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「頭部には、異常は見られません。ただ…」ツアーは不参加、Mステも出演できず…EXILE・小林直己が手術を決めた日
文・小林直己(EXILE/三代目 J SOUL BROTHERS)
「兄に言われた『渋谷に行け』という言葉から全てが始まったかもしれません」。そう語るのは、国民的人気のダンス&ボーカルグループEXILEのパフォーマーであり、三代目 J SOUL BROTHERSのリーダー兼パフォーマーとして活躍する小林直己さんだ。
小林さんは、EXILEが20周年を迎えた2021年、初の半自伝的エッセイ『選択と奇跡 あの日、僕の名字はEXILEになった』(文藝春秋)を上梓。生きることへの情熱とこれまで語られなかった心の裡(うち)を綴った。ここでは同書から一部抜粋する。「EXILEの秘密と僕の体」という章にて、先輩である松本利夫との、2011年のツアーでの出来事を紹介する。
◆◆◆
2011年冬。
甚大な被害をもたらした大災害を経て、日本に元気を届けたいと、「願いの塔」という言葉からインスパイアされ、そこに人々の願いが集まっていく、というストーリーを描いた。
「TOWER OF WISH」と題されたツアーでは、久しぶりになるセンターステージを採用し、中心に、高さ40mを超える塔のセットを組み上げた。3月11日に発生した東日本大震災からの復興を願い、行われたこのツアーは、EXILEとしても格別の思いがあったことから、翌年にも、このツアーの続きとなる、EXILE TRIBEが一堂に介しスケールアップした「TOWER OF WISH」ツアーも準備していた。
いくつかの公演を経て、ようやくライブのペースに慣れてきた2011年の年末、1つの出来事が起きた。
「早替え」と呼ばれる、短時間での衣装チェンジのために、ある曲のパフォーマンスの終わりでステージ上からはけた後でのことだった。
着替え場に走って向かっていると、急に目の前が真っ暗になった。しかも目がチカチカして、焦点が定まらない。何が起きたかわからず、手探りでゆっくり体を確認すると、どうやら、床に仰向けで倒れていることがわかった。ようやく視界がひらけてくると、ステージを組み上げている鉄骨が見えてくる。
「大丈夫ですか!?」
とスタッフが声をかけてきた。
ステージ下は、天井が低く、僕はいつも屈みながら通行するのだが、今日はあまりに急いでいたせいか、頭を鉄骨にぶつけ、体ごとひっくり返ってしまったのだった。
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意識がはっきりしてきたので、頭を触ると、裂傷はどこにもなかった。
「大丈夫です。急ぎましょう」
と返事をし、着替え場に急ぐ。
幸いにも大きな問題はなく、その日は滞りなくステージを終了することができた。
無事に連続公演を終え、家に戻ると、頭部に大きなコブができていることに気づいた。
公演中はアドレナリンが分泌されており、痛みや異変に気づきにくい。少し心配になった僕は、 かかりつけの病院で、頭部の検査を行った。
診察室に案内されると、医師は真剣にMRI画像を見ていた。
「頭部には、これといった 異常は見られません。ただ……」
そう医師は口を開くと、もう一度MRI画像に目をこらす。
「ただ……何でしょう?」
と僕が促すと医師は、
「頸椎(けいつい)部に異常が見られる。神経を圧迫している可能性があります。これは、脊椎脊髄外科の専門の医師に診てもらう方が良いでしょう」
と言った。
首の神経に異常がある? 確かに、これまでのダンサーとしての活動の中で、首は何度も痛めたことはあるが……。
どういうことなのだろう。
僕は知り合いのつてを頼り、脊椎脊髄外科のスペシャリストを紹介してもらった。
「脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)による、神経の圧迫が見られます。手先や指に痺しびれはありませんか?」
大学病院で検査し直した僕に、MRIの結果を見ながら医師はそう言った。
「手や指に痺れ……」
実は、その頃、左手の人差し指と中指の感覚が、少し鈍くなっていた。また、左腿の表面の感覚も、薄いゴムを一枚嚙ませたかのような鈍さがあった。
「……はい、少し感じています」
誰にも言えなかったことを、初めて口に出した。
「そうでしょう。頸椎部にスネーク・アイと呼ばれる神経の損傷が見られます。小林さんのこの脊柱管の細さですと、何度も首を回したり後ろに倒すことによって損傷したものと思われます」
心当たりがあった。
「この部分の細さは、おそらく先天的なものです。現在はあまり支障は感じないかもしれませんが、小林さんの職業のことを考えると、このまま放置しておいたら損傷は悪化していく可能性があります。この先を考えると、手術をし、狭くなった脊柱管を開放することで、これ以上の損傷を防ぐことが見込めます」
「首の手術ですか?」
「そうです」
医師の突然の提案に、すぐに返答が出せずに言葉を飲み込んだ。
「一度、ゆっくり考えさせてください」
首を手術することになるかもしれない。
この年のツアーはあと数公演で終了するが、来年にもツアーは控えている。また、首の神経の管を手術で広げれば、最悪の場合、神経自体を傷つけることもある。全ての神経が集中している首の神経を傷つけたら、半身不随になる可能性だってある。
もしかしたら、踊れなくなるかもしれない。いや、歩けなくなるのかも。
怖い。
これまで当たり前だったことが、当たり前じゃなくなることが、こんなにも怖いことだなんて……。
しかし同時に、この先の10年も踊り続けるために、不安を解消しておきたい気持ちもあった。
悩みに悩んだが、答えは出ない。それでも、せっかくEXILEになれたこの人生を悔いなく生きたかった。
「直己がそうしたいのなら、全力で応援する。困ったことがあったら、なんでも言ってほしい」
とHIRO。
そして、メンバーに首の手術について相談すると、全員が温かい言葉をくれた。
印象に残ったのはMATSUの言葉だ。
「直己、怖いよな。わかるよ」
“怖さ”にまず共感してくれたのだ。
僕は自分と向き合い、選択した。
手術をする――そうと決めてからは、もう迷いはなかった。
古くから面倒を見てくれているスタッフに紹介してもらった、信頼できる医師と治療プランを練り上げ、手術日を設定する。両親にも足を運んでもらい、改めて想いを伝え同意書に署名してもらった。僕のことを理解し、応援を続けてくれる2人には感謝しかない。
そして――無事に手術は終了した。
手術の数日後、三代目 J SOUL BROTHERSのメンバーが見舞いに来てくれた。
実はその日、メンバーはミュージックステーションへの出演を控えていた。生放送で繰り広げられるパフォーマンスに、僕自身も昔から食い入るように観ていた番組だ。その前に皆で顔を見せに来てくれたのだった。
「直己さんの分まで、パフォーマンスしてきますよ!」
「うん、病室のテレビで絶対に観るから」
そんなやりとりをして別れた。
夜8時、テレビの前にスタンバイし、今か今かと三代目 J SOUL BROTHERSの登場を待つ。すでに消灯時間は過ぎており、テレビを観てはいけないのだが、今夜だけは特別に許可をもらった。部屋の明かりはつけず、イヤホンをつけて待機する。
ついに順番が来た。
新曲で新しい衣装。
この衣装に、僕はまだ、袖を通したことはない。今回のプロモーションに僕が参加することもない。治療のため、6人に任せることになっている。
「それではお聞きください。三代目 J SOUL BROTHERSの新曲『Go my way』です」
アナウンサーの声が始まりを告げる。
自分のグループをこうしてテレビで観ることは初めてだった。
「Ready! Go my way!」
「あわてないで いつでも君らしく 心ひとつ Always with you」
そんな風に、歌う声が耳に届いた。
ひたむきに歌い、踊るメンバーの姿を見ていると、こみ上げるものを抑えきれなくなった。この手術が失敗していたら、この術後の体が元に戻らなかったら、いつまでも病室から抜け出せなかったら――。
心の奥底に隠していた不安が、一気に噴出してきた。
でも、テレビに映るメンバーの姿が、その不安を少しずつ、和らげてくれる。
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汗を流し、一生懸命画面の向こうでパフォーマンスする姿に、こんなにも勇気づけられるなんて――。
楽しそうに、時に真剣に、楽曲に込められたメッセージを届ける。
それだけで心が救われる。
エンタテインメントや、アーティストが存在する意味がわかったような気がした。
僕は、三代目 J SOUL BROTHERSに元気をもらった。
リハビリを耐え抜く勇気をもらった。
だからこそ、絶対にグループに戻り、パフォーマンスを続けなければならない。
あの日、真っ暗な病室で一人テレビを観ていた自分に届くように。
あのパフォーマンスをテレビで観た後、改めて治療に専念した。治療を終え、リハビリを続け、ツアーのリハーサルにも徐々に参加できるようになっていった。
「直己、焦らない、焦らない。完走することが大事。」
序盤は、椅子に座って見るだけ。「目」でリハーサルに参加した。目だけで振り付けを覚え、立ち位置を覚え、体が回復したらすぐに参加できる態勢を整えていたのだ。
そんな時にも常にMATSUは、笑いながら、
「焦らない、焦らない。大丈夫だから」
と繰り返した。
その一言にどれだけ励まされたか。
3ヶ月後、僕は、衣装を着て、ドームツアーのステージの上にいた。
久しぶりに立つステージは、これまでのどのライブとも違っていた。
目に見える形で、多くの人に直接支えられ、僕はこのステージに立っている。あの病室でひたすら願った、パフォーマンスだ。
この3ヶ月、1つのことに、これほど集中したことはこれまでなかった。医者が保証する、最短の治療プランでたどり着けるように取り組んできた。医者からの許可も下り、万全に準備はしてきたつもりだ。
ついに、本番が始まる。
メンバーが巨大なLEDパネルの内側で立ち位置に就くと、会場が暗転し、オープニング映像が流れ出す。会場は大歓声に包まれ、1分も経たないうちにメンバーがステージに揃う。興奮に包まれた会場は、熱気でどんどん湿度を増していき、まだ開演していないにもかかわらず、汗が噴き出してくる。
十分に準備したはずだ。
傷も完治している。
リハビリだって欠かさずに行ってきた。
それでも、不安が拭い切れない僕は、左手で首の傷跡を触っていた。
すると、右隣に立っていたMATSUが近づいてきた。
何かトラブルが起きたのだろうか? 他のメンバーは、すでに臨戦態勢に入っている。自然とその張り詰めた雰囲気に引っ張られていた。しかし、MATSUは、笑ってこう言った。
「直己、焦らない、焦らない。完走することが大事。力む気持ちもわかるけど、体は正直だから。俺もそうだった。直己がここにいるだけで伝わるから。いいね。わかった?」
そして、優しく、ポンと肩に触れ、自分の立ち位置に戻っていった。
歌や踊りで何かを伝えること。
それには、並大抵ではない努力と、気の遠くなるような鍛錬の時間が必要である。その過程を経て初めて、生み出せる芸術であると思う。同時に、歌や踊りが、何かを伝えるためのツールだと考えるならば、大切なのはそれを動かす人間力なのではないだろうか。
これは歌や踊りだけでなく、もしかしたら、全ての物事に共通する話なのかもしれない。
MATSUは、その大切さを教えてくれた。
MATSUの言葉に説得力があるのは、何よりも彼自身が経験し、感じたからなのだろう。
MATSUはいつも笑っている。
彼の大切にしている言葉「一日一笑」のとおり、その姿勢は日々伝わってくる。それを絶え間無く実行するMATSUは、優しく、そして、強い。
人柄と生き方。これが、EXILEの秘密なんだな、と肌で感じた瞬間だった。僕もそうなりたい、と新たな夢を得たきっかけにもなった。
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高校2年のある朝から学校へ行けなくなった。
どんな朝だったのか、詳しくは覚えていない。しかし、
「今日は行かなくていいかな」
と何の気なしに思ったことが始まりだった。
少し前から振り返っていくことにしよう。
僕はアコースティックギターの音色が好きだった。
姉がどこからかアコースティックギターを手に入れ、家でエリック・クラプトンの「Tears In Heaven」を弾き始めた。それを聴いているうち、自分も弾きたくなって、姉の目を盗んで触っていると、姉が手ほどきをしてくれるようになった。
小6から始めたアコースティックギターに、いつしかのめり込んでいった。
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中学に入る頃、路上アーティスト、つまり、ストリートで弾き語りをするアーティストがブームとなっていた。そんな流れもあってか、僕はアコギで曲をカバーしては、一人部屋で歌っていた。壁の薄い家だったから、階下のリビングにも、隣の家にも聞こえていたのではないだろうか。
恥ずかしい。
しかし、恥ずかしさより楽しさが勝った。
楽譜を探し、無いものは耳コピをし、何曲も何曲も弾き、歌った。
次第に友達を誘って外で歌うようにもなった。
地元の駅では、ネギが入った買物袋を手に提げた知り合いのおばさんが立ち止まり、
「あら、直己くんじゃない」
と声を掛けてくれた。
中3になり、部活の顧問と折り合いが悪くなり、1週間ほど学校をサボった。
初めての経験だった。悪いことをしているという罪の意識に苛まれ、押入れにこもって、布団を頭からかぶっていた。 それでも、なんとか学校に戻り、無事に中学を卒業した。
高校は普通科に入学したが、音楽への興味は膨らむ一方だった。
バンドを組み、ギターを弾きながら歌った。決して、巧いとは言えない4人組だったが、音楽を誰かと追求していくということは、喜びでしかなかった。
部屋には機材が増え、お金を貯めて4トラックのMTR(マルチトラックレコーダー)を買い、何度もダビングしては、山下達郎さんのア・カペラアルバムをカバーした。
今思うと、なんと無謀な挑戦だっただろう。
でも、憧れのアーティストの作品を、自分なりに分析し、それを自らの手で再現するという喜びは、何ものにも代えがたい経験として今でも胸に残っている。
高校2年になると、音楽をもっと学びたい気持ちが高まり、音楽系の専門学校で勉強がしたいと思うようになった。いくつか学校を調べては、自分に合うところを探す毎日だった。通っていた高校では、学年が上がり、友人ともクラスが分かれた。
そして、ある春の日に、ふと思った。
「今日は行かなくていいかな」
その日から、高校へはパタリと行かなくなった。
そこから音楽の道へ……と言いたいところだが、そう簡単ではない。
何をするわけでもなく、早朝の新聞配達以外は自分の部屋で、ただ好きな音楽のCDを聴き続けた。
ある日、兄から突然こんなことを言われた。
「渋谷に行け」
なんと唐突で、理不尽な言葉だろうか。
しかし、年上の兄姉がいる人ならわかると思うが、年長者の言うことは絶対なのである。
兄の意図もわからず、次の日から渋谷へ通うことにした。
兄の言うことには必ず何か意味があると信じていたから。
のちに兄は、
「家にいたって、夢に近づくわけでもない。新たな発見があるわけでもない。元気が有り余っている若い世代なのだから、一番刺激があるところで揉まれてこい。一番刺激があるのは……そう、渋谷だ。だから、渋谷に行け」
ということだった。
兄の思考の中でこれだけの長い前置きが端折はしよられていたことは置いておいて、今では兄に感謝している。確かに、あのまま家にいたって何も起こらなかっただろう。
それからは渋谷をあてもなく歩きまわり、目に入るもの、耳に聞こえるもの全てをながめていた。
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しかし、数度しか訪れたことのない渋谷で、僕は人酔いを起こした。
人込みが怖かった。
なけなしのバイト代で渋谷まで通っていたので、当然お金はなくなり、昼はおにぎり1個を、デパートのトイレの個室に入って食べた。
人であふれた都会の、唯一のプライベートスペースだった。
そんな渋谷通いの日々にもようやく慣れ、次第にさまざまな専門学校を見学するようになる。いくつか体験入学でレッスンも受けた後、目星をつけてから、親に相談した。
「高校をやめて音楽の専門学校に行きたいと思っているから、援助をしてほしい」
「高校をやめて、何になるの?」
母が率直な質問をしてくる。
「音楽を勉強して、自分の言葉で曲を作って歌うアーティストになりたい」
「その夢は良いと思う。でも、多くの人に支持される曲を作りたいんでしょ?」
「そうだね」
「だとしたら、多くの人が体験する高校生活を送っておいた方が、良いんじゃないかな?」
衝撃だった。
母の言ったことは全て的を射ていた。
その瞬間まで、現在通っている高校を中退し、専門学校に編入しようと、自分の中で99パーセントまで固まっていた気持ちが、母の言葉で全てひっくり返った。
「確かに……そうだと思うよ」
続けざまに父が言う。
「自分のやりたいことをやるのは良い。それを止めたりしない。でも、親は先に死ぬんだ。自分で食っていかなきゃいけない。お前は何で食っていくんだ」
至極真っ当な、当たり前の意見をつきつけられた僕は、決断した。
「高校に戻る」
この選択は、間違ってなかったと思う。
なんとか、修学旅行のタイミングまでに高校に戻ると、友達が誰もいない修学旅行を楽しんだ。
レールを一度、はみ出たことで、こんなにも世界は広いんだということを知った。
それからは、何でもやってみることにした。
バンドも、バイトも、学校行事も、勉強も。恋も。
高校3年になり、選択授業で倫理を選んだ僕は、またも打ちのめされることになる。
哲学者の言葉から抜粋して、担当教員が黒板に書いた言葉。
「『愛』とは、何なのか」
僕は、ワクワクした。
これが、僕の人生にとっても大きなテーマとなると感じた。
その後、大学で哲学科に入学したものの、3年次には、中退を選ぶことになる。
なぜなら、自分にとって、「愛」を哲学することは、学ぶものではないと感じたからだ。
人生を通じてこのテーマを突きつめていこうと決め、大学を後にした。
そして、その時に、自分が一番熱中していたもの=ダンスの世界に飛び込むことになる。自分は、興味のないものは頑張れないことをよく知っていたし、逆に興味のあることであれば、寝食を忘れてのめり込むことができた。
その時、僕の心を摑んでいたのは、ダンスだけだった。
その数年後、僕はEXILEのメンバーになった。
あの時、兄に言われた「渋谷に行け」という言葉から全てが始まっているかと思うと、感慨深いものがあるし、その言葉を実行する選択をした自分だったからこそ、今の自分がいるのだと感じている。
哲学科の大学生からEXILEのメンバーとなった小林直己さん。
「EXILEになる」という大きな選択をし、その上に起きた奇跡について綴られた半自伝的エッセイ「選択と奇跡 あの日、僕の名字はEXILEになった」の刊行を記念して、「直己先生の人生相談室」を開設。Z世代(1990年代半ば~2012年生まれ)の方々の悩みごとを募集します。
進路や恋愛など、日々の生活の中で選択を迫られ、悩んでいるというZ世代の皆さまのご相談に、直己さんが「先生」となってアドバイスします。
応募の締め切りは、2021年11月30日(火)18時です。ご応募をお待ちしています。
※編集上の都合により、締め切り日を変更する場合があります。
※採用されたお悩みは、文春オンラインにて11月24日(水)から公開予定です。