「『人の呼び方』の話」
「人の呼び方を変えるときは、関係性が変わるタイミングである。」
「関係性が多少なりとも変わったときには、絶対に人の呼び方は変わっている。」
というのを、持論のひとつにしている。
そうでないなら、「身内を対外的に呼ぶ場合」である。
たとえば、日頃は両親のことを「お父さん・お母さん」と呼んでいる人物が、「父・母」と呼ぶような場合が、それに当たる。
「ええか、おさん。うちにはな、パパとかママとかは、おれへんねん。お父さんとお母さんしかおれへんねん。」
と、父から言われて育っている。
(※私が保育所の頃から、父は、私のことを『おさん』ないしは『おっさん』と呼ぶ。未だに、下の名前で呼ばれることは稀である。呼び名なしで会話が始まることも、
多々ある。『おじさん』から来るものではなく、おそらくは『奥の方』から来る婉曲表現に由来するかと思われる。)
現代日本語の、人の呼び方には、
「まるまるくん(くん付け)」
「まるまるさん(さん付け)」
「まるまるちゃん(ちゃん付け)」
「まるまる(呼び捨て)」
「あだ名(ニックネーム)」
「上の名前(名字)」
「下の名前(諱)」
……等々がある。
私は、あまり下の名前で呼ばれることがない。そのために、下の名前を呼び捨てで呼んでくれる子は把握できている。
むしろ、他者が私をどのように呼ぶかというの自体を、把握している。
さん付けで呼ばれることも増えたが、男であるために、くん付けで呼ばれることも多く、呼び捨てで呼ばれることも当然ある。
一貫して、さん付けで呼んでくれる人もあれば、さん付けで初めは呼んでいた人たちが、どこかの時点から、くん付けに様変わりしてくれていたり。
あるいは、呼び捨てで呼んでくれるようになったり。
「増田の兄ちゃん(アンちゃん)」的なあれか、もしくは「私の妹の兄貴、すなわち増田の兄貴」的なあれから、「マスニイ」と呼ばれることすら、ある。
これについては、今の所属先限定ではあるが。
慣れへん呼び名やさかい初めは面食らいましてんや
あとは、自分自身の呼び名についても。
男性なら、かしこまりまくった場面では、「私(『わたし』、もしくは『わたくし』)」を使うはずだが、職務上は、「僕」を使うのが一般的だろうか。
距離感次第では、地を出して「俺」になるかもしれないが。
あるいは「自分は、自分は、」と言うかもしれない。
考えてみれば、人の呼び名というのは変容しうるが、一貫して呼び名を変えない人もいる。
今までに出会った人が、私をどのように呼ぶのか、そしてどのように変容してきたのか(あるいは一貫してどの特定の呼び方をしているのか)については、記憶に残っている。
たとえ、連絡先の交換をしておらずとも。
逆に、私が他者についてどのような呼び方をしてきたのか。
これもまた、記憶にある。
私自身、関係性が変わった際か、もしくは価値観の転覆(たとえば『その呼び方ではあまりよくない、あるいはそれでは支障が出る』などと思案した場合)の際には。
そうした場合には、呼び方を変えている。
例を挙げるなら。
先輩であるからと、年下の男性でもさん付けで呼んでいる場合や、わずかに年上の男性であるからとさん付けで呼んでいる場合。
これらを、くん付けに変える際には、必ず自分自身の中で何かしらが変わっている。
と、そのように考えている。
その何かしらとは、価値観に他ならない。
価値観(思考)が変わって、行動が変わっているのである。
冗談を飛ばせる間柄(=それが冗談であるという共通認識を持たれている場面)の場合には、女性に対して冗談めかして「まるまるさん」やとか「まるまるねーさん」やとか呼ぶことも稀にするが()
それを思って、私が、下の名前を呼び捨てにしている人を挙げていって気がついたことだが、男ならともかく、女でそれは非常に限られる。
いとこや姪、そしてきょうだいなどの身内筋か、あるいは。
甥姪については、姉の夫がいる前では、くん付けちゃん付けで呼ぶことにしている。
いとこについては、1つ下で向こうが呼び捨てで呼んでくるので私からも呼び捨てにしたり。
そんな風に、人の呼び方ひとつ挙げても、関係性が見えてくる。
私の名字である「増田」について言えば、人によって3通りの呼び方をしてくる。
「『魚(京阪神アクセント)』とおんなじやつ」
「『ミスド(京阪神アクセント)』とおんなじやつ」
「『灯油(京阪神アクセント)』とおんなじやつ」
……の3通りである。
これに、くん付け・さん付けの違いでも、アクセントが変わってきたりする。
さん付けなら大抵、「『業者さん(京阪神アクセント)』とおんなじやつ」になるが……。
くん付けと同じく、3つに分かれうる。
それが、
「『なつみかん(京阪神アクセント)』とおんなじやつ」
「『わらびもち(京阪神アクセント)』とおんなじやつ」
「『ももたろう(京阪神アクセント)』とおんなじやつ」
である。
私は、通常は「俺」を使うが、職務上は「僕」を使うし、「わたくし」を使っている。自然と、「わたし」をあまり使わないようになった。
数年前は、それが、
「通常は『俺』で、職務上は『僕』であり、『わたし』を用いることはあるが『わたくし』を使うことはあまりない。」
であったことから、当時と比較して変わった部分があることを認識している。
漢字で「私」と書いてあっても、どちらの読みなのかは、なかなか判明しない。
フリガナがあって初めてその辺りが伝わるのである。
それを思って意図的に、ひらがなで「わたくし」と表記することも結構ある。
話をする際には、なるべく名前を呼ぶようにしている。
それを、「『時点→理由→対処』の反復」によって説明するなら、次のようになる。
それはいつからか。
「昔から。4歳5歳の頃から。『他(あるいは他者)』を認識するために呼んでいた。」
その理由はなぜか。
「どんな人にも親そして名付け親がいるから。親イコール名付け親であることが多いが。そして、名前は大事にせんなんと思っているから。どんなものにも名前があるし、。」
だから、その対処として、
「話をする際には、なるべく名前を付け加えるようにしている。」
というわけなのである。
さらに言うなら、
「話をする際には自他ともに共通認識があるとは限らないのを理由に、なるべく具体的に話す癖が私にはある(主客を明らかにしたいという欲求)」という思考の癖そのものでもある。
(逆に言えば『共通認識があると分かっている場合は、極端に抽象化して話す場合が多々ある』でもあることに、今[2022_0422_0031]、気がついた。)
だから冗談を飛ばすときには本当に気をつけようと、身の引き締まる思いがする。
「『時点→理由→対処』の反復」について、
理由は、いくらでも挙げられる。
しかし、時点だけは、「昔から。」である。それゆえ、今回の話の場合には。
「自分の中で覚えている範囲での『喋っていた最古の記憶』の時点」が、その答えになってくる。
それが、4歳5歳の頃というわけである。
最古の記憶は、確かに2歳のときのことだが、喋り初めた自覚は、4歳5歳の頃になって初めて出てきた。
……。
毎日、こうして様々に考える。
人の呼び方ひとつとっても、思うところがこれだけある。
日々、試行錯誤している。
日々、考えを巡らせている。
そやさかい、負けへん。
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ハラホラサッサー
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