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小説「観月 KANGETSU」#70 麻生幾
第70話
「タマ」(2)
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※本連載は第70話です。最初から読む方はこちら。
「よくやってくれた」
萩原は砂川にそう労ったが、前屈みとなって腕を組むと表情はさらに厳しくなった。
「だが、意識を取り戻しても熊坂はもはや何も言わない」
萩原が決めつけた。
「いや、そう判断されるのはまだ早いかと──」
砂川が慌てて言った。
「熊坂は、死期が近いことを悟っている。ゆえにすべてを墓場まで持ってゆく覚悟はもはや揺るぎない──」
「確かに。黙秘を貫くあの頑強さはその思いがあるからですね」
砂川が納得した風に頷いた。
「主任、自分は、こう思うんです。根拠のない推察ですが話してよろしいですか?」
振り向かないまま萩原は頷いた。
「熊坂という男は、昔、刑事事件で重い罪を犯し、検挙されずに逃亡している、いや間違いなくコロシ(殺人)──自分はそう思うんです」
そう言ってから砂川は自分の両手を広げてさらに続けた。
「よく考えてみてください。熊坂が自分の両手の全指紋だけでなく掌紋(しょうもん・手のひらの指紋様の線)も消すという、そんな真似をするのはやはり尋常じゃありません」
砂川が自分の言葉に納得するように頷いてからなおも話を続けた。
「そこから導き出されるのは、それだけするには理由があった、ということです」
「何が言いたい?」
萩原が訊いた。
「例えば、です。逃亡している殺人犯であればそれだけをすることに合点がゆきます」
萩原は黙って聞いていた。
砂川が続けた。
「しかし、3ヶ月前、真田は何らかの方法で、熊坂の本当の正体を知った。だから杵築へ行った」
砂川は萩原の反応を窺ったが、黙ったままだった。
「で、熊坂と会って問い詰めた。しかし熊坂は否定した。だから、真田は東京に戻ったが、それからも熊坂宅に電話をかけて追及した──」
「ちょっと待て。正木主任によれば、熊坂夫婦が杵築にやってきたのが24年前──。たとえ殺人を犯していたとしても、妻の名義だけで暮しをしていたとしても、隠れるように暮らしていない。それがどうも納得ゆかない」
萩原が低い声で言った。
「確かに……。被害者遺族からの民事提訴に時効はありません」
砂川がキッパリと言った。
萩原の反応を窺ったが、窓越しに雨で霞む景色を見つめていた。
砂川は構わず続けた。
「そもそも殺人犯という過去をバラされたら世間体(せけんてい)というものがあったでしょうし……」
砂川はそう言ってからハッとして顔を上げた。
「主任、もしかして……」
砂川は、自分で思いついたことに驚愕し、萩原の顔を覗き込んだ。
「大分県警の警備部は、真田の過去の所属と職種について、《本部警備部の庶務的な所掌事務》としか明らかにしませんでした──」
砂川は言葉を一度切ってからその言葉を口にした。
「熊坂は、真田と元同僚の関係だったんじゃありませんか? つまり、過去、大分県警警備部の本官(ほんかん・警察官)だったんじゃ……」
「大分県警はそれに気づいて、隠蔽しているというわけか?」
萩原が振り向かずに言った。
「そうです。何より大分県警の反応は余りにも不可解です」
砂川の勢いは止まらなかった。
「だからこそ、真田はわざわざ杵築まで出向いて熊坂に会ったし、何度も電話を入れた。どうです? この仮説ならすべての辻褄が合うと思いませんか!」
砂川は萩原に迫った。
「今、君が立てた筋読みは一理ある。しかし──」
「しかし?」
砂川が眉が上げた。
頷いた萩原が続けた。
「矛盾するところも多い」
「矛盾? どこがです?」
砂川が不満そうな表情で訊いた。
「例えば、杵築にやって来た真田は、熊坂の店に立ち寄って、妻の久美ともども店内で談笑しあっているのが目撃されている。逃亡している奴とその妻とのシーンとしてはおかしいだろ」
萩原は振り返って続けた。
「ともかく、なぜ真田は熊坂と会ったのか、その理由を突き止めることが最優先だ」
(続く)
★第71話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生れ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。