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小説「観月 KANGETSU」#62 麻生幾
第62話
逃走者(4)
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※本連載は第62話です。最初から読む方はこちら。
「なら、田辺は列車に乗ったんやねえですか?」
涼が言った。
「なんかなし(とにかく)、駅員から聞き込んで、大分市方面か小倉方面か、どちらん列車に乗ったか、それだけでん押さえる」
正木が押し殺した声で言った。
緊急走行で車を走らせた涼が杵築駅前に捜査車両を到着させたのはその10分後だった。
駅前にはパトカーはまだなかった。
瓦葺(かわらぶ)き屋根がある武家屋敷風の佇まいをした駅舎入り口前の広い敷地に車を滑り込ませた涼はすぐに飛び降りた。
手動の両開きのドアを勢いよく開けて駅舎に飛び込んだ涼は、〈きっぷうりば〉と書かれた硝子張りの窓口の向こうに座る若い駅員に最初に声をかけた。
涼は警察手帳を掲げてから、大分県警本部から届いていた田辺智之の写真を、切符や金銭のやり取りをする小さな隙間から差し入れた。
「こん男、今から30分以内の列車に乗ったんや。どっちんホームに向かった?!」
質問というより詰問口調になっていることに自分でも気づいた涼だったが、コトは一刻を争うのだと気に留めなかった。
受け取った写真を見つめていた駅員は首を傾げた。
「小倉方面か、大分方面か、どっちかの列車に間違いのう乗ったんや!」
語気強く言った涼がさらに続けた。
「昼間の時間帯に乗客はそげえおらんはずだ!」
涼が勢い込んだ。
「そう言われましてん……」
戸惑いながらそう言った駅員だったが、命令口調の涼の言葉に不愉快な表情を浮かべた。
「どげえや? 見ちょらんか!」
涼が畳みかけた。
「さあ……」
駅員は首を捻(ひね)った。
「まーいっぺん(もう一度)、どうか、まーいっぺん、よう見ち!」
駅員は顔を左右に振った。
「やけん! ちゃんと見ち!」
涼は駅員に突っかかった。
「首藤──」
正木が声をかけた。
「どうや! こん男、どっちん列車に!」
しかし涼の勢いは止まらなかった。
「首藤、止めろ!」
正木が堪まらず涼を駅員から強引に引き剥がした。
「どげえしたっちゅうんや?」
正木が咎めた。
「どげえしてん奴の行き先を確認したいんです!」
涼が声を張り上げた。
「島津七海んことで頭に血がのぼっちょんのやろ。まあ落ち着け」
正木が落ち着いた声で言った。
「しかし──」
「冷静になれ!」
正木が叱った。
「刑事さん──」
駅員が声をかけた。
「思い出しましたか!」
涼は輝く目をして駅員を振り返った。
「わしも、駅のセキュリティーを担うちょん職員の端くれです。1日ん乗降客ん顔ぶれだけは最低限憶えちょん。ゆえに、こん写真の男はここを通過しちょらん、そうはっきりと言えます」
改札口を指さしながらそう捲し立てた駅員は、写真を涼に返した。
涼はそれでも諦めきれない雰囲気でホームへと飛び出した。
そこは大分方面行きのホームで列車はなかった。
右手の階段を登って反対側に辿り着くホームが小倉方面行きの乗り場であり、そこには、2両編成のワンマン仕様で、ドアがオレンジ色の各駅停車の列車が停まっている。
涼は腕時計を見つめた。
もちろん、小倉方面行きの目の前の列車に、田辺智之が乗っているはずもないことは涼にも分かっていた。
「小倉駅にも、大分駅にも、警察官が張り込んじょん」
正木が背後から声をかけた。
「もし途中で下車しちょったら?」
涼は不安げな表情を向けた。
「捜査本部の要請で、県警本部はすでに田辺智之の携帯電話の電波追跡を開始しちょん。確保するのは時間の問題や」
そう言って正木は大きく頷いた。
(続く)
★第63話を読む。
■麻生幾(あそう・いく) 大阪府生まれ。作家。1996年、政府の危機管理の欠陥を衝いたノンフィクション『情報、官邸に達せず』を刊行。日本の危機管理をめぐる“真実”を小説で描いている。オウム事件など内外の事件を取材したノンフィクション作品も。主な小説に、『宣戦布告』『ZERO』『ケース・オフィサー』『外事警察』『奪還』など。「宣戦布告」「外事警察」などが、映画化、ドラマ化され反響を呼んだ。ノンフィクション作品に、『極秘捜査-警察・自衛隊の「対オウム事件ファイル」-』『前へ!-東日本大震災と戦った無名戦士たちの記録』などがある。※この連載は、毎週日曜と不定期平日に配信します。
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