
小説「観月 KANGETSU」#63 麻生幾
第63話
逃走者(5)
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涼がさらに何かを言いかけた時だった。
パトカーのサイレン音が近づいてくるのがわかった。
真っ先に駆けだしたのは涼だった。
速度を上げて駅舎に向かって接近してきた1台のパトカーがそのままの勢いで滑り込んできて、涼の前で急停車した。
ドアを開けたパトカー乗務員に涼が駆け寄った。
「手配の車が、こん近くの民家に乗り捨てられちょんとん通報がありました!」
制服警察官は滑舌も良く涼に報告した。
「こん近く? どこや?」
涼が忙しく顔を振った。
「それが、通報者は、駅のすぐ近くに住む者としか……」
もう一人の制服警察官が地図を広げながら姿を現した。
「こっちだ!」
咄嗟に振り返った涼の目に、白髪の男が大きな身振りで手招きしている姿が入った。
涼と制服警察官がすぐに走り出し、正木も遅ればせながら続いた。
白髪の男が案内したのは、駅舎に背を向けて右側に連なる住宅街の一角だった。
「勝手にウチの駐車場に駐めやがっち!」
「あなたが警察に通報を?」
涼が急いで訊いた。
白髪の男は大きく頷いた。
2階建て住宅に附属する、屋根付きの駐車場に1台のミニバンが停まっていた。
「手配対象車です!」
息を切らしてやってきた正木に、涼がナンバープレートを指さしながら厳しい表情で告げた。
「ここん現場保存をお願いします」
涼は制服警察官たちにそう言って、正木を振り返った。
「自分、この周辺で他の目撃者を探します。田辺智之の人着やらん情報がとるるかんしれません」
「よし、オレもやる」
正木が応じた。
涼が走り出そうとした時だった。
「これ、なんかね……」
白髪の男の駐車場にあるミニバンのマフラーの前でしゃがみ込んだ涼が土の地面を見つめた。
ドス黒い液体が溜まっている。
涼はゆっくりと顔を上げた。
そこには後部ドアがあった。
そのすぐ下にあるリアバンパーから、赤褐色の滴がポタポタと地面に滴り落ちていることに涼は気づいた。
涼はそっと人差し指をリアバンパーへ伸ばした。
リアバンパーの“滴”に指が触れた。
指に付いたものを、陽の光に掲げて見た。
指の腹に付着したのは真っ赤な液体だった。
目を見開いた涼は、急いで立ち上がるとバックドアガラスから車内を覗き込んだ。
だがバックドアガラスはUV(紫外線)カットガラスとなっており薄暗くて中の様子は分からない。
「これは……」
正木を振り返った涼が瞬きを止めて掠れた声で言った。
同じ行為を繰り返した正木は、すぐに車を回ってすべてのドアを開けようと試みた。
だがどのドアにも鍵がかかっている。
正木は、涼と意味深な表情で頷き合った。
「金槌を持っちょったら貸しちくりい」
涼は勢い込んで白髪の男に頼んだ。
「ほいだらこき(それならここに)──」
駐車場の隅に置いてあった工具箱から金槌を取り出した白髪の男は涼に手渡した。
「まさか、それで窓を……」
後ろに立つ制服警察官が驚愕の表情で涼を見つめた。
「こりゃ、人命救助んため、やむを得らん(得ない)」
そう言い放った涼は金槌を握った手を振りかぶって、右手後部座席のリアドアガラスに思いっきり叩きつけた。
クラッシュ音がしてガラスの一部が割れると、涼はさらに金槌を使った。
最後のガラス片を金槌で蹴散らした涼は、慎重に手を車内に伸ばしてドアロックを解除した。
後部座席に入った涼は、ガラス片に気をつけながら一番後ろの荷物を載せるラゲージスペースを覗き込んだ。
目の前の光景を見つめる涼は、仰向けとなってカッと目を見開いて虚空を見つめて身動きしない男が田辺智之であることがすぐに分かった。
「逃げ切れんち思うたんやろ……」
正木がそう言って、溜息をついた。
涼は、腹部に突き刺さっている真っ赤な血にまみれた包丁ようのものを握っている、田辺智之のその両手から目が離せなかった。
(続く)
★第64話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生まれ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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