「テッちゃんの思い出(増田の身内筋のお話)」


テッちゃんの訃報は、令和3年の11月に飛んできた。

テッちゃんとは、私の父の従兄である。
祖父がなくなる頃までは、本家との付き合いがまだ希薄ではなく、時折顔を見せに来てもらえていた。
保育所のときに何かの折に我が家へ寄ってもらえたときのことが、非常に印象に強く残っている。

そして、私が8歳になる年の4月に祖父が亡くなり、記憶にある限りでは、このかん令和2年の11月まで。
テッちゃんと出会うことはなかった。
平成29年の8月に祖母の葬儀へ来てくれた可能性もあるが、会って話はできていない。

テッちゃんテッちゃんと読んでいたのは小学生の頃までで、令和2年の秋に本家へ挨拶に寄らせてもらった際には、きちんとお名前で呼んでいる。
そのぐらいの、分別はある。


父との会話の中で話に出す際には、テッちゃんテッちゃんと、今でもそのように呼ぶわけだが。


母方の身内筋(とそれから父方では祖母の身内筋と)との付き合いが長かったので、テッちゃんの筋の"はとこ"には、まだきちんとお会いしていない。
折を見て、訪ねていきたい。

亡くなる前に、テッちゃんと会えてよかった。


本家筋であるテッちゃんでさえ、増田の筋のことはあまり詳しくないと言っていたから、世代が下ると、過去の出来事は忘れ去られてゆくのだろう。

私も、父方祖父方の曾祖父のことは知らない。

曾祖父の話は、
「わいもなあー、ちいさい時分に、やすきっさんと一緒にゴエモンブロ入っとった記憶はあんのや。それぐらいやなあー。」
……というのを、父から時折耳にする程度である。


亡くなって数日後に我が家へ訃報が飛んできて、私は、そして父も。
テッちゃんの葬儀には参列できなかった。
そして私は、父と違って未だに仏前へお参りもできていない。

直接の面識があるからといって、父方の本家である以上は、まず父が先行するのが一般常識だろう。それを差し置いて行くのは、おかしな話である。ましてや、亡くなってすぐの時期では。

それが理由で、訃報が飛んできた翌日が休日であったので、私も本来ならこの日に仏前へ行きたかったのだが、この日は父の予定が合わなかった。それで、ずるずると今、令和4年の4月21日になってしまっている。


令和2年の秋にテッちゃんのところへ行った際にも、当然、父に対し、

「今度、テッちゃんとこ行ってくるわ。おじいちゃん亡くなってしもてから、挨拶回りは途絶えてしもてるし、テッちゃん今でもういくつンなった?俺、その辺含めていーっこも知らんねん。いっこも。」
的なことを伝えてからにしている。

だから、本当に、最後に会えてよかった。


「人と最後に会うのがいつになるかは誰にも分からん。その覚悟が、お前にはあったか?」
というのは、誰かの訃報が飛んでこなくても、ずっともう、頭にある。

それもあって、「人生経験を重ねてようやくその一端を認識した『誰かを想う気持ちの真髄』というもの」が、令和3年を過ぎた今では非常によく分かる。

今度、絶対に仏前へ手を合わせに行く。
うちのおじいちゃんの代から、お世話になっておるのでな。
うちに庭があった時分のことを知ってる人やし、その時分からお世話になってる。
もう、あれから20年以上になる。


ところで。
テッちゃんに限らずの話だが、
「人の呼び方を変えるときは、関係性が変わるタイミングである。」
「関係性が変わったときには、絶対に人の呼び方は変わっている。」
というのを、持論のひとつにしている。
そうでないなら、「身内を対外的に呼ぶ場合」である。たとえば、日頃は両親のことをお父さんお母さんと呼んでいる人物が、父や母と呼ぶような場合が、それに当たる。

話が変わってしまうので、これは、次の記事に載せる。



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