阪急阪神ホールディングス「『小林一三』という求心力」ニッポンの100年企業② 樽谷哲也
「朗らかに、清く正しく美しく」。受け継がれるカリスマの理念。文・樽谷哲也(ノンフィクション作家)
終わることのない新陳代謝
銀杏の落ち葉が歩道を鮮やかに黄色く染めている。西の商都たる大阪梅田駅から、昼下がり、阪急電車・宝塚本線に乗る。ゆっくり北上すること40分ほど。終点の宝塚駅に着き、改札口を抜けて外を歩き始めると、着飾った女性たちの姿が明らかに多いことに気づかされる。ジャケットやコート、靴、バッグなど、装いは華やぎ、あるいは落ち着いて、みな上品な色合いである。
華美な趣きに、総じてシックであるか、賑やかに楽しむファミリー層であるかといった大まかな違いはあるものの、似たような風景を思い浮かべた。東京ディズニーランド周辺である。道行く人はおよそ誰も満ち足りたように微笑んでいることで、この東西の街はどことなく似通う。
「花のみち」と名づけられた舗道を進むと、右手に大きな劇場が見えてくる。宝塚大劇場である。宝塚歌劇団が通年で公演する本拠地であり、一帯は、ヅカファンでなくとも、「聖地」と呼ばれることを知る。大阪の中心地から、まだ鄙びていた六甲山系を背に鉄道を敷き、沿線に住宅地を造成して、デパートなどの商業施設から文化、教育、そしてエンターテインメントまで丸抱えするように開拓したのが阪急グループ創業者の小林一三(1873‐1957)である。宝塚歌劇団と、その団員を養成する機関、宝塚音楽学校の「清く正しく美しく」という広く知られるモットーも、一三が高唱し、今日に至るまで固く伝承されてきた。
また阪急電車に乗り、梅田へと戻っていく。車窓より外を眺めていて、阪急グループの本拠たる池田駅が近づくにつれ、沿線に広がる夕暮れの住宅街は緩やかにまぶしい。高台を切り拓くように広がる豊中の高級住宅街もまた、大きな戦争を幾度も経てしぶとく立ち上がっていく往時の日本がたどり着いた栄えのありようを、旧くも新しくも伝えている。
大阪梅田駅が近づくにつれ、赤と白のツートンカラーの巨大クレーンが上層階に鎮座する建設中の高層ビル群をあらためて目にすることとなる。東京でいえば都心の丸の内エリアで常に超高層ビル再開発がつづけられている光景と、つい重ねそうになる。あくまで「まちづくり」とは人の手によるものだが、そうしたさまは、まちが自ら呼吸をし、終わることなく新陳代謝をつづけていると連想させた。
宝塚大劇場
絶えず創意工夫を重ね
2003年に阪急電鉄の社長に54歳で就き、現在は阪急阪神ホールディングス(HD)会長を務める角和夫は、「100年後の世界を想像するのは容易ではありませんが」と穏やかに微笑んだ。温厚な紳士である。
「小林一三がつくったビジネスモデルは時代の変遷とともに変わっていくでしょう。それでも、着る、食べる、住むという衣食住、さらに教育、文化、趣味、娯楽を人びとが必要とすることは100年後も変わらないと思います。同時に、多様化が進む社会に応じて、われわれも変わっていくことを求められているはずです」
十年一日のごとく漫然とワンパターンを繰り返していては事業は継続し得ず、同じことをしているように見えて、絶えず創意工夫を重ねていると強調した。
角は宝塚音楽学校の理事長も務めており、宝塚歌劇団に自ら作詞・作曲した楽曲を提供したこともある。
「宝塚も、同じようなことを公演しているように見えて、実は少しずつ変わっていますし、できるだけ技量を上げるように努力しています。このコロナ禍でもありますし、新人公演のインターネット中継の有料ライブ配信をぜひともやれと僕は提案しましてね。これがものすごく評判がいいんです。このような新しい取り組みをすることによって、技量の底上げもできているように思います」
事業に守破離というものがあるとするなら、それが小林一三イズムのひとつの形であるのかもしれない。
小林一三は、現在の山梨県韮崎市にある商家に生まれた。その名は1月3日が誕生日であることによる。慶應義塾で学んでいるとき、東洋英和女学校の校長の夫が賊に殺害されるというショッキングな事件に材を得て、小説を執筆し、故郷の山梨日日新聞に靄渓学人の筆名で連載を始めたりしている。ときに一三は17歳と、実に早熟で、20歳で三井銀行に入ってからも文学への志を捨て難かった。大阪・池田の高台に建てた邸宅で生涯を閉じる。一三の曾孫で、宝塚歌劇団理事長などを歴任し、現在は阪急電鉄の常任監査役を務める小林公一によれば、自らの誕生日に開かれる茶会には、山梨の名産である干し柿を取り寄せて客人に供する郷土愛を持ちつづけてもいた。
三井銀行では東京本店や名古屋支店などに勤務したが、とりわけ商才に長けた大阪支店長に薫陶を受け、一三もほとばしるような事業欲を抱くに至る。1907(明治40)年、34歳のとき、新事業を構想する仲間に賛同する格好で三井銀行を退職する。すでに結婚し、二男一女にも恵まれていた。約15年の銀行勤務で培った計数の知識と商いの経験は、文学青年じみた小林一三を想像力豊かな事業家へと成長させる大きな土台となった。自らの雅号を題に用いた自伝『逸翁自叙伝』にも、そうしたエピソードが詳述されている。
大阪・梅田から豊中、池田を経て宝塚や有馬、さらに箕面や西宮へとつながる計画の「箕面有馬電気軌道」の設立に加わり、専務に就いた。社長が不在であったため、やがて一三が経営の実権を握ることになる。有馬まで開通することなく、現在の宝塚本線と箕面線に相当する区間で、1910年に開業に漕ぎ着ける。当初から一三の描いていた事業計画こそ、のちに田園都市開発構想などと呼ばれ、東急の五島慶太や西武の堤康次郎、さらには山梨の先輩にあたる東武の根津嘉一郎にも絶大な影響を与えたと伝わる。一三は、海外の電鉄会社が沿線に住宅地を開発し、盛んに成功を収めている事例を知っていた。
小林一三翁
阪急阪神ホールディングスの沿革
1899年 摂津電気鉄道(阪神電気鉄道)創立
1907年 箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)創立
1910年 阪急、土地建物分譲事業を開始
1911年 宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)開業
1914年 宝塚少女歌劇(現・宝塚歌劇団)第1回公演
1924年 甲子園球場開設
1929年 梅田阪急ビル竣工(阪急百貨店が営業開始)
1935年 大阪野球倶楽部(現・阪神タイガース)設立
1936年 大阪阪急野球協会(後の阪急ブレーブス)設立
1957年 小林一三 永眠
1988年 阪急、球団を譲渡
2003年 宝塚ファミリーランド閉園
2005年 阪急ホールディングス発足
2006年 阪急阪神ホールディングス発足
2013年 大阪駅北側の再開発「うめきた1期」がまちびらき
2017年 角和夫、阪急阪神HD会長グループCEOに就任
2018年 阪急阪神不動産発足
郊外に良質な住宅を
阪急電鉄に入社以来、不動産開発を長く手がけてきた阪急阪神不動産の社長、諸冨隆一は、英ロンドンで20世紀初頭に建設された最初の田園都市の成功例として知られるレッチワース・ガーデン・シティーへ2000年代の初めに出張した。
「小林一三が池田の室町で宅地開発を構想したとき、自らは行ったことがないものの、知り合いの外交官や経営者たちからレッチワースという成功例があることを聞いていたそうです。私も、実際に行って初めてそのことが理解できました。都心に近い利便性と、緑や自然が豊かで空気のきれいな郊外でなければ得られない暮らし。それらを兼ね備えた当時の世界最先端のまちづくりに学びつつ、それを日本に合うものにつくりかえながら小林一三は考えました」
いま梅田エリアで阪急阪神グループが中心となって進めている再開発事業にもレッチワースに触発されて採り入れた要素がいくつもある。
小林一三が箕面有馬電気軌道の開通にあたり、住宅地を販売するためのパンフレットで、挑発するごとく次のように強い調子で呼びかけたことが知られている。
《美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!》
工業化と経済成長による大阪の著しい発展は、公害によって澱んだ空をもたらし、住環境や衛生状態の悪化を招くという負の側面を生じさせていた。それでいて、人口が急増しているため、住宅の需要に供給が必ずしも追いついていない悪循環にも陥っていた。仏文学者の鹿島茂は、『日本が生んだ偉大なる経営イノベーター 小林一三』(中央公論新社・2018年)という浩瀚な評伝の中で、一三は、《多くの伝記で書かれているのとは異なり、箕面有馬電気軌道を計画してから分譲地開発を思いついたのではなく、分譲地となるべき土地の安さと優良さに気づいていたがために箕面有馬電気軌道は行けると判断した》と指摘している。
一三は、人口密集地の都会で、長屋然とした狭くて窮屈な家に住み、会社や学校とを行き来して、不健康な生活を送っているとの現実を《大阪市民諸君》に突きつけ、交通至便で空が澄んだ町で、おおむね100坪の敷地に、広い庭のある洋式の新築一戸建てを構えて暮らすという提案を、鉄道の新たな開業という絶妙のタイミングに合わせて大々的にした。
進む梅田の再開発
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