SMAP解散から4年。嵐の活動休止、止まらぬタレント流出……ジャニーズ帝国の「緊急事態宣言」
スクープ記者が明かす、ジャニーズ帝国「落日」の真相。/文・鈴木竜太(「週刊文春」記者)
<この記事のポイント>
▶︎ジャニーズに忖度するメディアには事務所が見解を出すまで問題に触れてはならないという暗黙のルールがある
▶︎異変が生じはじめたのは90年代後半のこと。SMAPの元マネジャーの飯島氏と藤島ジュリー氏が対立していく
▶︎いまのジャニーズに欠けているのはタレントとの円滑なコミュニケーション
歯車が狂い出した「アイドル帝国」
「来る者は選ぶ、去る者は追わず」
ジャニー喜多川前社長は、生前、手塩にかけたタレントが事務所を去るたび、まるで自分に言い聞かせるようにそう嘯いた。
1962年の創業以来、フォーリーブスや郷ひろみ、光GENJIにSMAP、そして嵐と綺羅星のごとく数多くのスターを世に送り出したジャニーズ事務所。芸能界の頂点をきわめた同社の売り上げは一時、グループ全体で1000億円を超え、都内の一等地に多数のビルや広大な土地を所有するオーナー一族の総資産は数百億円をくだらない。
だが、稀代の天才プロデューサーと謳われたジャニー氏が昨年7月に87歳で鬼籍に入り、姉のメリー喜多川名誉会長も経営の一線から身を引くと事務所を取り巻く環境は一変。メリー氏の娘でジャニー氏の姪に当たる藤島ジュリー景子社長が経営を引き継いだ直後からタレントの不祥事が相次ぎ、磐石を誇った「アイドル帝国」の歯車が大きく狂い出したのだ。
トップに就任したジュリー氏は100億円近くをかけて港区乃木坂に本社ビルを購入し、10社以上ある関連会社を集約させた。ロゴも一新し「オールジャニーズ」をうたう同社だが、皮肉にもいま主力タレントの大量離脱という非常事態に直面している。
「ジャニーズ事務所は僕、山下智久を生み育ててくれた生家です。その事務所を出て、子供の頃からの夢に向かい新たな一歩を踏み出していきたいと思います」
山下智久の退所が明らかになったのは11月10日。「文春オンライン」の速報記事を追認する形でジャニーズは山下の声明を発表した。
山下は、アイドルグループNEWSの元メンバー。2011年にソロに転向してからは主に俳優として活躍し、18年に公開された主演映画「劇場版コード・ブルー」は約92億円の興収を叩き出した。
問題は、不祥事による謹慎中に事務所を飛び出してしまったことだ。20年8月、「文春オンライン」に未成年の女性との飲酒を報じられた山下は事務所から「一定期間の活動自粛」を命じられ、退所時もその禁は解けていなかった。
「7月下旬、山下はKAT-TUNの亀梨和也と共に知人が開いた飲み会に参加し、途中から店の紹介で3人の女性が合流した。後にそのうち2人が未成年だったことが発覚。女性が年齢を偽っていたため、山下に未成年という認識はなく、当初は、事務所の判断は『静観』だったが、世間の批判が集まると、一転して厳罰を科したのです」(取材した記者)
事件直後、ジャニーズ事務所の顔色をうかがうスポーツ紙やテレビのワイドショーがこの問題を取り上げることはなかった。
故ジャニー氏
暗黙のルールが元凶
ジャニーズに忖度するメディアには事務所が見解を出すまで問題に触れてはならないという暗黙のルールがある。それこそが、様々な不祥事が揉み消されてきた元凶であり、所属タレントが慢心する要因でもあった。だが、ネットやスマホが普及する時代に、こうしたメディアコントロールが通用するはずもない。
さらに言えば、「自粛」は自らの意思で慎むことであり、本来、事務所から命じられることではない。女性に非があると考えた山下に処分は受け入れがたく、映画の公開を控えていた亀梨が「厳重注意」にとどまったことも事務所に不信感を抱く一因となった。山下の知人が言う。
「実は彼は20年6月に事務所に辞意を伝え、21年3月に契約を満了するという結論で一旦合意しています。自粛期間が長期に渡れば独立後の活動に支障が出る。前倒しの退所は苦渋の決断だったのです」
11歳から身を置く事務所に恩を感じていた山下はジャニーズと縁を切るつもりはなかった。業務提携やエージェント契約などの形で連携を取る道も模索したが、それらの提案は事務所に却下されたという。
「事務所が考える1年と、タレントの感じる時間には大きな隔たりがあった」
謹慎が明けるのを待てなかった理由を山下はそう語っていたという。
「メリーさんは愛情深い」
ジャニーズでは19年1月に国民的アイドルグループ・嵐が20年末での活動休止を発表し、20年に入ってからも元SMAPの中居正広、元NEWSの手越祐也が立て続けに退所した。さらに12月末には少年隊の錦織一清と植草克秀、21年3月にはTOKIOの長瀬智也も事務所を離れる。他にも複数のタレントが退所を検討しているという。
嵐は2020年末で活動休止
過去のケースと違うのはいずれも20~40年、在籍したトップクラスのタレントであることだ。
たしかにジャニー氏の存命中もタレントの移籍や独立は避けられない問題だった。特にジャニー氏を苦しめたのが75年に大手・バーニングプロダクションに移籍した郷ひろみだった。72年に大河ドラマ「新・平家物語」(NHK)で注目を浴びた郷は同年「男の子女の子」で歌手デビュー。翌73年には紅白歌合戦に初出場したが、ジャニー氏の最高傑作と謳われた郷は、デビューからわずか3年で事務所と袂を分かった。その時の悔しさを後にジャニー氏はこう振り返っている。
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