こどもの“やりたい”に付き合うのって、けっこう難しい。
「こどもの“やってみたい”っておもしろい。」を
HoiClueのタグラインに掲げているわたしですが…
先週、「やりたい!」を楽しんでいる息子を、自分でも驚くほど冷ややかな目で見てしまい、さいごには嫌味まで言ってしまうという出来事が。
(ちなみに、その時の息子の「やりたい!」は、外の広場に寝そべってゴロゴロ転がりまくる、というだけのことだった)
他の子も遊んでいるその広場でゴロゴロ転がりまくりたい息子の気持ちも理解できるし、その時、特に時間の制約があったわけでもないのに、なぜ息子の「やりたい!」を素直に受け入れられなかったのか。
ゴミがついて汚くなったら洗えばいいじゃん、いつもだったら気にしないじゃん、と頭ではわかっているのに、なぜ苛々してしまったのか。
「こどもの“やってみたい”」が、いかに大切かを日々力説しているのに、
です。
ナゾです。
あの時の自分の姿を思い出すとちょっと落ち込みそうになるくらいなのですが、少し間を置いてみえてきた、あの時の彼の「やりたい!」をわたしが受け入れられなかった理由が2つ。
・息子の「やりたい!」の前後に、わたしの「やりたい!」と思っていたことがあった。
・息子の「やりたい!」のために、わたしの「やりたい!」と思っていたことは諦めざるを得なくなった。
ざっくり言えば、
「わたしもやりたいことがあったのに、あなたのせいでそれができなかった!」という、なんていうか、ひどく単純な理由。
思い通りにいく、なんて保証がないことは百も承知のはずなのに!
あぁ…(反省、再び)
でも。
「やりたい」と「やりたい」がぶつかることって、たぶん、大人と子どもの関係のみならず、大人と大人の間でも、子どもと子どもの間でも、日常にたくさん溢れていて。
ぶつかることで相手を知ったり、いろんな考えやものの見方があることに気づいたり、その上でじゃぁどうしたら良いんだろうかと考えたり、折り合いつけたり、諦めたり、バランスとったりして日々生きているのだとしたら、今回のことはある意味自然な出来事なのかもなぁ、と思ったりもするのです。
後から気づく、彼のやりたかった「外に寝転がってゴロゴロ」は好奇心や冒険心にとんだ本能的なことで、わたしがやりたかったことは用事を済ますというタスク的なことだったという違いや、コントロールのしやすさでいけばわたしがどうにかできれば良かったのだよな、といった反省もまた、ぶつかってみたからこそ気付けたこと。
こどもの、“やってみたい”、“やりたい!”
そしてそれらとの向き合い方、付き合い方。
まだまだ奥が深そうです。
(お風呂場で見つけた、息子の“やってみたい”のあそび跡)
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