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清武英利 記者は天国に行けない(8) 母は無罪だった 警察発表は疑いながら聞くものだ——オンライン記者が嚙み締めた教訓

文・清武英利(ノンフィクション作家)
★前回を読む。

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「100人のうち99人に嫌われても、残り1人に本当に好かれれば、新聞記者はそれで良い」というのが、シニカルな元上司の信条であった。

私が読売の社会部記者だったころの話だ。記者研修で、「記者はまず好かれる人間であれ」と教育されてきたから、逆説的なその話に惹かれて、その理由を尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「特ダネを取るには、好かれるだけではだめなんだ。たった1人であっても、その人に心から信頼され、何でも教えてもらえる、そんな記者が人生一度の記事を書ける」

元上司は敏腕で厳格な警察記者で通っていた。

「明るくて、かつ仕事ができる記者はめったにいない。完璧な記者はいないってことだな。だから、部下を選ぶときには、明るい記者か、それとも仕事のできる記者か、どちらかを選択しなければいけないわけだ」

そして、彼は社会部員の名前を挙げて、私に問うた。

「うちの新聞社で言えば、特ダネは取れないが明るく爽やかなT青年と、仕事はできるが扱いにくいM記者と……。君ならどちらを部下に選ぶか?」

元日本経済新聞記者の菊地悠祐(ゆうすけ)に初めて会ったとき、不意にそんな会話を思い出した。

この連載を始めるにあたって、新聞から雑誌、ネット、業界紙、政党機関紙に至るまでいろんなジャンルの記者たちに次々に会って、根掘り葉掘り質問攻めにした。取材した記者のなかに、31歳の菊地がいた。彼は日経からKADOKAWAの文芸編集者を経て、昨年、文春オンライン記者に転職している。

前述の「二択」を問う元上司に対して、私が選んだ答えは後者だったが、菊地は、その「仕事はできるが扱いにくい記者」という印象そのものなのである。

「夜の街の取材にちょうどいいから」と彼は言うのだが、シャツからパンツ、ローファーまで黒のZARA(マスクまで黒だった)――つまり真っ黒のファストファッションで178センチ、60キロのかぼそい身を包み、愉しそうに「そうっすね」「ぶっちゃけ」を連発する。長髪には渋谷でツイストパーマをゆるくかけてもらっているという。「彼らはレス(反応)遅いっす」とか、「ゲスいもの(下品なネタ)はもういいかな」とか、菊地から若者言葉を投げ込まれるたびに、私は「えっ?」と聞き直した。

ところが、そのぶっちゃけ話に耳を傾けていると、ぐんぐん引き込まれる。

菊地は水戸の小さな不動産屋の二男である。慶応大学経済学部を卒業し、2014年に日経新聞に採用されて、大阪の社会部に配属された。

もともと社会部志望だったので、朝日や読売も受けたのだが、就活らしいことをしていなかったから、ことごとく筆記試験で落ちた。それを日経が拾い上げ、面接で彼の休学したエピソードをじっくりと聞いてくれた。

大学3年生のころの話だ。大学に休学届を出すと、彼はアルバイトで貯めた約100万円を手にフィリピンに渡った。まず語学学校で英語を半年間学び、次にバングラデシュのグラミン銀行本部のインターンに志願した。

グラミン銀行は、バングラデシュ人の経済学者・ムハマド・ユヌスが創設した貧者のための金融システムだ。貧しい人に無担保で少額の金を貸し、それを元手に経済的自立を促す試みである。「マイクロファイナンス」と呼ばれるこの手法は貧困撲滅に大きな貢献をしたと評価され、ユヌスは2006年にノーベル平和賞を受賞した。菊地は大学で社会保障を学ぶうちにその活動を知り、そろそろフィリピンの語学学校を出ようか、と思っているときにそれを思い出した。ネットなどで調べてみると、30ドルほど払えばバングラデシュのインターンに参加できるという。一種のスタディツアーだ。

ところが、インターンが始まるまでに3か月ほどの間がある。またネットで調べ、アフリカのケニアに、3、4人で運営しているマイクロファイナンスのNPO法人が沢山あるのを見つけた。さっそくその一つと話をつけ、首都ナイロビで牧師の家に寝泊りしながら無給で働いた。“取り立て”にも加わった。

スタッフとともに車でスラム街や近隣の村々に行き、借り主の家の出入り口を封鎖する。いくら貧者のためのファイナンスでも、借金は返すべきもの、ということを教えなければシステムは回らないのだ。

約3か月後に向かったダッカで約1か月間、スタッフと交流し、村で開かれた返済集会を見たりして、彼はこう考える。「マイクロファイナンスは村の人のつながりや相互監視の力を利用して、借金をバックレさせないようにすることが大事だ。世界には、本を読んだり話を聞いたりするだけでは見えてこない生々しい現実がある」

菊地にインタビューしたとき、たまたま私は『ムハマド・ユヌス自伝』(早川書房)を読み始めたところだったので、目の前の若者が、そのグラミン銀行の現場に飛び込んだことを知って、やるじゃないか、と思った。

3か国を歩いて得たものは、それまで本が大好きで引きこもりがちだった彼の性格に、外向きの一面を加えたことだという。

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それから1年、飛び込んだ日経大阪社会部は念願の部署だった。半年ほど遊軍勤務をすると、大阪府警の記者クラブに送り込まれる。当時の中央紙であれば、サツ回りで第一線の警察署を担当させてから府警に向かわせるのだが、経済紙の日経はぶっつけ本番である。

府警では、通称「一、三担当」と呼ばれる捜査一課と三課を受け持った。一課は殺人事件を始めとする強行犯を追い、三課は盗犯(トウハン)と呼ばれる空き巣、すり事件を扱う。派手で分かりやすく、職人気質の刑事たちを相手にする花形部署だが、東京の警視庁詰めと並んで、最も過酷な職場でもある。早いときは午前3時40分に起き、ハイヤーに飛び乗って刑事の家に朝駆けに出かける。

大阪府警記者には暗黙のルールがあった。その一つは、刑事宅でライバル社の記者とかち合った場合、先に着いていた方が優先されることだ。だから、片道1時間もかかる刑事の自宅の場合には何としても先に着かなければならなかった。それで、向こうが5時半ならこちらは5時15分に着く、お前がそう出るなら俺は5時に駆けつけるぞ、という具合に、ばかばかしくも先駆けを張り合うことになって、とうとう午前3時ごろまで飲んだ後、刑事の家を朝駆けするときもあった。

そこへ送り込まれた各社の記者は、多くが地方支局やサツ回りで修業を積み、勝ち抜いた30歳前後のツワモノたちで、彼らを手練れのキャップが仕切っていた。これに対し、経済紙の日経は知能犯や暴力団、生活安全部担当を含めて2人ほど少ない総勢5、6人で対抗していた。当時のキャップは優秀な記者だったが、警察隠語も知らないど素人に近い新人記者が混じっているのだから、当然のごとく紙面で競り負ける。

「真面目にやっていたけど弱かったですね。他社はエース記者が捜査一課の担当やっていて、たまに勝てば『すげえ』って言われる感じ。10回やって1回勝てばいいみたいな雰囲気があったんですよ」

彼の感覚では1勝9敗。これは先輩記者たちから引き継いだ府警の情報源が少ないためである。

この引継ぎがないと、刑事宅の「ヤサ(自宅)割り」から始めなければならず、見知らぬムラに迷い込んだような状態になる。菊地が朝駆けと夜回りを繰り返して、なお惨敗するのは当然のことで、しかも刑事たちになめられ、怒鳴られたりもした。

それでも現場取材は楽しかった。事件が起きるとアドレナリンが全身に満ちてくる。休日返上で自主的に地取り(聞き込み)取材をしたり、独自資料を入手して喜んだりしていた。1年目の終わりに初めて医療過誤事件で書類送検したことをつかんで他紙を出し抜く。大したものではなかったが、書けば書くほどモチベーションが上がっていった。夜回りが終わって、曾根崎界隈で同僚や先輩たちと朝まで飲むのが喜びだった。

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彼が蔵書3000冊の中から選んで、大阪に持って行った本がある。『新聞記者 疋田桂一郎とその仕事』(朝日新聞社)という。いまも「座右の書」に挙げる一冊だ。

これは、朝日の名物編集委員だった疋田(1924年-2002年)の仕事を後輩の柴田鉄治たちがまとめた本で、菊地はそれに収録された「ある事件記事の間違い」と題する疋田のレポートを繰り返し読んでいた。

レポートはもともと、朝日の調査研究室が社内の幹部に配布する「調研室報」に31ページにわたって報告されたものだった。それが記者のための研究資料として朝日の編集局報「えんぴつ」に転載され、さらにこれをもとにノンフィクション作家の上前淳一郎が文藝春秋の1977年1月号に『支店長はなぜ死んだか』という一文を書き上げたことで、大きな反響を集めた。それは記者が依拠する「客観報道」の弊害について一石を投じる内容であると同時に、優れた新聞論だったからである。

疋田は執筆の動機をこう書いている。現代の新聞離れと信頼失墜を半世紀前に予見した一節である。

〈新聞に対する読者の信頼が急速に崩れていく時代に生きている、という実感が私にはある。信頼が崩れていく速さは、とりわけ数年らい加速しているように私には見える。これは何に由来するものなのか、また、これに対してどのような対応策がありうるか、について私は幅の広い組織的な調査や研究を始めるべき時期にきていると思う。事件報道についてこのような調査を始めた理由のひとつはそこにあった〉

さて、そのレポートは〈一本の事件記事がおかした間違いについて私が調べたことを報告する〉という一文から始まっている。事件の端緒は、1975年5月8日夜、三井銀行本店企画室次長(42)が知的障害のある幼女を餓死させたとして、殺人容疑で逮捕されたことである。銀行員は東大法学部を卒業した出世頭で、府中支店長として栄転することが決まっていた。

朝日の警察記者は、警察署次長から3時間取材し、銀行員がベビーベッドに10日間も閉じ込めて水も食事も与えずにいた、と報じた。腹をすかせた幼女が「チューチュー」と音を立てて指をしゃぶっていたが、心をオニにしてほうっておいた、という記述もある。他紙もエリート銀行員の冷血な犯罪という趣旨の報道であった。

ところが、逮捕から9か月後、懲役3年、執行猶予5年の判決を受けた夜に、彼は電車に飛び込んで自殺を遂げる。それを報じた記事を読んで、疋田は「どこかおかしい」と感じ、調べ直す気持ちになったという。自殺の報道には、銀行員の妻の「わたしたち夫婦は事実がわかれば、必ず無罪になると固く信じていました。(中略)刑事さんにいじめられ、何をいってもだめだと思ったそうです。公判中、有罪なら生きている意味がないなあ、といっていましたが、本当になるなんて……」という談話が付けられており、そこに違和感を覚えたのである。

疋田は執筆した記者の協力を得、法廷などに提出された膨大な資料を読んで、銀行員の中に重度の知的障害児を抱えて苦悩する父親像を見出すとともに、公判記録などに現れた記事の誤りを次々に発見する。それは、

・銀行員は水も食事も与えずにいたのではなく、何回も娘を起こして食べ物や水を与えたが受けつけず、みるみる衰弱していった。
・娘には拒食症という状態が続いていた。
・指しゃぶりは赤ちゃんによくある癖の一つで、判決もそう認定した。「心をオニにして放置した」のではない。

主なものだけで以上の3点が挙げられ、根底から記事を覆す内容だった。

記事を執筆した記者が怠慢だったわけではないから事態はさらに深刻だ。疋田は、事件記者に限らず、報道に携わる記者が寄りかかろうとする「客観報道」に大きな陥穽が待ち構えていることを指摘し、「警察発表は疑いながら聞くもので、疑わない方が記者の怠慢と言える」と訴える。そして、若い記者たちにこんな提言をした。

(1) 現場に行くか、関係者に当たるかして、裏付け取材をすることを原則としたい。
(2) 記事のなかで、ここからここまでは警察情報であるということを明示したらどうか。
(3) 足りない材料で話の筋を通そうとしないこと。わからないところは「わからない」とはっきりと書こう。
(4) もっと続報を書こう。
(5) 面白く話をつくるな。

疋田桂一郎書籍 写真

事件記者たちの座右の書

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菊地はこの疋田レポートを読んで、警察取材の落とし穴を承知していたはずだった。その彼が日経入社から7か月後、前述の「幼女死亡事件」に酷似した「3歳児衰弱死事件」に遭遇する。

その日、菊地は、大阪府警の「衰弱死事件で両親逮捕」という発表を受けて現場に走った。そして、近所の住民に取材したうえで、2014年11月21日付の朝刊に、〈食事与えず3歳児死亡 殺人容疑、養父と母親逮捕 大阪〉という見出しの記事を書いた。そのとき、彼のなかに「あっ、75年の事件にちょっと似てるかもしれない」という意識がよぎる。

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