「『つれづれなるままに、よふかし』」

女やから何々、男やから何々、そんなものは関係ない。自分がどう思うかや。
その上で他者配慮をできれば、非常に嬉しく思う。

問題は、その配慮が的外れな場合には疎まれうるというところ。
「的外れな配慮」というのを、すでに概念として持っている。
それゆえ、相手の表情や声色、それから体勢。すなわち、所作。あるいは、仕草。
その辺りから、的外れな配慮であったかどうかを見極める必要性は必ず生まれる。

相手が本当に迷惑に思っているかどうかは、往々にして直接教われるものではない。
直接教われるとすれば口にする場合であり……、その答えを断言できるほどのたくましい人物には魅力を覚える。

ただし。
どんなに魅力的な人であっても、必ず欠点は存在する。その欠点は、自覚の有無にかかわらず存在する。
欠点なのか長所なのかは、表裏一体の代物であり。他人から見た欠点は、価値観の転覆により長所と捉えられる可能性もある。

逆もまたしかりであり、かつて認められていた長所が、人の価値観の転覆により欠点として扱われる日が来ることもある。

その辺りのことを考えていると、
「『男とは何か』『女とは何か』『人とは何か』『欠点とは何か』『長所とは何か』」等々、様々に思案を巡らせることになる。




「『私こと増田亮太とは何者か』」
「あるときは哲学者らしき者、またあるときは心理学者まがいの者、あるときは探偵まがいの者、しかしてその実体はなんとやら。『市井に生きる一般人そのもの』に他ならない。」

……というわけで、自己紹介も済んだところで、

きょうのところはひとまずひきあげるでごんす

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