日本共産党と文藝春秋の100年 本誌に残るマルクス主義者の生々しい証言 中北浩爾(一橋大学大学院教授)
田中清玄は武装時代を語り、宮本顕治は「鉄の規律」に胸を張った。/文・中北浩爾(一橋大学大学院教授)
共産主義社会というユートピア
雑誌『文藝春秋』の創刊は1923(大正12)年、その前年に結成されたのが、日本共産党です。今年でちょうど100年になります。
現在からは想像がつかないほど、戦前の日本共産党は知識人や若者の間に大きな影響力を有していました。財閥や大地主の存在にみられるように巨大な格差が存在し、政治的にも民主主義が不十分だったからです。こうしたなか、日本社会が抱える諸問題を構造的に説明し、解決に導く理論として、マルクス主義が多くの人々を惹き付けました。
マルクス主義は生産力と生産関係の矛盾から必然的に革命が起き、最終的には共産主義社会というユートピアが実現すると主張します。ロシア革命を通じて成立したソ連は、当時は社会主義国家とみなされていて、革命の必然性を説くマルクス主義の正しさを体現する存在に他なりませんでした。
そのロシア共産党(後にソ連共産党)が主導するコミンテルン(共産主義インターナショナル)の支部として成立したのが、日本共産党です。前年には、中国でも共産党が誕生していました。両党はコミンテルンを母とする兄弟党なのです。
そして、国際共産主義運動の指導党とみなされていたのが、ソ連共産党でした。
戦前の日本共産党は非合法の存在であり、厳しい弾圧を受けました。当然、共産党を堂々と名乗って文章を公に出版することはできず、翌年に創刊された『文藝春秋』にも、幹部の肉声は残されていません。1945年の第2次世界大戦の終結後、アメリカ占領軍により合法化されて初めて、戦前の日本共産党の実像について語られるようになります。
1950年3月号「共産党との訣別」山川均
1952年11月号「ブハーリンの逆鱗」福本和夫
1950年6月号「武装共産党時代」田中清玄
1950年9月号「武器を持つ地下闘争」佐野博
1933年7月号「共同被告同志に告ぐる書」佐野学・鍋山貞親
1933年8月号「『転向』の歴史的背景」門屋博
1950年1月号「わが人生観」徳田球一
1949年7月号「天才的オルグ」志賀義雄
1949年10月号「網走の覚書」宮本顕治
1957年1月号「ハンガリー流血の教訓」宮本顕治・臼井吉見
1961年9月号「日本共産党は誰のものか」春日庄次郎
1964年7月号「日本共産党に訴える」志賀義雄・大江健三郎
1972年8月号「わが党は中国に屈服しない」宮本顕治
1975年4月号「離反者たちの共産党論議」宮本顕治
1974年6月号「日本共産党『民主連合政府綱領』批判」グループ1984年
1974年7月号「民主連合政府綱領批判への反批判」上田耕一郎・工藤晃
1996年1月号「日本共産党にも言わせてほしい」不破哲三
1997年12月号「不破哲三日本共産党委員長 徹底インタビュー」井田真木子2013年8月号「大企業は内部留保を切り崩せ」志位和夫・池上彰
2021年5月号「日本共産党委員長 中国共産党を批判する」志位和夫
1950年3月号「共産党との訣別」山川均
1952年11月号「ブハーリンの逆鱗」福本和夫
山川均は戦後、日本社会党の左派の理論的支柱になった社会主義運動家です。1922年に結党された当初の日本共産党の中心人物は、その山川でした。山川の回想には記憶違いが少なくなく、この論考でも「僕は党の中心にいなかった」など真実とは異なる証言をしていますが、次の発言は創立された第1次共産党の様子をよく伝えています。
「ボリシェヴィズム理論というものは、多くの人たちにはまだよく分っていなかった。僕自身にしても、知りたいと勉強はしていたが、なかなか資料がえられなかった。
こういう社会主義者のあいだに、おのずから一つのグループが成長した。公然の集会や結社の自由のない当時のことだから、それはいきおい人と人とのつながりで集まった限られた数の人々だった。この自然発生的なグループが、そっくりそのまま組織をもつようになったのが、第一次共産党だったのだ」
ボルシェビズムというのは共産主義のことで、1917年のロシア革命(10月革命)で権力を握り、後に共産党を名乗ることになる社会民主労働党の左派、すなわちボルシェビキの理論を意味します。当初の日本共産党はイデオロギー的な一致ではなく、人的な結合に基づいて生まれ、そこに深刻な弱点があったと、山川は証言しています。
だからこそ大衆に基礎を置く党組織が必要だと考え、「無産階級運動の方向転換」を提唱したと言い、翌々年になって解党を決めたことに賛成であったと語っています。日本共産党は1926年末に再建されますが、山川は参加せず、翌年に雑誌『労農』を創刊して対峙します。
山川に代わって彗星のごとく現れ、再建された第二次共産党の理論的リーダーになったのが、福本和夫でした。緩やかな人的な結合に基づく党組織を脱却すべく、大衆的な党組織を目指した山川とは反対に、福本は思想的に純化した前衛党の建設を唱えます。
しかし、ブハーリンが率いていたコミンテルンは、急進的な福本イズムに反対でした。福本らはモスクワに赴いて、コミンテルンを説得しようとしましたが、逆に屈服を余儀なくされ、自己批判を行います。その時の出来事を、福本はこう振り返っています。
「ブハーリン司会の或る小委員会で、さいしょかれは、かれの著書論文の多くが、日本に飜訳されていることをきき、満顔の微笑をたたえてニコニコしていたが、日本の一委員が、おせっかいにも、余計な口をきいて、しかし、同志福本だけは、同志ブハーリンの唯物史観に反対意見を書いています、とバクロにおよぶや、かれはたちまち不機嫌になってしまった。そして、それいらい私に対するかれの態度は、急に一変してしまった。ブハーリンは感情家だナ、とつくづく私はおもわされた。漢文の古語に、逆鱗にふれる、というは、まさに、かくのごときをいうのであろう」
様々な証言を総合すると、実際に醜態を晒したのは、ブハーリンではなく福本であったようです。意気揚々とソ連に乗り込んだ日本の幹部は、次々とコミンテルンに説得され、福本を擁護していたはずの徳田球一も態度を豹変させます。福本自身も簡単に屈服し、失望を買いました。福本イズムを否定された日本共産党は、初めての綱領的文書として、ブハーリンが作成した1927年テーゼを受け入れました。活動資金を依存していたこともあり、日本共産党は名実ともにコミンテルンへの従属を決定的なものにしたのです。
山川均
1950年6月号「武装共産党時代」田中清玄
1950年9月号「武器を持つ地下闘争」佐野博
コミンテルンはその後、一転して急進化し、ブハーリンは右翼的偏向と批判され、失脚します。それを加速させたのは、1929年の世界恐慌の発生でした。おりしも日本では共産党への弾圧が強まり、1928年の三・一五事件、翌年の四・一六事件と全国的な一斉検挙が行われ、経験豊かな幹部が軒並み逮捕されてしまいました。そこで、委員長に就任したのは、弱冠23歳の田中清玄です。急進的な方針のもと、多数の警察官傷害事件が発生し、武装共産党と呼ばれることになります。田中は戦後、その時代のことを生々しく証言しています。例えば、アジトを転々と移すなかで1930年に起きた和歌浦事件について、こう述べています。
「当時、和歌浦の或る別荘に党本部があった。それを前納善四郎が逮捕されるや2時間で自白した為に、警官隊に襲われたのだ。前納は酒と女にだらしがない男で、いつ秘密を洩らすかわからないと心配していたのだったが、案の定、捕われて2時間ほど拷問をやられて、あとはヤケになってすっかり喋ってしまったのだ。それで警官隊が襲って来た。私はなんだか空気が怪しいので、一足先に立去った直後だった。佐野も一緒だった。警官隊がすっかり武装し、蒲団を防弾の楯にし、鉄帽をかぶって入って来た。向うが先に発砲して、それから射合いとなって、双方に相当の怪我人を出した。田島善幸がそのとき、殺すつもりでなしに、誤って警官を刺殺してしまった」
この文章にも登場する佐野博は、田中に次ぐ最高幹部でしたが、当時の武装闘争の背景に関して、次のように説明しています。ロシア革命に始まる共産主義は当初、以下に述べられるような暴力革命を目指していたのです。
「当時われわれが革命闘争の最高の形態として考えていたものは大衆的な武装叛乱による政治権力の奪取である。コミンテルンの綱領にもそれが明記してあった。要するに、ロシア革命を雛形としたものだ。〔中略〕ゼネ・ストをやって大衆を動員し、産業と相手の権力を麻痺させ、当局の弾圧に抗して防衛闘争に大衆を起たさせるという形で赤衛隊、防衛委員会その他の名の下に部隊編成しておき、いよいよ決定的チャンスが来た瞬間に、先ず立つ。武器庫を襲って奪い、武装した大衆を共産党の組織した軍事革命委員会が指導する。これが革命の定石である。〔中略〕暴力革命を建前とする以上独り大衆的テロに限らず、個人的テロも共産党にはつきまとい勝ちなのである」
田中清玄
1933年7月号「共同被告同志に告ぐる書」佐野学・鍋山貞親
1933年8月号「『転向』の歴史的背景」門屋博
戦前、唯一、誌面に掲載された共産党幹部の肉声は、離党者や転向者のものでした。なだれと呼べるほどの大量転向が起きるきっかけになったのが、1933年6月10日、獄中の佐野学と鍋山貞親の転向声明です。
三・一五事件や四・一六事件などで捕らえられた党員は、一部の脱落者を除いて100名を超える被告団を結成し、統一公判を闘っていました。それを指導していたのが、佐野と鍋山の両名を中心とする法廷委員(獄内中央委員)です。
学者出身の佐野は元党委員長で、コミンテルンの執行委員も務めました。鍋山は渡辺政之輔亡き後、労働者出身の最有力の指導者でした。抜きん出た経歴と信望を持つ2人の最高幹部が転向したのですから、影響は甚大でした。『文藝春秋』はいち早く転向声明「共同被告同志に告ぐる書」の全文を掲載しています。
その核心的な主張はプロレタリア国際主義の否定と自民族優先主義にありましたが、次のような書き出しから始まります。
「我々は獄中に幽居すること既に4年、その置かれた条件の下において全力的に闘争を続けると共に、幾多の不便と危険とを冒し、外部の一般情勢に注目してきたが、最近、日本民族の運命と労働階級のそれとの関聯、また日本プロレタリア前衛とコミンターンとの関係について深く考ふる所があり、長い沈思の末、我々に従来の主張と行動とにおける重要な変更を決意するに至った」
日本共産党はコミンテルンの支部として成立したことに由来する大きな矛盾を抱えていました。日本の特殊性を無視した画一的な方針を押しつけられたからです。とりわけ天皇制の打倒は、治安維持法などで激しい弾圧を招いてしまうということ以前に、そもそも大衆の支持を得るのが難しい方針でした。そうした事情が転向の背景にありました。
これより数年前、1929年には日本共産党の内部に水野成夫、南喜一らの「解党派」が生まれ、転向していました。
水野と南は1940年に大日本再生製紙を設立し、戦後はともに合併先の国策パルプの役員を務めるとともに、水野はフジサンケイグループの基礎を築き、財界でも活躍して「財界四天王」と呼ばれ、他方、南はヤクルトの会長になります。
その水野らの「解党派」の一員であった門屋博が、佐野・鍋山の転向声明を受けて、本誌に寄稿しています。
「転向問題は、決して単なる裏切りや落伍として簡単に片附け得る問題ではない。それは左翼の公式主義者が、習いたてのABCの共産主義の単純な理論から割り切ることの出来る問題ではない。何故なら、私をして云わしむるなら、それは左翼公式主義者が主張しているような、支配階級の奸策や反動期の重圧によって生じた外科的症状ではなくして、日本共産党の内部的缺陥が生んだ必然的産物だからである。かかる内部的缺陥は『共同被告同志に告ぐる書』の中に述べられているように、『コミンテルンが日本の特殊性を根柢的に研究せず、ヨーロッパの階級闘争の経験殊にロシア革命の経験にあてはめて日本の現実をひきづってゆく』ことに起因するものであろうが、同時に又日本の指導者の理論的水準が低く(これは日本のプロレタリアートが未だ若く経験の薄い結果でもある)日本の現実を研究し、その特殊性を充分に認識する能力がなかった結果なのである」
もちろん、戦前の幹部にも転向しない人々が少数ながらいました。戦後、合法化された日本共産党は、彼らによって指導されることになります。
1950年1月号「わが人生観」徳田球一
1949年7月号「天才的オルグ」志賀義雄
なかでも徳田球一は、1928年に逮捕され、34年に懲役10年の判決を受けた後、極寒の網走刑務所で7年間を過ごし、千葉刑務所、小菅刑務所を経て、東京予防拘禁所に移されました。
それは刑期満了後も社会から隔離するための施設であり、当初、中野の豊多摩刑務所に設けられ、終戦直前に府中刑務所に移転します。予防拘禁所は比較的自由であり、戦後の再建に向けて早くから準備を進めていたことを、徳田は回想しています。
「終戦の年、10月10日から共産党は発足したといわれているが、実はその以前から計画は進められていた。実刑をうけていた同志諸君とは連絡はとれなかったが、刑を了えた後に拘禁所に入れられていた同志たちは、お互にも、また外部とも密接に連絡がとれていた。そしてすでに3年ばかり前から、機会が来ればどうするという計画ができていた。〔中略〕だから、われわれは出獄するまえ、すでに『人民に訴う』という短いものだが、今のわれわれの行動の底を貫ぬくものを書いていたのである。10月8日は雨のひどい日であったが、その中を同志山田勝次郎が群馬の高崎市から訪ねてきてくれた。そのときに提供してくれた金が出獄後、機関紙『アカハタ』を再刊する資金になった」
徳田と同じ獄中18年、ともに府中刑務所から解放されたリーダーに、6歳下の志賀義雄がいました。戦後の日本共産党はこの2人を中心に再建されますが、中国共産党の協力のもと日本人民解放連盟を組織して反戦活動を行っていた野坂参三が、そこに帰国します。
徳田、野坂、志賀は、終戦直後の日本共産党でトロイカと呼べる存在でした。志賀は徳田と野坂について次のような人物評を書いています。
「徳田君と野坂君とはまことに対蹠的だ。徳田君の声は大きい、野坂君は小さい。徳田君は疾きこと風のごとく、烈しきこと火のごとく、野坂君は動かざること山のごとく、静かなること林のごとしである。いかにもそうだが、そうばかりでもない。
多年の監獄生活の経験によると、徳田君はうごかないときには、山のようにうごかない。じりじりと神経をすりへらすような圧迫をしてくるとき、わかい同志たちは気があせりだす。もうやろうという。だがそのとき、かれはまだはやい、まてという。そうなると、あいては油断して、図にのってくる。いろいろ尻尾もだし、腐敗もかさなる。そしてひとたび好機がくると、かれはその前髪をばっととらえて、猛烈な反攻にうつる。しかも組織的に」
野坂参三
徳田が戦後の再建とともに当時の最高ポストの書記長に就任したのは、結党以来の経歴や年齢はもちろん、圧倒的な行動力が評価されたからでした。情に篤く人間味豊かな人柄で、細かい心配りもできる人物だったという回想が数多く残されています。しかし、今では徳田は無理論の経験主義者、粗暴な家父長主義的指導者などと批判されています。
確かに、そうした側面は否めず、特に個人専断的な人事が行われ、党指導部の内部に亀裂が走りました。1950年、ソ連を中心とするコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が野坂の平和革命路線を批判する論文を発表すると、その扱いをめぐって徳田や野坂ら「所感派」と志賀などの「国際派」の対立が生じ、日本共産党は分裂状態に陥ります。
最終的にコミンフォルム批判を受け入れた徳田と野坂は中国に渡り、国内では「所感派」の指導のもと武装闘争が実施されました。都市部で火炎瓶闘争が行われ、農村部には山村工作隊が送られたのです。しかし、結局、武装闘争は無残な失敗に終わり、徳田も中国で客死しました。
1955年、日本共産党の第6回全国協議会(六全協)が開かれ、「極左冒険主義」を自己批判しつつ、両派は和解します。そして、野坂を象徴的存在として担ぎながら、最高実力者に躍り出たのが、「国際派」の実力者の宮本顕治でした。
その宮本の指導のもとで、日本共産党は徐々に平和革命路線を固めていきます。
徳田球一
1949年10月号「網走の覚書」宮本顕治
1957年1月号「ハンガリー流血の教訓」宮本顕治・臼井吉見
宮本顕治は、査問中に中央委員の小畑達夫が死亡した1933年末の「スパイ査問事件」で検挙された後、未決のまま市ヶ谷刑務所から巣鴨の東京拘置所に移され、45年5月4日に無期懲役が確定すると、網走刑務所に移送されました。宮本が網走に囚われていたのは徳田に比べると短期間でしたが、厳しい管理下に置かれ、同志もほとんどおらず、徳田のようには解放後の準備ができませんでした。
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