小説「観月 KANGETSU」#60 麻生幾
第60話
逃走者(2)
★前回の話はこちら
※本連載は第60話です。最初から読む方はこちら。
「口臭?」
涼が訝った。
「田辺さん、いつも口臭が強かったけん……」
さらに七海が語りかけようとした時、制服警察官が駆け込んできた。
「捜査本部の正木警部補が至急、連絡せよ、とん無線が入りました」
「あっ、ありがとう」
そう言って涼が携帯電話を見ると、ディスプレイに正木からの何度もの着信履歴が残されていた。
涼は、七海を自宅の中に連れてゆき、リビングのソファに座らせてからもう一度、外に出て正木に携帯電話で報告した。
「何度も電話したんやぞ」
まず正木が叱りつけた。
「すみません!」
素直に謝った涼だったが、気になったのは正木の声の後ろから聞こえる、高らかに鳴り続けるサイレン音だった。
――正木は捜査車両を運転しながらハンズフリーで電話をかけている?
「すでに田辺智之を全国指名手配とし、県内と隣県もすべてん主要道路で検問を開始した。わしもあと五分余りで、そっちん現場に着く。確か、マルガイ(被害者)の家は、『塩屋の坂』に近えところやな? よし、なら、『塩屋の坂』の下で待っちょけ」
それだけ一気に捲し立てた正木は、涼の言葉を待つまでもなく通話を切った。
七海の家に戻ってリビングに足を向けた涼は七海の足元にしゃがみ込んだ。
「頭痛はねえか?」
涼は七海の瞳を凝視した。
眼球が彷徨っている風はないかを観察した。
「ありがとう。でも痛みはないわ」
七海は、涼と再会してから初めて素直な気持ちでそれが言えたことに自分でも気がついた。
玄関のドアが開く音がして、すぐその後に激しい足音が聞こえた。
「七海!」
母親の貴子が悲愴な表情で七海のもとに駆け込んできた。
体中に目をやった貴子は、ふと辺りを見渡した。
「こりゃいったい……」
リビングにある椅子やポールハンガーなどが散乱し、テーブルから落下して割れた幾つかの食器の破片が広がっている。
「で、七海、どうなん? 怪我はねえん?」
振り返った貴子は七海の手を取って何度も擦った。
「しょわねえちゃ(大丈夫よ)」
七海に笑顔が蘇った。
「でも、手のここが擦り切れちょんし……えっ、足のここも……」
貴子が七海の手足に忙しく視線をやった。
「ちいと擦っただけちゃ……」
七海はぎこちない笑顔を作った。
だが母は七海を抱き寄せた。
困惑する七海をよそに、母はしばらくそのままでいた。
母が指で自分の目を押さえていたように思えた七海が心配そうに視線を投げかけた時、制服警察官と話し込んでいた涼が七海に近づいた。
「七海、オレはこれから田辺智之を追う。必ずふんづかまえちやる!」
涼は語気強くそう言うと急いで玄関へと向かった。
もう少し、涼との話が弾むかと思っていた七海は拍子抜けの思いだった。
「失礼します!」
制服警察官の背後からスーツ姿の男と、黒いパンツ姿の女性が入ってくるのが七海の目に入った。
七海はその二人に覚えがあった。
田辺智之に階段から突き落とされた時、事情聴取のため病院まで出向いてきた別府中央署の刑事たちだ。
「捜査本部の正木警部補から、お話をお窺いするよう指示されました。お体に差し支えなければ聞かせちくりい」
年配の方の磯村刑事が言った。
「あなた方は確か──」
七海が怪訝な表情を向けた。
あの時は、そう関心もなさそうだったのに、今の2人は緊迫した雰囲気に変っていた。
「わたし達は、田辺智之の事件を取り扱う捜査本部に入りました。すでに首藤刑事にお話しをされていると思いますが、もう一度、詳細を教えてください」
そう説明したのは黒木亜美刑事だった。
(続く)
★第61話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生まれ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
▼月額900円で『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!