫。自分から『投げたい』と言いました」
松坂大輔
この松坂の気迫とともに、続投を躊躇する首脳陣を押し切ったのは、女房役の城島の冷静な声だった。
「次に一球投げて、もしオレがダメだと思ったら、ベンチに交代のサインを出します」
アイシングとテーピングによる治療をして再び上がったマウンド。4番のオスマニー・ウルティアへの初球は141㎞で、初回の154㎞から13㎞もダウンしていた。しかもウルティアには中前安打を許して1、2塁とピンチは広がった。
しかし城島は、ベンチに降板のサインを出そうとはしなかった。
「長嶋(茂雄)監督のために、何としても踏ん張って勝とうという気持ちで一杯だった」
こう語るエースのボールに「しっかり指にかかっていたし、意思のある球だった」と城島も手応えを感じたからだった。
すぐさま球速が150㎞台に戻ると、続くフレデリク・セペダとアリエル・ペスタノを連続三振に仕留めてピンチを切り抜ける。9回に3失点して救援は仰いだが、8回までキューバ打線を四安打無失点に抑える完璧なピッチングを披露。日本は6対3でキューバを破り、松坂自身もシドニー大会に続く2度目の五輪出場で初勝利を手にした。
城島健司
長嶋からのメッセージ
「とにかくキューバに勝たない限り金メダルには手が届かないと思っていた。ある意味、そこに全精力を注いでいたということも言えるくらいキューバ戦を重視していたのは間違いなかった」
チームを指揮した中畑は言う。
プロアマ混成チームで臨んだ4年前のシドニー五輪では、予選リーグと準決勝で、いずれもキューバに敗れて涙を飲んだ。その後も公式戦でアマ球界最強と言われたキューバ軍団相手に苦杯を舐め続けてきた。
「チームを結成したときから、全勝で金メダル、というのが前提のチームでしたから。最初からキューバに勝つことが絶対条件だと思って臨んでいました」
こう語るのは先制アーチを放った和田一だった。
その思いに拍車をかけたのは、この日の試合前、球場に向かうバスの中で読み上げられたメッセージだった。送ってきたのは3月に脳梗塞で倒れ、日本でリハビリの日々を送る監督の長嶋茂雄だった。
巨人の監督を退いた直後の1981年に長嶋はキューバを訪れている。以来、選手の優れた身体能力から生まれる華麗なプレーと国を挙げての野球熱を知り、長嶋はキューバ野球の虜となった。アテネ五輪で初めて結成されたオールプロによるドリームチームの監督に就任した直後から、金メダル奪取には、このキューバ野球を越える必然性を何度も説いてきたのも長嶋だったのである。
長嶋茂雄
「キューバ野球を倒すことは、私の悲願となりました。あれ(キューバ初訪問)から23年経ち、今日、その日がきました。諸君たちは何も臆することはありません」
長嶋が「臆することはない」とメッセージを送ったように、チームはこのキューバ戦に向けて綿密に準備を進めてきた。
「試合の日程が決まった時点で、まずキューバ戦に誰を投げさせるかを決めて、そこから逆算して本大会のローテーションを組みました。8月17日のキューバ戦に松坂を先発させれば、決勝進出のかかる24日の準決勝にも中6日で登板できる。そのことももちろん計算済みでした」
こう語ったのは投手コーチの大野豊だ。
ノーマークだった豪州
一方、長嶋がキューバ野球を異様なまでに警戒したのは、キューバにはもう一つの顔があるからだった。
「キューバは一筋縄ではいきませんよ。勝つためなら何でもやってきますから」
こう長嶋が指摘したのは、相手投手のクセ盗みからサイン盗みなどを含め、キューバが得意とした情報戦のことである。戦う前に日本の野球が丸裸にされてしまう。そのことを警戒すると同時に、日本もまたデータをしっかり収集して、逆にキューバを丸裸にする情報戦を展開しなければならないと考えたのだ。
そのために長嶋が監督就任と同時に戦略アドバイザーとして代表スタッフに加えたのが南海、阪神等でコーチとしても活躍し、当時、巨人の運営部特別嘱託スタッフだった柴田猛だった。
柴田はコーチ時代からクセ盗みの名人と言われ、相手チームへの独特の観察眼と洞察力を持つ人物として知られていた。
一方、チーム付きスコアラーにはヤクルトでコーチ、スコアラー、スカウトとして活躍した安田猛が就任。安田もまたスコアラー時代から、データ分析とクセを見抜く眼力に定評がある人物だった。
03年のアジア最終予選を前に柴田と安田は韓国と台湾に飛んで、両チームの代表選手のデータ収集に奔走した。一方、キューバ代表に関しては、五輪本大会を前にした7月13、14日に日本で行われた日本代表との壮行試合2試合と、社会人などを相手にした練習試合にも全試合に同行してデータ収集を行って本大会に臨んでいた。
「確かにキューバに関しては、戦前にかなり分厚いデータがあった」
こう証言したのは野手担当コーチの高木豊である。
「臆することはない」――長嶋がこう選手たちにメッセージを送った背景には、こうしてキューバ戦に向けて周到に準備をしてきた自信があったからだ。
敵を知り、あらゆる力を結集して勝ち取ったキューバ戦の勝利。「全勝で金メダル」という長嶋ジャパンの目標に、大きく前進するものと思われた。
だが宿敵撃破に沸き立つ日本チームに思わぬ冷水を浴びせたのは、ノーマークの豪州だったのである。
豪州代表
「スコアラーの怠慢」
翌18日の豪州戦は予想もしない展開となった。
日本の先発はロッテの右腕・清水直行。両チーム無得点で迎えた4回に、清水が豪州打線に捕まった。
この回1死から清水が5連打を浴びて、あっという間に3点を先制された。その裏にヤクルト・宮本慎也の四球を足掛かりに巨人・高橋由伸の2塁打と中村の犠飛で1点を返すと、5回には中日・福留孝介のスリーランで逆転に成功した。しかし、7回にベンチワークの乱れもあり、日本は再逆転を許してしまう。
清水直行
6回からマウンドに送った横浜・三浦大輔が、いきなり4連打を浴びて同点に追い付かれた。なおも無死満塁。三浦が連打を浴び出してから、ブルペンでは左腕のヤクルト・石井弘寿が急遽、投球練習を始めたが、まだ肩が出来上がっていなかった。ベンチから高木がブルペンにいる投手コーチの大野に電話を入れる。その間にも中畑がベンチを出たり入ったりして時間稼ぎをした。
球審に促されて、ようやく投手交代を告げたが、今度はマウンドの石井が投球練習を終える寸前に、1塁を日本ハム・小笠原道大から同・金子誠に交代させ、さらに練習時間を稼いだ。しかしその甲斐もなく、石井が中前に勝ち越しの2点タイムリーを打たれて逆転を許してしまう。
「継投が遅れたかな、というのはありましたね。三浦が誤算だった」
こう語ったのは投手コーチの大野だった。長嶋を監督登録に据え置いたことで、通常はベンチには監督、コーチ合わせて4人いるはずの首脳陣が、3人しかいなかった。その弊害でもあった。
結局、この豪州戦は8回にも阪神・安藤優也が3点を奪われて4対9の完敗だった。
「言い訳できるとすれば警戒心のなさだった」
後にこう語ったのは中畑である。
「事前の情報では相手の先発は、誰が投げてきても日本は打てるレベル。だから絶対に負けるはずがないということで、データもほとんどなかったんだ」
中畑清
豪州の先発右腕、フィル・ストックマンは、アリゾナ・ダイヤモンドバックス傘下の3Aに所属する無名選手でデータらしいデータもなく、選手はほとんど手探りで攻略するしかない状態だった。
「はっきり言って僕はスコアラーの怠慢だと思いますよ」
こう指弾したのは高木だ。
「柴田さんにもっとデータはないんですか、と聞いたらメンバー表みたいな紙が一枚来ただけだった」
ただ、一方の柴田はこのときの状況をこう説明している。
「私が長嶋さんから頼まれたのは、気づいたことがあったときに長嶋さんにアドバイスをすることで、スコアラーではなかった」
柴田に組織委員会から出されていた身分証は「チーフスコアラー」としてだった。ただそれはあくまで表向きで、日本野球機構(NPB)での、柴田の正式な役職は確かにスコアラーではなく戦略アドバイザーだったのだ。一方、正式なスコアラーの安田は、会場に入れる人数制限もあり、五輪の本大会の途中から合流しており、全試合を観ていなかった。
「そもそも私もオーストラリアの試合を観たのは、アテネに入ってから。それだけで責任を持って相手チームの話もできないし、ああだこうだと情報を与えられませんよ」
柴田は高木にこう反論した。
台湾戦でも大苦戦
ただ一つだけ明確なことがある。それはチームの情報部門がほとんど機能していなかったということだ。俄かには信じがたいが、このときの日本代表は、相手チームのデータがほとんどないという国際試合では致命的となる問題を抱えて五輪を戦っていたのである。本来ならチームを運営するNPBが対処すべき問題だったかもしれない。しかしこの年に勃発したリーグ再編問題で、NPBもまた混乱の渦中にあり、代表チームの編成から運営まで、ほぼ全てを長嶋に一任してしまっていた事情もある。その長嶋が倒れ、あとを受けた中畑は直接、長嶋と対面できないままに本大会に向かわねばならなかった。そうした様々な要因が、この本番の大事な局面で、ガバナンスの欠如として表出したのである。
予想しなかった豪州戦の敗北。
これでチーム結成から掲げていた「全勝で金メダル」という目標は絶たれたが、それでもまだ5大会ぶりの金メダルという絶対目標を失った訳ではなかった。
しかしその悲願の金メダルの夢を打ち砕いたのもまた、因縁の豪州だったのである。
豪州に黒星を喫した後の予選リーグでは、台湾戦ではニューヨーク・ヤンキースのマイナーに所属し、翌年にはメジャーでも活躍した右腕・王建民に大苦戦。7回に高橋の同点ツーランで追いつき、延長10回1死満塁から小笠原の犠飛で、高橋が本塁にヘッドスライディングで生還。劇的なサヨナラ勝ちで準決勝進出を決めている。
結果的には日本が予選リーグで敗れたのは豪州戦だけで、1位通過が決定。2位での突破を決めていたキューバに続いてカナダと豪州が四強入りしたが、豪州は最後のカナダ戦で主力選手を温存して、0対11で大敗。結果的に4位での突破を決めていた。
城島が見せた苛立ち
「考えてみると、オーストラリアは、あえてカナダに負けて、キューバではなく、よく知っている日本との準決勝を選んだと思う」
中畑が述懐するように、このときの豪州チームの監督、ジョン・ディーブルはボストン・レッドソックスの環太平洋地区担当スカウトとして日本のプロ野球をよく視察していた人物だ。さらに捕手のデーブ・ニルソンは「ディンゴ」の登録名で00年に中日でプレーしていた経験があった。またクローザーを務めたジェフ・ウィリアムスは現役の阪神のリリーバーで、豪州は、日本の野球、選手の特徴を熟知したチームだったのだ。
だからこそとにかく正直に勝ち続けることだけを目標に掲げた日本に対して、豪州は戦略的にカナダに負けることで日本との準決勝に勝機を見出していたということだった。
一方、日本は相変わらず豪州のデータ収集を巡り混乱が続いていた。
「あまりに情報がないので、城島が『自分の目で確かめにいく』と言って、選手みんなでオーストラリアとカナダの試合を観に行きました」
こう語る主将の宮本もスタンドから攻略へのヒントを掴もうと、真剣な眼差しで両チームの選手の動きに目を凝らした一人だ。
もちろんこのとき中畑、高木、大野のコーチ陣も、スタンドの別の場所からこの試合を観ていた。しかしそのことを知らなかった城島が報道陣に「なぜ中畑さんは観に来ないんですかね」と批判的なコメントをしている。こうして選手と首脳陣の間にさざ波めいたものが立っていたのも、情報不足への苛立ちが一つの原因だったかもしれない。
金メダルの夢が潰えた
8月24日午前11時30分。エリニコ・オリンピック・コンプレックス周辺にはエーゲ海独特の強風が吹き荒れていた。その中で日本は松坂、豪州が右腕のクリス・オクスプリングの先発で、運命の準決勝はプレーボールがかかった。
紙一重の戦いで、先にチャンスを掴んだのは日本だった。
3回に和田一の左翼線2塁打と送りバントで1死3塁のチャンスを迎えると、そこで打席に入ったのは1番の福留だ。その福留がオクスプリングから右翼に大飛球を放った。
その打球をネクストバッターズサークルから見ていた宮本は、次のように語る。
「打った瞬間に打球がライトの定位置方向へ飛んだので、『よっしゃ、行った!』と思いました。そうしたらそこから強風に煽られて、どんどん切れていってファウルになってしまった。僕としては『エッ、あれがファウルになるの』って感じですよ。それくらいの強風で、あれが入っていれば先制ツーランですから。展開は全然違っていたはずです」
この日、オクスプリングのスライダーは140㎞を超えてキレも抜群。その高速スライダーに打者のタイミングを外すチェンジアップが面白いように落ちた。
「その後に阪神でプレーしたときには、あまりいい(投手)とは思わなかったですけどね……でも、あのアテネの試合だけは一生に一度が出てしまった。それが一発勝負の怖さですし、それを出せるのも彼の力だと思います」
高橋が振り返ったように、その後もこの右腕に手こずり、日本は走者は出しながら、決定打が奪えないジリジリした展開が続いていった。
一方の松坂は、初回からキューバ戦での打球直撃の影響を微塵も感じさせない滑り出しを見せた。
一回を三者連続三振で仕留めると、150㎞を超える真っ直ぐに鋭く曲がるスライダー、チェンジアップで5回まで打者18人から奪った三振は、毎回、全員の10個。許した安打も僅か1本で四球が2つと、ほぼ完璧な内容で豪州打線を料理していった。
しかしその完璧な投球が、わずか1球の失投で崩れてしまったのは6回だ。2死1、3塁で、打席に5番のブレンダン・キングマンを迎えた場面。ワンボールから松坂が投じた2球目のスライダーが、スッと外角高めに抜けたように入っていった。
このときテレビ中継の解説をしていた元阪神監督の星野仙一が「アウトコースの甘いところだけ」と、危険な球を指摘しかけたその瞬間である。まさにその危険な「アウトコースの甘いところ」に入った失投を右前に弾き返された。
先制のタイムリー安打。そしてこの1点が、この試合で両軍が唯一、入れた得点となったのである。
「レフトから見ていて、打たれた瞬間にやられたと思いました」
こう振り返るのは和田一だった。
「あそこで1点を先制され、全員がまずいなと感じたと思います。でも、結局は打てなかったことに尽きる。データのこととか、色々あるとは思いますけど、それでも打てなかったのは力負けです」
7回には相手の2つの失策から2死1、3塁の同点機を作るが、代わったウィリアムスに阪神のチームメートの藤本敦士が3飛に倒れて万事休す。9回も三者凡退に抑え込まれて、日本の金メダルの夢は消滅した。
「長嶋茂雄なしでは語れない」
「負けた瞬間ですか……」
主将の宮本は少し目を瞑ってこんな風に語った。
「最初に思ったのは、これで長嶋さんに金メダルを届けることができない、ということでした。もちろん日の丸のため、“フォア・ザ・フラッグ”という思いもある。国民の期待に応えなければならないという使命感もあった。でも、僕の中の比重は長嶋さんに金メダルを持って帰って、喜んでもらいたいという思いの方が大きかった。子供が100点をとって、早くお父さんに見せたいという感じ。何があるわけじゃないけど、喜ぶ顔が見たい。それだけでした」
こうした思いは宮本だけではない。高橋もこう語る。
「長嶋ジャパンなんです。あのチームは長嶋茂雄なしでは語れない。もちろん日の丸や日本の野球界、国民の期待……中畑さんや首脳陣も、僕たち選手も、みんなが色んなものを背負っていたし、自分のためじゃない戦いだったと思います。あんな切羽詰まった思いで野球をやったのも初めてだった。でも、そこには常に長嶋さんという存在があった。あのアテネで戦った日本代表というのは、やっぱり長嶋監督が作って、率いた長嶋ジャパンだったんです」
悲願だった金メダルは、手の届かないところに行ってしまった。重苦しい空気に包まれたスタジアムからの帰り道。もう一度、気持ちを奮い立たせるように、宮本はナインにこう語りかけた。
「残念な結果になってしまったけど、これで終わりじゃない。気持ちを切りかえて、3位決定戦に集中しよう。色は違うけど、必ずメダルを日本に持って帰って、長嶋監督に届けよう」
宮本慎也(左)と高橋由伸(右)
圧勝した3位決定戦
8月25日のアテネは快晴だった。澄み渡った青空の下で行われたカナダとの3位決定戦は、日本が持てる力を余すことなく発揮したような試合展開での圧勝に終わった。
初回に城島のツーランで先制すると、3回には高橋の送りバントで繋いだ1死満塁から和田一のタイムリー、中村の押し出し四球。さらに準決勝の豪州戦で右足首の靱帯断裂のケガを負ったオリックス・谷佳知に代わって、左翼に入った広島・木村拓也の適時打も飛び出し4点を追加。8回にも4本の長短打を集中して4点を追加した。守っても先発のダイエー・和田毅から広島・黒田博樹とつなぎ、最後は守護神のロッテ・小林雅英が締めた。
カナダの最後の打者を右飛に打ち取り、打球が福留のグラブに収まった瞬間に、ナインはそれぞれの手を握りあい、抱き合った。そしてこの戦いの間、長嶋直筆の「3」が記された日の丸とともに、ベンチにかけて戦況を見守ってきた「背番号3」のユニフォームがグラウンドに引っ張り出されてきた。そしてそのユニフォームを中心に、選手の歓喜の輪が広がった。
「金メダルを取ることを期待されながら果たせなかったが、ここまでの足跡は一つも恥じることのない戦いだった。選手は全力を出し切った。長嶋監督の期待通りに、選手は野球の伝道師を担ってくれた」
試合後の中畑の声もまた涙で揺れていた。
「WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)や他にもいろいろな国際大会はあるけど、オリンピックというのはオリンピックにしかない独特なムードがある。やることは一緒なんだけど、勝負のムードが全然違う。しかもあのチームは初めてオールプロで長嶋さんを監督に戴いたチームだった。しかしその長嶋さんのいないところで、金メダルを取りにいかなければならないというプレッシャーもあった。負けた責任は全てオレにある。それだけだよ」
現在も中畑に後悔はなかった。
「全然、いいんだよ」
アテネでの戦いを終えたチームが成田空港に戻ってきたのは、8月27日のことだった。帰国後は千葉・成田市内のホテルで記者会見が予定されていた。するとそこに長嶋が駆けつけて出迎え、脳梗塞を発症後、初めて代表メンバーと直接対面を果たすことになった。
ホテルの宴会場の扉を、中畑が恐る恐るという感じで開けて部屋に入ると、そこにはジャケットにパンツ姿の長嶋が椅子に座って待っていた。
「お疲れさん」
長嶋の第一声は辿々(たどたど)しい口調だったが、はっきりと中畑には聞こえた。
「すみません。メダルの色が中途半端で!」
中畑が応じると、長嶋が満面の笑みを見せた。
「ああ、うん……全然、いいんだよ」
中畑と宮本がそれぞれ大会の報告を行い、その後に長嶋は椅子に座ったまま、選手一人一人と自由になる左手で固い握手を交わした。
ただ、右半身に不自由が残り、以前の“長嶋節”がすっかり消えていた。その不自由な長嶋の姿を見て、改めて選手たちは、脳梗塞の後遺症の重さを知ることにもなった。
「直接、お目にかかって、正直言って、ショックを受けたというのはありました。これほどまでに大変だったのか、と……。でもあんな不自由な身体でも、成田までわざわざ迎えにきてくださった。直接、お目にかかって改めて感動もしました」
こう語ったのは和田一だった。
直前に長嶋が希望して実現した出迎えだったために、このとき選手の誰も銅メダルを携行していなかった。そこでセレモニーが終わると改めて中畑と宮本、高橋の3人が別室で休んでいた長嶋のところにメダルを携えて訪ねていった。
宮本が直接、長嶋に銅メダルを手渡すと、満面の笑みを浮かべて長嶋が手に取って眺めた。
「負けたときは、長嶋さんに申し訳ない、合わせる顔がないと思ったけど、メダルを渡すと本当に嬉しそうな感想を話されたので『ああ銅メダルでも喜んでくれているんだな』とほっとしたのを覚えています」
感触を確かめるように、何度もメダルを左手で触りながら、長嶋はこう呟いていた。
「意外に重いんだなあ」
銅メダルを通してアテネの激闘の重さを長嶋さんも感じてくれている。そのことが3人には嬉しかった。
(了 文中一部敬称略)
文藝春秋2021年7月号|短期集中連載「長嶋茂雄と五輪の真実」最終回
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