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『ダンケルク』より|商船のシーンを心理学で読み解く

乗員ひとりを船から降ろして他の全員が助かるか、全員が乗ったまま船を沈没させるか。『ダンケルク』では、主人公のトミーが仲間から究極の選択を迫られる。

「大勢を助けるためなら一人を犠牲にしても良いか?」という倫理的なジレンマを問うこの二択は、イギリスの哲学者フィリッパ・ルース・フットが提起した倫理の思考実験「トロッコ問題」を彷彿とさせる。人間の道徳やモラル、良心や理性など、社会心理学的な観点としても非常に興味深い描写である。ノーラン監替は主人公の葛藤を描く要素として、命の選択を迫るトロッコ問題を脚本に取り入れている。

トロッコ問題が提示する「少数の犠牲か多数の利益か」という極端な選択状況は哲学的なジレンマとして有名だが、実際に現実でも類似した状況が発生している。
チェルノブイリ原発事故の作業員は、自らが高濃度の放射線を浴びることで周囲の地域やより多くの人々を守る選択をした。また「ハドソン川の奇跡」と呼ばれるUSエアウェイズ1549便の不時着水事故では、航空機のエンジンがバードストライクにより破損した際、機長は都市部への墜落を防ぐため空港への緊急着陸ではなくハドソン川への着水を選択し、結果的に乗客全員が助かった。この際、後に行われたフライトシミュレートでは、エンジン停止後に機長が空港に引き返す選択をしていた場合は、空港での緊急着陸はおろか市街地に墜落していた可能性もあったという。
少数の犠牲を許容してでも多数を救うことを決断する状況の正しさについては、現代でも心理学者や哲学者、倫理学者、法律家、政治家、教育者など様々な分野の専門家の間で議論されている。

商船のシーンでは、このトロッコ問題の他に大まかに三つの心理現象が確認できる。パニック、同調、リスキーシフトだ。以下それぞれの特徴や起こりやすい状況をまとめた。

パニック:突然の恐怖や混乱によって冷静な思考が妨げられ、衝動的かつ非合理的な行動を取る状態。生命や財産に対して切迫した危機が迫っている状況で、危機からの脱出ルートが限定されている、もしくは閉ざされようとしている場合に起こりやすい。(例:地震や火災などの突然の災害、パンデミックや感染症の拡大による社会的混乱、株式市場の暴落による急激な経済危機など)

同調:他者に拒絶されたくない、あるいは受け入れられたいという社会的欲求。また何かを判断するとき、多数派の意見や行動に自分を合わせようとする傾向。明らかに間違った選択肢でも、他の全員が同じ意見を表明するとそれに大きく影響されてしまう。更に、普段一人のときには絶対にやらないようなことでも群衆になると周囲に影響されてやってしまう現象を「群衆心理」と呼ぶ。

リスキーシフト:集団で話し合うと一人で決めるときより「報酬は高いが、危険性も高くなる」選択肢を選びやすくなる現象。集団極性化現象の一つで、集団浅慮(グループシンク)とも呼ばれる。一見、集団で話し合ったほうが公平な判断ができるようにも思えるが、実際には危険でリスクの高い選択肢を選びやすくなる。興奮や楽観主義が動機になることもある。

これらはいずれも集団や社会的状況で発生する現象だ。共通点としては個人の意思決定や行動が集団に影響を与えること、また感情が大きな役割を果たし、合理的な思考が阻害されることである。

同調が起こりやすくなる要因の一つとして「集団疑集性」が挙げられる。これは個人と集団の結び付きの強さを意味する言葉で、メンバー同士の絆が強い集団ほど「グループの結束を乱したくない」という心理が働き、結果的に同調も起こりやすくなる傾向を指す。

例えばスポーツチームが試合に勝つために団結する、ソフトウェア開発チームが締切に間に合わせるために分担作業を行い進捗を報告し合うなどが形成要因として挙げられる。これらにはポジティブな効果とネガティブな効果があり、ポジティブな効果としては高い生産性やメンバー間の感情的な繋がりの強化、ネガティブな効果としては先述の同調圧力や集団浅慮、外部との対立などがある。

商船のシーンではアレックスが「俺たちは同じ連隊だ」と主張して仲間の結束を強めようとしたことで集団疑集性が高まり、同調が起こったと考えられる。

また強い怒りや不安を感じたとき、相手を攻撃する場合と情動を抑える場合の違いとして「攻撃手掛かり」の有無が重要な決定要素であるとされる。攻撃手掛かりとは攻撃行動を起こすきっかけとなるアイテムを指し、商船のシーンでは銃が攻撃手掛かりとなっている。銃を見ると攻撃を連想し、怒りの解消手段としての攻撃のイメージが膨らみ、攻撃行動が促進されるのだ。
生命の危機が迫った状態で集団疑集性による同調が起こり、更に攻撃手掛かりによって攻撃性が高まり、危険性とリスクの高い選択肢を選ぶ。

アレックスが属するハイランダーズの行動は決して肯定されるものではないが、危機的状況に置かれた人間として、また社会心理学的な観点でも非常に納得のいくモデルであると言える。
例え自分たちが助かるためでも他者の命を犠牲にはしたくないというトミーの考えは、人間の善性と高い理性の証だ。
この商船のシーンには人間が持つ倫理観や共感性、善性、他者を思いやり信じることの重要性がメッセージとして込められている。『ダークナイト』や『オッペンハイマー』にも共通しているが、人間が何を信じ、何を善とし、犠牲者が出る中で残った者がどう生きていくかというテーマは、ノーラン監督が我々に残した大きな課題かもしれない。