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「私を超えて」の発想〜学び。京都にて〜

こんにちは。あきです。

きょうは朝から京都にて学びの場へ行き、新幹線の終電で東京へ戻りました。

たまに京都に日帰りで行くのは良いですね。土地の感じが違うので違うエネルギーと空気に触れて感覚が変化します。

今日得た学びは「私を超えて」というものが印象的でした。

何かに取り組む時に、「私」を忘れる。

「私」ではなく、目の前の誰かだったり、多くの誰かだったりに目を向ける。

その目の前の誰かや、多くの誰かに対して、どういうことを差し出して行けるのか?

そういう視点でした。

自己犠牲志向の人は注意な視点です。でも、ここでは自分が犠牲になるとか、自分を欠くということは必要なくて。

「私がどうしたい、こうしたい」という発想からスタートするのではなく、

「誰に(あるいは多くの誰かに)対して何を?」というスタートライン、

そこから、さて「私はどういう関係性」をつくっていくのか?

ということです。


志向性の発端が相手であり、その相手にとって何がベストか?という問いから始まるので、

今の自分からの始点ではないので、「今の私という枠」を超えた理想のものを描けますね。

現実は考えたもの以上にはならない。

考えることを現実的にスケールダウンしてしまうのならば、実際の現実化はそこからさらにスケールダウンした物になります。

考える段階から理想を、ベストを描く。
そこから、現実化の手法は自ずと決まっていく。
その方が、本来の意図が現実化しやすいでしょうね。

ポイントは、理想を夢想ではなく、クリアに確信的に描けるか?
クリアに確信的に描けるということは、現実化の手法が現段階で明瞭に分かっていなくても道はあるからです。

「私」は理想を現実化させる手法の実行者として、その理想の現実化に関わるのみです。

というようなことを京都の学びから考えました。
他にもあるので、それもシェアできたらと思います。

きょうもお読みいただき、ありがとうございます。

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