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日大「田中帝国」の土俵際 日本一のマンモス大学理事長に捜査の手が… 西﨑伸彦

文・西﨑伸彦(ジャーナリスト)

日大のドンの牙城

東京・阿佐ケ谷駅から徒歩2分の場所に、知る人ぞ知る「ちゃんこ料理 たなか」はある。4階建てのビルで店舗は1階と2階、上階は住居となっている。ちゃんことふぐ料理が名物で、店内の仕切り壁の奥にある、掘り炬燵の小上がり席が、予約で埋まる日も少なくない。

ここに東京地検特捜部の係官が踏み込んだのは9月8日午前のことだった。特捜部は、背任容疑の関係先として家宅捜索した。

この家の主は、約7万人の学生数と約118万人の卒業生を誇る、日本最大のマンモス校、日本大学の田中英寿理事長(74)。2008年に理事長に就任して以来、日大のドンとして君臨し、その人脈は政界やスポーツ界、果ては裏社会にまで及ぶ。

この10年近く、国税当局や警視庁には様々な不祥事の告発が大学内部から寄せられては、内偵捜査が進められた。また2018年5月には日大と関西学院大とのアメリカンフットボールの定期戦で悪質タックル問題が起こり、日大の体質が猛批判を浴びたことは記憶に新しい。

しかしながら、捜査当局の内部にまでおよぶ日大のドンの威光はすさまじく捜査は悉く壁にぶつかり、田中氏は側近に「死ぬまで理事長を続ける」と豪語する始末だった。

そんな田中氏の牙城に、今回初めて特捜部が捜査のメスを入れたのだ。

検察担当記者が語る。

「特捜部は日大本部と、日大が全額出資し、10年に設立された『株式会社日本大学事業部』にも家宅捜索を行ないました。疑惑の舞台は築50年を経て、建て替えが計画されていた日大医学部附属板橋病院です。予算規模は全体で1000億円とされ、昨年、基本設計のコンペが実施されました。4社のなかから設計会社の『佐藤総合計画』が選ばれ、24億円で契約を締結。日大側は、手始めに、前払金として7億円を佐藤総合計画に支払ったのですが、このうち2億円が不正に流出し、大学に損害を与えたとみられています」

2億円はその後、大阪の医療法人「錦秀会」の籔本雅巳理事長が株主を務める医療コンサル会社に送金されたことが判明。この会社はペーパーカンパニーで、籔本氏の秘書役も担った側近が代表を務めている。

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田中氏

安倍首相のゴルフ仲間

大阪出身の籔本氏は、父親が創立した病院を引き継ぎ、大阪に7病院のほか介護老人保健施設などを擁する関西屈指の病院グループに育てあげた。大相撲の朝青龍のタニマチとして大阪・北新地では有名な存在だった。政治人脈も豊富で、安倍晋三元首相のゴルフ仲間として、首相動静にもたびたび登場している。

「籔本氏は自民党の中山泰秀議員と昵懇の仲で、彼から14年4月に大阪の牛肉割烹の店で、安倍晋三首相を紹介され、意気投合したそうです。籔本氏の父は山口県の宗教団体『新生佛教教団』に入信しており、そこを支持基盤にしていたのが安倍氏の父、晋太郎氏だった。親同士の縁を知り、2人は急速に親しくなった」(籔本氏の知人)

その頃、籔本氏が得たもう一つの太い人脈が、日大の田中氏だった。

「籔本氏は14年に、日大相撲部出身の遠藤関の後援会『藤の会』の会長に就任しています。田中氏は当時、日大相撲部の総監督を務めており、殊の外、遠藤のことを可愛がっていた。遠藤もまた田中氏の妻、優子夫人に誕生日プレゼントを欠かさず、“東京のお母さん”と慕っていた。遠藤の後援会組織を作るにあたり、田中氏が人を介して籔本氏に会長を依頼したのです」(日大関係者)

田中氏と籔本氏を繋げた人物こそ、特捜部が、今回の疑惑のスキームを主導したとみている日大の理事、井ノ口忠男氏(64)である。

日大アメフト部の元主将である井ノ口氏はスポーツ用品の販売などを行なう「チェススポーツ」を経営している。田中氏の最側近である井ノ口氏は、大学の納入業者の選定を一手に手掛ける日大事業部の役員も兼務。事実上、日大事業部をコントロールする絶大な影響力を持つ存在だ。

「今回のスキームでは、井ノ口氏が佐藤総合計画に2億円を籔本氏側に送金するよう指示したとみられています。一方で、佐藤総合計画を日大に紹介したのは、自民党の故野中広務元官房長官の元秘書(今年2月に死去)で、日大と取引のある葬儀業者を通じて田中氏に持ち込んだ。病院の建て替え計画は、田中氏が井ノ口氏に同社を繋ぎ、井ノ口氏が実務を担当する日大管財部に紹介したという流れです。特捜部はコンペそのものの正当性にも疑義を持っています」(地検関係者)

今後の捜査の鍵は、田中氏と井ノ口氏、籔本氏との関係性と、2億円の行方だ。

「田中氏はすでに任意で複数回事情聴取を受けています。本人は、『まったく知らない。金が(医療コンサルに)渡っていたことは後で知った。井ノ口に聞くと工作資金だと言うが、何の工作かもはっきりしない。籔本は大学とは何の関係もない』などと話しています」(同前)

約2年前から体調を崩している田中氏は、9月12日に検察側に診断書を提出。優子夫人もそろって翌日から入院したという。

一方、井ノ口氏は検察に対し、「私はお金を受け取っていません。田中理事長も長年貯め込んだものが相当あるので、お金には困っていません」などと疑惑を否定している。

特捜部の狙いは、籔本ルートを解明したうえで、井ノ口氏を入り口に日大の最高権力者である田中氏に迫り、巨大な利権構造にメスを入れることである。長年、国税当局や警視庁そして検察当局が切り込めなかった日大という「伏魔殿」を、田中氏はいかにして築き上げたのか。

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日大の本部

アマ相撲界の大鵬

農家の三男として生を受けた田中氏は、青森県北津軽郡金木町(現・五所川原市)出身だ。金木町は作家の太宰治や歌手の吉幾三の出身地で、津軽三味線の発祥の地としても知られている。高校から相撲を始めた田中氏は、地元の名門、木造高校相撲部を経て日大に進学。相撲部の1年下にはのちに横綱になる輪島がいた。

ベテランの相撲記者が語る。

「田中氏と輪島氏は切磋琢磨するライバルであり、輪島が18年に亡くなるまで親友でした。輪島は大学3年生の時に決勝で前年に学生横綱だった田中氏を下し、学生横綱を奪取しました。田中氏は卒業後の進路について、日大の上層部から『プロには輪島を行かす。お前は大学に残れ』と言われ、その言葉に従うしかなかった。そして日大に職員として就職し、指導者の道を歩みました」

就職後も相撲部のコーチをしながら、アマチュアとして大会に出場し、現役を続けた田中氏は、合計34のタイトルを獲得。“アマ相撲界の大鵬”と呼ばれた。

「大学では農獣医学部の体育助手から始まり、日大の運動部を統括する保健体育審議会に移りました。田中氏は午前中は奥の長椅子で横になって寝ています。午後になると『練習に行ってきます』と居なくなる。時には上司から『寝てばかりいないで、少しは仕事をしろ』と怒られていました。当時の彼が『俺は女房には頭が上がらない。養子みたいなもんだ』と言っていたことを憶えています」(当時を知る日大ОB)

元演歌歌手の夫人

田中は74年、三波春夫の前座をしていた元演歌歌手の優子夫人こと旧姓、湯沢征子氏と結婚している。

「彼女は歌手として2枚レコードを出しており、演歌歌手の大月みやことは一緒に“ドサ回り”をした仲だそうです。優子夫人は長野県の下駄屋の娘で、母親が上京して阿佐ヶ谷で喫茶店を始めた。これが『ちゃんこ料理 たなか』のルーツです。店が入るビルは“湯沢ビル”と名付けられ、ちゃんこ屋は優子夫人と母親が切り盛りしていました。阿佐ヶ谷には日大相撲部の合宿所があり、かつて輪島が所属していた花籠部屋もありました。相撲好きだった優子夫人は花籠部屋の若秩父がお気に入りでしたが、そのうち田中氏と知り合い、結婚したのです」(同前)

田中氏は自著「土俵は円 人生は縁」のなかで、こう記している。

〈最初から経済力のある彼女におんぶにだっこですよ。彼女と一緒にいれば、お茶代も飯代もまったく不要でしたから。その浮いたおカネで部員たちの面倒を見れます〉

優子夫人の内助の功もあり、田中氏は83年、日大相撲部の監督に就任する。

「田中氏が指導した角界の日大出身者は50人を超えています。現役理事の境川親方を始め、木瀬親方や入間川親方、さらに解説者の舞の海や野球賭博で追放された琴光喜もいます。そのほかアマ相撲界にも、角界に力士を輩出し続ける鳥取城北高の石浦外喜義総監督や埼玉栄高の山田道紀監督などがいて、田中氏は角界に絶大な影響力があった。チビッ子相撲で有望な子がいれば、小学生の時から日大相撲部で練習させ、小遣いをやりながら手懐け、日大に入学させる。入門の際に、いかに高く部屋に売るか。田中氏は金も含めた、その差配をするのです」(角界関係者)

土俵でドンチャン騒ぎ

田中氏のスカウトを受けた経験がある元力士が明かす。

「中学3年生の時、田中氏から呼ばれ、いつも通り小遣いを渡されたのですが、その時は輪ゴムでとめた10万円だったので驚きました。とにかくお金持ちで、お金の切り方も凄かった。毎年大晦日になると日大OBや親方衆、現役力士にも声が掛かり、日大の合宿所にみんなが集まります。土俵のところにブルーシートを敷いて宴会が始まるのですが、そこで唄う恒例の歌がありました。『田中先生、ありがとう』という歌で、これを唄い出すと田中氏が踊り出す。そこからはドンチャン騒ぎでした」

相撲界での絶大な力を背景に、田中氏は日大の中でも99年に理事に就任し、確実に地歩を固めていった。

「田中氏がいた保健体育審議会の傘下の各運動部は、それぞれ推薦入学枠を持っています。全国大会の成績などに応じ、入学試験のハードルを下げて受け入れるのですが、この“保体審入試”は以前から不透明な部分があった。ある運動部で推薦枠が余れば、その枠を融通し合うのです。差配は田中氏が牛耳る保体審が行なうのですが、相撲部とアメフト部はとくに推薦枠を多く持っており、別格扱いでした」(日大の元幹部)

日大のアメフト部はカリスマ指導者だった故篠竹幹夫元監督が44年間の監督在任中に、学生王座に17度導き、黄金期を築いた。この時のアメフト部部長が、のちに日大の9代目総長となる瀬在良男氏である。

「良男氏は、93年の総長選で、弟の幸安氏と総長の座を争って戦いました。田中氏は、体育局に影響力を持った良男氏が総長になると、ピタリとくっつき、鎌倉に住んでいた良男氏を囲む“鎌倉会”なる集まりの中心メンバーになった。ところが、3年間の任期の間に状況が変わり、鎌倉会は解散。田中氏は、次の総長選の戦況を見極め、敵だったはずの幸安氏に乗り換えた。選挙参謀のように振る舞い、資金も用意して勝ち馬に乗ったわけです。田中氏は権力闘争が根っから好きなんです」(同前)

「数と喧嘩なら負けねえぞ」

そして瀬在幸安氏は10代目総長に就任。この頃、田中氏は「日大で横綱になってやる」と周囲に公言し、野心を隠そうとしなかった。しかし、彼は“綱取り”を目前に最大の危機を迎える。

「田中氏は、幸安氏に『相撲部の部長になって欲しい』と申し出るなどして信頼を得ていき、側近として引き立てられました。02年には常務理事に出世。就任祝賀会にはゼネコンの幹部らがズラリと顔を揃えた。ところが、幸安氏が3期目に入ると、風向きが変わり始めました。田中氏に学校施設の新築や増改築工事に絡むゼネコン業者からのキックバック疑惑や暴力団関係者との黒い交際など、きな臭い噂が絶えなくなったのです。幸安氏は、田中氏の悪評を耳にするだけでなく、パーティーの席で、施設の建設を担う営繕管財担当の常務理事を差し置いて、建設業者が田中氏の元に挨拶に出向いている場面を目撃し、田中氏を切る決断をするのです」(同前)

すると田中氏は“反総長”の急先鋒に転じ、次期総長選では幸安氏が推す“後継候補”ではなく、その対抗馬の支援に入った。

幸安氏の周辺に異変が起こり始めたのはその頃だった。自宅には街宣車が来て褒め殺しを始めたかと思えば、「早く辞めなければいけない」「身の危険がある」などと書かれた脅迫状が届いた。さらに04年末、総長の元に実弾入りの白い封筒が届き、常務理事の一人にも薬莢入りの封筒が届く異常事態が発生。警察に届け出たものの、結局犯人は特定できなかった。

幸安氏は次期総長選が近づいた05年、6名の弁護士から成る特別調査委員会を作り、田中氏に自宅待機を命じて、疑惑調査を開始した。

「工事業者に対する田中氏の金銭要求や戦後最大のフィクサーと呼ばれた許永中ら暴力団関係者との交友が調査の中心でした。田中氏本人も身の潔白を証明すべく聞き取りに応じたものの、結論は『白じゃない、黒に近いグレー』との心証を残したまま次期執行部へと引き継がれ、うやむやのまま終了した」(同前)

田中氏は間一髪で逃げ切った。そして総長選で自らが推した候補が当選を果たすと、彼は来るべき自らの選挙を見据え、着々と準備を進めた。田中氏は卒業生を中心とした校友会を全国に作り、その纏め役として会長に君臨し、支持基盤を固めたのだ。

「こっちはな、数と喧嘩だったら誰にも負けねえぞ」

当時の田中氏は口癖のようにそう話していたという。

そして08年。彼はついに日大の“横綱”となった。

「総長は教学出身者しかなれないため、職員上がりの田中氏は理事長を目指した。そして総長制を廃止し、すべての権限を理事長に集約させたのです。彼は権力のトップに立つと、側近であっても気に入らなければ躊躇うことなくポイ捨てにしました。正しくそれは恐怖政治でした」(前出・日大元幹部)

恐怖政治を敷く田中氏の背後には、暴力団の影が常に見え隠れした。

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6代目山口組の司忍組長との2ショット

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