西寺郷太著『90’s ナインティーズ』刊行のお知らせ
夢を叶えるために生きてきたんだ。
2019年11月から2022年2月にかけて文藝春秋digitalに好評連載された西寺郷太さんの自伝的小説が2023年1月25日、『90’s ナインティーズ』というタイトルにて単行本として刊行されます。
著者からひとこと
携帯もメールアドレスもほとんどの仲間が持っていなかった90年代半ばの下北沢。そこからスタートする「バンドを組みたくてしょうがなかった若者」の想い出を「小説」という形で書き残してみようと思ったのは随分前のこと。2019年秋に「文藝春秋digital」で始まった連載は一度大きな休みを挟みつつ2022年初頭に完結。今年一年の間、何度も推敲を繰り返し、取材をし直し、ようやく「書籍」、つまり手にとれる作品として完成します。
読んでもらうとその当時を彩った音楽が聴こえてくるような物語を目指しました。僕と同世代の90年代を生きた方々も、若い世代も、ストリーミングサービスなどを通じて音楽と出会い、再会し、それぞれの想像や回想に包まれながら読んでもらえたら本当に嬉しいです。
西寺 郷太
本書の第一章「Once Upon A Time In SHIMOKITAZAWA 九四年・冬 ― 九五年・春」の冒頭部分を特別に無料公開します。
(一)聖地
下北沢ビッグベンビルの地下階段を一歩ずつ降りてゆくごとに、ビールやドリンクを手に持ち仲間同士で談笑する場慣れた男女の姿が増えてゆく。辿りついた受付の向こう側には色とりどりの告知用ポスターと重厚な防音扉。入口で予約リストを手にしたスタッフにゆっくりと名前を告げた瞬間、自分の未来に対するほのかな予感が全身を包みこんだ。
九五年四月二十二日土曜日夕刻。
この二日後にはオアシスのニュー・シングル〈サム・マイト・セイ〉がリリースされている。夏には彼らの人気を不動のものとした〈ロール・ウィズ・イット〉と、ブラーの〈カントリー・ハウス〉が同日発売。「ブリット・ポップ戦争」などとも言われた若きギターバンド達の狂騒の余波が、東京で最も鮮烈に届きスパークしていた場所。それこそが、前年に開店したばかりでまだどこか真新しいライヴハウス CLUB Que だった 。僕は、今まさに、初めて訪れる噂の「聖地」に足を踏み入れようとしている。十代から二十代の音楽ファンでぎっしりと会場が埋まった、この夜のイベントには四つのバンドが登場。僕の目当ては、秋葉原の凸版印刷で出会ったバイトの先輩、ワクイさんがヴォーカル、ギターを務めるSTARWAGON(スターワゴン)だった。
遡ること四ヶ月前、つまり九四年十二月末のこと。二十代後半の派遣社員・ワクイさんは、一メートル八五センチほどの長身細身で眼鏡をかけ、ネルシャツに色落ちしたブルーのジーンズというスタイルで、僕がバイトを始めたばかりの凸版印刷内「電子メディアサービス」にやってきた。大学三年生だった僕は、ほんの少しだけ先にいた都合上「先輩」ということに。ワクイさんも気を遣ってか初日は明らかに年下の僕に対して名字に「さん付け」で呼んでくれていた。しかし、休憩時間に音楽の話をし始めると、立場が急速に逆転してゆく。
ワクイさんは、バンドマンだった。グループの名はスターワゴン。メンバーは、ドラムとギターが双子の上条兄弟。そしてベーシストは僕よりたったひとつ年上なだけ、二十二歳の林ムネマサ。上条兄弟は、数年前すでに女性ヴォーカルを擁したロコ・ホリデイズというバンドで一度デビューしており、解散後に再出発して組んだのがスターワゴンだという。ワクイさんはスターワゴン結成当初、ベースとヴォーカルを担当していたが、演奏のバリエーションを増やすため、若い林をベーシストに誘い、自分はギタリストにスイッチしたばかりだと教えてくれた。僕はベースもろくすっぽ弾けないのに、最近加入したという会ったこともない若い林に嫉妬するほど、音楽知識が異常に豊富で人心掌握術にも長けたワクイさんに出会ってすぐに心酔していた。
プロ・ミュージシャンになる、という小学生の頃からの夢を抱いて、故郷の京都から上京してから約三年。僕は、絶望の淵にいた。入学した早稲田大学で「トラベリング・ライト」なる音楽サークルに入り、幹事長と呼ばれる代表者の役割にもついたが、結局サークル活動を終えるまで理想のバンドは組めずじまい。大学生のミュージシャンが行うライヴは、ほとんどの場合内輪の仲間が客、オーディエンスとなる。ライヴハウスを貸し切り、四十人くらいがその場にはいるが、その基本はあくまでも出演者でありサークル内で順番に見せ合っているだけ。クラスの友達などに頭を下げて、観にきてもらうことも多かったが、一度目は非日常の雰囲気を楽しんでくれていても何度もは来ない。皆、それぞれの日々の暮らしに忙しいのだ。
作詞作曲と歌が担当だった僕が仕切っていたバンド「スリップ・スライド」は、各楽器のメンバーにイベントやライヴの予定が決まるたび頼みこんで活動する状態のまま、学生生活の最後を迎えていた。大学三年生の秋には意を決して、ミスター・チルドレン、スピッツ、ザ・イエロー・モンキーなどの人気バンドを輩出した老舗、渋谷La.mamaが昼間に行っているオーディションも受けたが、店長から厳しい助言をされ夜の部に昇格出演することは出来ず空中分解。結局、思い返せば僕ひとりが頑張って「バンドのような形」を守っていただけでしかなかった。ライヴの日程が決まるとまずは欠けたパートのメンバーを埋めるため頭を下げることの繰り返し。高校生の頃に思い描いていた理想とは程遠い負のサイクルからどうしても抜け出せなかった。
こんなはずじゃないのに……。辞めたくなる彼らメンバーの気持ちもわかる。プロのミュージシャンと違って、学生時代のバンドは組めば組むほど、活動すればするほどお金と時間を失うものだ。もちろん仲間と同じ目標を持ってバンド活動を楽しめている状況であればそれでも良いのだが、練習スタジオ代は基本折半、ライヴハウスを借りてもチケット代が支出を上回ることはほぼないので大抵は赤字となってしまう。バンドにおいて比率的に人数の少ないのはベースやドラム。中でも優秀なプレイヤーは方々から引っ張りだこ。だからこそ、優れたリズム・セクションこそ気が乗らない相手に対して安請け合いはしてくれない。音楽的バックボーンを持ち夢を抱いた若者たちが全国から集結する東京で暮らし、大学のサークルに所属さえすれば、絶対的な信頼関係で繋がるパートナーたちに会えるはずだと信じていた僕だったが、状況は歳を重ねるごとに厳しくなっていった。
大学三年、九四年の師走。サークル活動を代表としての役割である「幹事長」任期満了で終えた僕は秋葉原でバイトを始める。職場に颯爽と現れたインディー・ギターバンドのリーダーが、ワクイさんだった。ワクイさんの語る言葉、特に七〇年代や九〇年代の僕が知らなかった宝石のような音楽達、そして様々なバンドやアーティストの四方山話、文学と映画。その教養と暮らし方すべてに僕は魅了されてゆく。
派遣社員のワクイさんと、まだ学生で授業のある僕は常にバイトで一緒になれるわけではなかった。元来、人に対して蓄積してきた蘊蓄を語り、教えることが好きな「先生タイプ」のワクイさんにとって、自分が勧めた音楽だけでなく本、映画に関してもフレッシュなリアクションを返す六歳下の僕の登場は仕事場でのいい暇潰しになったのではないだろうか。ウディ・アレンの映画はレンタル・ビデオですべて観るように、ピーター・キャメロンの翻訳された小説は読むようになどという彼の助言を僕は完全に短期間で遂行した。何より楽しかったのが宿題として出された音楽、映画や本の感想を彼に伝える「答え合わせ」の瞬間。タイミングが合った日は、ワクイさんと一緒に帰れる。約一五センチ背の高い彼と古今東西の様々な作品について語り合いながら、下品なほど鮮やかな電飾がきらめき始める夕暮れの秋葉原の街を並んで歩く。赤、青、ゴールド、エメラルド・グリーン。駅までもっと遠ければいいのに、そうすればもっと色んな話が出来るのにと心から思う。二十一歳の僕にとって東京に生きている意味を感じられる誇らしく芳醇な景色が、そこにあった。
決定打は出会ってから数週間経った後、訪れた。彼が、ふとした会話の流れで「俺らのバンドのCDは……」と言ったことだ。ワクイさんには意地悪で悪戯好きなところがあった。敢えて僕が衝撃を受けるベストな瞬間を見計らっていたのだと、今になれば思う。もしも僕が逆の立場ならば、出会った若者がミュージシャン志望だとわかれば即座に「俺、CDも出してるよ、聴いてみてよ」と言うだろう。しかし、ワクイさんは熱く自分の夢を語る僕に対して、溜めに溜めてから弾丸のようなその一言をトークに織り交ぜたのだ。
「え? 今、なんて言いました?」。僕は聞き返した。
「いや、俺らのバンドのCD?」
「CD出してるんですか!?」
「そうだよ」
「なんなんですか! どこに売ってるんですか! 早く教えてくださいよ! 帰りに買いに行きます! なんなんですか!」
僕は、発狂寸前。声のトーンは甲高く上がっていたことだろう。正直、その時の感情は怒りにも似ていた。この人は僕の心を完全に弄(もてあそ)んでいる、と。自分の直接話している人が、CDをリリースしているなどという経験はそれまで僕にはなかったのだから。
「で、ワクイさん! スターワゴンのCDは、どこに売ってるんですか?」
「まぁ、落ち着けよ、ゴータ」
ワクイさんは、僕の反応が予想通りだったことに満足したのか笑っている。そして、一呼吸置いてからこう告げたのだ。
「池袋のタワーレコードなら、売ってるんじゃないかなぁ?」
■西寺郷太(にしでら・ごうた)
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