連載小説「李王家の縁談」#10 |林真理子
【前号まで】
韓国併合から18年経った昭和3年(1928)。佐賀藩主の鍋島家から嫁いだ梨本宮伊都子妃には娘が二人いた。姉の方子は、李王家の王世子、李垠に、次女の規子は山階宮との縁談が破談になり、広橋伯爵に嫁ぐ。そして王世子の妹である李徳恵が日本に留学し、方子の家に迎えられた。
★前回の話を読む。
昭和の御代になって二度めの、昭和三年の正月も静かに過ぎようとしていた。
十一月の即位の礼を控え、宮中での拝賀の儀は規模を小さくして行なわれた。
が、天皇皇后両陛下は機嫌よくお揃いで、皇族からの祝賀をお受けになった。白いローブデコルテ姿の皇后は、お二人めの内親王が誕生されたばかりで、におい立つような美しさである。学習院の生徒の中から選ばれた少年二人が、トレーンの裾を持ってしずしずと歩いた。
ついこのあいだまで、その場所には節子(さだこ)皇后がお立ちになっていたのであるが、もうお姿は見えない。大正天皇の喪儀が終わったとたん、宮城か(きゆうじよう)ら青山東御所に移られたのである。そのいさぎよさに、さすがと人々は感じ入ったものだ。
その年の正月は、梨本宮家にとってはやや寂しいものとなった。規子(のりこ)が嫁いでしまったうえに、毎年年賀にやってくる李王夫妻の姿が見えない。
李王と方子(まさこ)は、昨年の五月末から一年にわたる欧州歴訪の旅に出ていた。李太王の薨去や大正天皇の崩御でのびのびとなっていたものだ。
が、出発までにはさまざまな反対や議論があり、日本の皇族として行くのか、それとも朝鮮の王として行くのかと政府や宮内省も困惑していた。これにすっかり嫌気がさした李王が、珍しく声を荒げる場面もあったようで、方子は心を痛めていた。
「それでも欧州が見られるというのは誰でも出来ることではありません。妃殿下として恥ずかしくないおふるまいをなさい」
と伊都子(いつこ)は自分の宝石のいくつかを貸してやった。今頃はイタリアにいるはずである。非公式ということになっているが、ムッソリーニに会うと手紙にはあった。
そして松飾りも取れた一月の朝、新聞を手に取った守正(もりまさ)は、おおとうなり、それを伊都子に渡した。
一面に大きな見出しで、
「秩父宮(ちちぶのみや)殿下の妃に選ばれた松平大使令孃」
とあった。節子の写真も、秩父宮と共に載っている。
信じられない、と伊都子は首を横に振る。そんなことはあり得ない。節子は伊都子の親しい姪である。ついこのあいだも、節子の父の赴任地ワシントンに手紙を書いたばかりだ。
節子の母信子は、伊都子と母を同じくする妹で、外交官松平恒雄に嫁いだ。恒雄は賊軍とされた会津藩主容保の息子ゆえに自らは分家し、華族の身分を離れた。つまり節子は平民の娘なのである。
「直宮(じきみや)さまのお妃が、平民から出るなどということがあるでしょうか……」
自分の声が震えているのがわかる。驚きもあったが、そのことをいっさい知らせない妹、信子に対する口惜しさの方が大きい。
「実は大宮さんがまだ皇后でいらした時に、会津出身の山川健次郎をお呼びになり、節ちゃんのことを……」
守正は、うっかり節ちゃんと呼び、すぐに訂正した。
「節子嬢のことを調べさせている、という噂が立ったことがある。しかし会津の娘を妃殿下にされるはずがないと、すっかり忘れていたのだが」
考えれば考えるほど腑に落ちぬ話であった。平民の娘が華族に嫁ぐ例がたまにあるが、これは実家の裕福さを見込んだ貧しい子爵、男爵というのがほとんどだ。ましてや皇族などというのはありえないことである。よって節子は、本家の松平保男の養女となっているのだが、この保男にしても華族としては下から二番めの級の子爵であった。義姉になる皇族出身の良子(ながこ)とは、まるで釣り合わない。
「しかも雍仁殿下は、大宮さんがあれほどお気に召していらっしゃる親王さまであられます」
朴訥な学者肌の天皇と違い、次弟の秩父宮は才気煥発、気鋭の陸軍将校として国民にも大層人気があった。
「その雍仁殿下に、よりにもよって平民の娘で、会津の孫、外国で生まれ育った娘が妃殿下になるとはどうしても信じられません」
このように否定的なことを口に出来るのも、節子が親しい身内だからである。関東大震災の日、松平一家は梨本宮家に避難してきた。そして節子は竹林のテントの中に敷いた布団にくるまり、規子と抱き合ってすやすや寝入ってしまったのである。規子もそうであるが、まだあどけない少女であった、あの“節ちゃん”が、直宮の妃殿下になるとは……。宮家は梨本宮家を含めて十一家あったが、天皇の子や兄弟の直宮とは重みがまるで違う。ましてや秩父宮は、今のところ皇位継承順位第一位なのである。
守正の出勤を待って、伊都子は車を鍋島家まで走らせた。といっても渋谷の宮益坂から松濤まではあっという間の距離である。
予想していたことであるが、鍋島家の門の前には、たくさんの新聞記者がつめかけていた。節子一家がワシントンにいるため、母親の実家に来るしかないのだ。おそらく松平家の方にも殺到しているに違いない。
シトロエンのクラクションを鳴らして、記者たちを追いはらった。
「おたあさん」
居間に入るなり、伊都子は叫んだ。
「お知りだったら、どうして教えてくれなかったのですか」
「そうは言ってもねえ……」
地味な縞ものを着た栄子(ながこ)は、うかぬ顔をしている。
「ワシントンの信子から手紙が届いたのは、先週のことでね。新聞発表があるまでは、誰にも言わないでくれと書いてあって……」
「それにしても水くさい。こんな大事なことを姉の私に相談もしてくれないなんて」
伊都子は椅子に腰かけ、茶を運んできた女中に手を振り、人払いをした。
「昨年の十月に、ワシントンに樺山さんが行かはったそうや」
樺山愛輔伯爵は薩摩の出だ。娘の正子と節子とは親友の仲である。
「大宮さんの命を受けてのことやったんやけど、信子も松平さんもとんでもない、と即座にお断わりしたんやそうや。平民の何の躾もしていない娘が、なんで直宮の妃殿下になることが出来ましょうと」
いったんはひき下がり帰国した伯爵に、大宮は大層不満をお持ちになった。最後には別のものを遣わすとまでおっしゃったそうだ。
「それで樺山さんはまた二十日かけて、ワシントンに行かはった。これでまた断わられたら、帰りは太平洋に飛び込む覚悟と聞いたら、信子も松平さんもお受けするしかないと思ったようや」
栄子はため息をついた。そこには、孫娘を直宮に嫁がせるという誇らしさはまるでない。
「節ちゃんも嫌がって、嫌がって、ずうっと泣いてたそうや。このままアメリカの大学に進んで勉強したいって、皇族の妃殿下になんかなりたくないって」
伊都子にはその様子が想像出来た。節子は父親そっくりの顔立ちで、美貌というのではない。しかし聡明なよく動く表情は、いかにも海外で育った少女のものであった。
「おばさまへ」
とはじまる、アメリカからの手紙もユーモアと知性に充ちていて、伊都子は大層楽しみにしていたものだ。いずれボストンの大学で教育学を勉強したいと言っていた姪は、方子や規子とはまるで違う人生をおくるものと考えていた。それが直宮の妃殿下とは……。
「伊都さんも梨本宮さんにいかはって、それはそれはご苦労やったと思いますわ。何というても皇族は雲の上のお人。そやから私は、次の娘は外交官のところに嫁がせようと思いましたんや」
世間では、信子の縁談は父、鍋島直大が決めたことのように言われているが、母栄子の意向がはるかに強かったのである。
「私もイタリア行きましたから、外交官夫人の苦労はわかります。だけど外国を見て、旅をして、心が広くなりましたなあ。私は伊都さんを皇族に嫁がせましたから、今度は平民の帝大出の婿さんにしようと決めましたんや。そしたらこうや……世の中うまくいかないもんやなあ。気軽な相手思いましたのに、その孫が直宮さんの妃殿下やとは……」
「おたあさん、そんな嘆いてばかりでは、節ちゃんが可哀想ですよ。私たち身内はまず祝ってさしあげなければ」
「そらそうやわ。信子たちは六月に帰国するようやけど、しばらくはここの別邸に住むようや。納采の儀もここでするとしたら、手を入れななりません。忙しいことになりそうや」
ついに母にも本音を言えず、伊都子は帰ってきた。そして二人の娘のことをつい考えてしまう。
方子が長く皇太子妃の候補とささやかれながら、脱落してしまったのは、当時皇后だった大宮が反対したからだ、という噂があった。伊都子には思いあたる節がある。日光でのこと。伊都子の美しさに惹かれた当時皇太子だった大正天皇が、しつこく鍋島家の別荘にお立ち寄りになった。愛犬のダックスフントを押しつけたこともある。それにお怒りになった節子妃は、一人で東京に帰ってしまわれたのだ。
それ以来、自分は皇后にうとまれているとずっと感じ続けていた。だから皇太子妃が方子ではなく、良子女王に決まったと聞いても納得出来た。
そして次は規子のことである。規子は年齢的に秩父宮と釣り合う。皇族の女王という条件も申し分ない。が、伊都子ははなから諦めていた。
それは、
「直宮が朝鮮の王と、相婿になることはあるまい」
ということだ。方子が当時王世子であった李王に嫁いだ時と状況は違う。日本が併合して以来、日本人の朝鮮差別や偏見は驚くほどの早さで拡まっていった。朝鮮からの出稼ぎ者が急増したことも大きい。そのあらわれが、関東大震災の際の流言飛語と朝鮮人虐殺だったのである。
その空気を大宮が感じていないはずはない。もし秩父宮が規子と結婚すれば、李王が義兄となる。そんなことは実現するはずはなかった。
だからといって、秩父宮の妃殿下が、規子の従妹、節子というのは衝撃だった。
規子の方がはるかに身分が上である。いや比べることも出来ない。規子は皇族の女王で節子は平民の娘なのだ。規子の方が美しい。やんちゃといっても、女王としてのふるまいを身につけている……。
「節ちゃんを選ぶぐらいなら、どうしてうちの規子を……」
そう栄子に愚痴ってみたかったが、やはりそれは憚かられた。実の母親であっても、到底口に出来ないことであった。
節子の婚儀を前にして、一族の女たちが集まりお別れの会が開かれることとなった。皇族となったら、もう今までのように会うことが出来ないと、栄子が計画したのである。
このあたりも方子の時とは違っていた。
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