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人生ログ②


お疲れ様です🐐

前回に引き続き、人生ログです。


前回の投稿から期間があいてしまった理由は本稿の文字数にあります。

読み始める前にこの後のスケジュール確認するんだょ!



前回の記事を読まれていない方は是非こちらを↓



では続きいってみよう☆



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大学1年生

晴れて高知大学に入学。ピカピカの1年生です。
初めての県外での一人暮らしです。入学式で一緒に高知に来ていた母親とお別れをして、まだ慣れない1Kの部屋に一人取り残され、ただならぬ虚無感に苛まれていました。めちゃくちゃ寂しかった😿

だがしかーし、当時ESTPの私です。すぐに友達ができました。ダンスサークルの新歓にも友達を巻き込んでみんなで行きました。入部したい子は言ってねーと先輩が言っていて、逆に、もう入っていいんすか?という感じでした。秒で入りました。
それに加え、学部の集まりにも積極的に参加してました。(人が集まってたら吸い寄せられるように行ってる)2年生の先輩方が私たち新入生のために飲み会やBBQ、合宿等を計画してくれるのです。この制度、伝統らしくて毎年有志で集まった2年生(組織名:オリター)が1年生にやってあげるんだって。素晴らしい制度だ。もちろん助かったしめちゃくちゃ楽しかった。
さらに先輩の紹介で、大学近くの個人経営の居酒屋のバイトを始めました。

皆様お察しの通り、勉強なんてするわけがありませんでした。

授業中は寝るかパズドラたまにヤニカス勢とタバコ休憩、出席取らない授業は行く意味がないので行かない、友達にコメントシートを代筆してもらう、欠席数ギリギリまで攻める、みたいなことをしていました。私の本来の勉強に対する姿勢はこれなんですね。

当時、私のダンスのジャンルについてですが、今までジャンルという概念が無いままやってきたので大学に入って、どのジャンルやりたいの?って聞かれて、アワワ…ヒ、ヒップホップデス…みたいな感じでした。元々習っていたところが若干ヒップホップっぽかったのでとりあえずヒップホップやろうかなと。あと、元々ポップにも興味あったんですが、先輩にポッパーがいなくて(いたけど全然サークル来てなかった)諦めてなぜかロックを始めました。
そして私は、たまにヒップホップ踊るロッカーになってしまいましたwww(今考えるとおもろすぎる)
お陰様で初めてのバトルはロックで出て見事爆死しました。

学部の方では同期より先輩とバリ仲良くなり、たくさん飲みや遊びに連れて行ってもらってました。カモ授業もテストの過去問もたくさん教えてもらいました。私は末っ子なのもあってか、バリ先輩っ子なのです。
そして大学生活始まって数か月しか経っていないのにもかかわらず、かっこいい人・怖そうな人・酒豪そうな人の3つの部門で1位を獲得しました。オリター企画であったんですよ。みんなにアンケート取って集計して1位取ったやつに飲ます、みたいな。まさに大学生ですね。

毛先をピンクにしていたスーパーロング大1わし



1年生後半に差し掛かりました。

私がJKの時、いいなぁ~と思いながら見ていた学祭のイベントについに自分が出る時が来ました。もちろん、ロッククルーとヒップホップクルーに出ました。
学祭は1年で最も大規模なイベントなので先輩達もそれなりに張り切っているわけです。練習も、基本はワイワイ楽しくやってるんですが、厳しく言われる時もありました。でもそのたまにあるピリついた雰囲気も今となってはガチ青春☆って感じで良い思い出です。

当時の私のライフスタイルはというと、朝昼大学→夕方バイト→深夜まで練習→朝寝坊して授業飛ぶ、みたいな感じでした。ここらへんから単位を落とすようになっていきます。

この時既に私はダンスサークルの部長の座を狙っていました。(意識が高すぎやしねえか)それがバレたのか偶然なのかENTJ気質を見抜かれたのか定かではないのですが、当時の部長に「まなかは部長になる存在だと思う」的なことを言われて(酔っててあまり覚えてない)ダヨナー!って思いました。いや、普通に嬉しかったし光栄でした。

学祭が終わってすぐ、1年生が初めて自分たちでショーケースを作って発表するイベントがありました。ここでFreiheit爆誕です‼パチパチ
周りはわりと、イベント限りの一回だけのチームっていうのが多かったんですが、私は、同じく経験者でヒップホップをしているENFJの相方と二人で「ずっと続けようね(ズッ友だょ)」という約束の基、Freiheit(フライハイト)というチームを結成することを決めました。社会人になった今でも活動中です。
その他にも2つチームを組みました。(やりすぎ)
1つ目は、ポップのチームです!やったー!やっとポップできる!先述した、全然サークルに来ないポッパーの先輩とその他ポップに興味がある1年生で組みました。
2つ目は、ロックのチームです。同学年でロックやりたいやつ全員集合チーム(ほぼクルー)でした。

そこから私はどんどんポップにのめりこみ、ヒップホップ・ポップ・ロックの3ジャンルをやっていくことになります。(だからやりすぎ)

このイベントが終わったタイミングで、全然サークルに来ないポッパーの先輩と付き合い始めました。(誰もわからないと踏んで公表してる)(わかってもいいか別に)でもこの恋愛は完全にノリと勢いで、THE・大学生のような恋愛でした。今となってはどこに惹かれたのかさっぱりなわけです。(おそらく彼もそう思っているはず)案の定、一瞬で別れました。

学部の方では、そろそろオリターメンバーを決めなければいけない時期です。2年生が近づくと同時にオリターやるの?やらないの?どっちなんだいッ!という話題がよく上がりました。
もちろん私はやるに決まっていました。先輩方にはたくさんお世話してもらったのでそれを後輩に返していくことが私の義務であると悟っていたのです。また、後輩のためとは言え、我々も絶対楽しめると確信していたからです。大人数集まってワイワイ系は大好物だと何度も言っている。
ある程度オリターメンバーが決まってきて、次はリーダー(責オリ)、副リーダー(副オリ)を決めます。ここで恒例の「どうせまなかがやるっしょ」という雰囲気が出来上がっていました。加えて私は、責オリにふさわしいやつ私しかおらんだろ、と思っていたので(笑)すんなりと責オリになれたわけなのです。

そして年末頃に居酒屋バイトをやめましたwwww
理由はマスターが老害ジジイだったからです。
お店は個人経営で小さく狭いので、マスターとバイト、常時二人きりで店を回していました。マスターは私のことを気に入らなかったのか、忙しい時や逆にお客さんが全然来ない時に理不尽に当たってくるようになりました。私も負けじとちょっぴり反抗的な態度を取って、怒られても自分は悪くないと思えば意地でも謝りませんでした。完全に犬猿の仲でした。ジジイと女子大生が。
気が付けばバイト=ストレスになってしまったので後釜を探すことなくやめてやりました。ザマア味噌汁でした。

毛先を青色にしてみたが色落ち過程の色がキショすぎてドブ色と馬鹿にされていた大1わし



大学2年生

さあ忙しい上に楽しい時期です。
4月から7月にかけてサークルもオリターもイベント盛り沢山なわけです。

オリター活動の方では、責オリとしてみんなを取りまとめ、新入生と分け隔てなく仲良くしてました。一年前にあったランキングのやつですが、今回はかっこいい人・酒豪そうな人で見事1位を獲得しました。
もうお気づきの方もいると思いますが、怖そうな人部門で1位を取っていません。今回は私ではなく、パッと見怖くないけど腹黒そうな女の子が1位でした。怖いのベクトルが変わっていました。結果発表の時めちゃくちゃ気まずかったのを覚えています。

そして友達の紹介で居酒屋バイトを始めました。(また居酒屋かよ)
今度は街にあるちゃんと株式会社で(笑)従業員数も大勢いるところです。基本的にみんな優しくてノリが良い陽キャの集まりって感じでした。まず髪色ピアスネイル自由だし、お酒飲みながら働いて良いし、お客さんで友達呼んだらぺちゃくちゃ喋れるし、タバコ休憩あるし、まかない美味しいし、控えめに言って最高でした。バイト初日の帰りにみんなで焼肉行ったのめっちゃ覚えてます。

サークルの方では、ポッパーが急増し派閥ができ始めます。
心配しないでいただきたいんですが、人間関係が悪化したとかじゃなく、ポップのスタイルの好みの違いによる分裂でした。ダンスってたくさんジャンルがある上にみんなそれぞれ個性があるので好みが分かれやすいのです。
この頃から私はサークルではポップを積極的にやらなくなりました。その代わりに、サークルとは別にポップのレッスンに通い始めます。私と同様にサークルでポップを積極的にやらなくなった2人の男の子と一緒に通い始めました。ちなみに今も3人とも通っています。

さて、1年前にロック踊って爆死したバトルイベントですが、ヒップホップでリベンジし、なんと準優勝することができました。ランダムで勝手に二人組のチームを組まれるんですが、私と組まされた県外の美人な先輩に完全にキャリーしていただいたわけなんです。優勝したいとか負けたくないとかそんなことよりとにかく、先輩の足を引っ張ってはダメだ!と思いながら必死に踊っていました。(笑)

髪を切って無事イケメン枠を獲得した大2わし



そんなこんなで学祭の時期になり、毎年学祭が終わるタイミングで3年生から2年生へ幹部交代があります。
ついにこの時が来ました。
我々のサークルは先輩からの指名制ではなく、自分たちの学年で話し合って部長・副部長を決めます。練習の前に夜にみんなで集まって話し合いをしました。ここで恒例の「どうせまなかがやるっしょ」という雰囲気はあまり生まれませんでした。なぜならもう一人部長にふさわしいライバルがいたのです。

そのライバルは、私の相方でした。

彼女はENFJで、純粋・平和・思いやりという言葉がぴったりな女の子です。
対し私は、理論・効率・無慈悲です。(絶対やめとけ)しかし、同期のみんなは、どっちが部長になっても上手くいくと思うし、ついていきたいと、言ってくれました。
結局相方が譲ってくれ、「まなかが部長のサークルを見てみたい」と、言ってくれたのです。やさちすぎるょ。。。正直私は自分が部長になって上手くいかないわけがないと自負していました。1年生の時からサークルのイベントには欠かさず参加し、幹部の先輩達と親睦を深め、サークルの中身や幹部の動向などを観察していました。つまり、部長をやるつもりで普段から予習をしていたわけなんです。
加えて、同期のみんな(圧倒的F型)仲が良く、思いやりと協調性のある人ばかりで、この同期たちが支えてくれるなら絶対上手くいくと、自信がありました。

そして晴れて部長になれたわけです。相方は副部長になりました。(絶対的権力Freiheit)

ちなみにこの年末頃にサークルの同期(ENFP)と付き合い始めました。
9月から12月にかけて練習三昧だったし彼とは一緒のチームで踊ることが多かったので、単に一緒にいる時間が多すぎて仲良くなり過ぎた感じです。この後どうせ一緒に練習なんだから晩飯食いに行こうぜ?みたいな。当時、まだ車を持っていなかったので二人してチャリを漕いで長距離を往復してました。練習が終わった深夜、よく帰りにマックに寄ってハンバーガーを貪り食いながらサークルの愚痴を聞いてもらっていました。
今思えば彼の共感能力は凄まじく高く、心の支えになっていたのは間違いありません。ありがとう。

よっしゃこっからENTJまなちょりん部長が無双しちゃうぞォと思ったのも束の間、我々が3年に上がる間近のタイミングで新型コロナウイルスが流行り始めました。
計画していたイベントも縮小開催、または中止となり、開催できるかもわからないイベントを計画・練習する日々でした。コロナに怯えながらごくわずかな希望に期待し練習を続けていましたが、状況はどんどん悪化していき、サークル活動禁止、授業は完全オンライン、バイト先も休業、不要不急の外出は控える。


絶望でした。

時間が止まっているようでした。


疲労とストレスにより帯状疱疹というものになりました。痛みと痒みで眠れない日が続きました。
最悪でした。



コロナ前最後のサークルイベントで自分のパソコンのパスワードを書いた紙を大公表する大2わし



大学3年生

完全に生きる気力を無くした私は、実家の岡山に帰りました。友達に会えない、大学はオンライン授業、バイトもサークルもレッスンもないので、高知にいる意味が無かったのです。

だがしかーし、ずっとクヨクヨしているはずがないENTJ-Aの私です。せっかく部長になったんだから私なりにできることを模索しました。
SNSで新入生を募ってzoomで説明会をするオンライン新歓やSNSにひたすら動画をアップする等、できることはやりました。

オンライン新歓で新入生に笑顔を強要する部長大3わし


しかし、やはり活動は制限されたままです。せっかく入ってくれた新入生に過去のショーケースの動画を見せることしかできず、悔しい思いをしたしさせてしまいました。
加えて、授業はオンラインになった分、以前より課題が増えました。以前は講義に出て出席シートに名前を書いて提出するだけで良かったのが、動画や資料を見て〇〇字以上のミニレポートを毎授業提出するというクソめんどくさい仕様になりました。


私は、友達と会えないし大好きなダンスもできないのになぜやりたくないことだけしなければいけないのだろうと、私はこれから何を生きがいにすればいいのだろうと、終わりの見えない自粛生活により珍しく病みそうでした。
当時の私は、実家でトドのようにゴロゴロ、呼吸と同じペースでゲーム、外出は姉の大学とバイトの送迎、車出してポケモンGOをするくらいで、ほぼ脳死状態で社会のゴミみたいな生活をしていました。

本当にゴミみたいな遊びしかしていなかったスプラトゥーン2



ある程度月日が経ち、世の中ではコロナによる規制が緩和され始めました。
大学でもコロナ対策を徹底することを条件にサークル活動・イベント開催OKみたいな感じになってきました。私はやっとみんなに会える!ダンスできる!と思い、高知に戻りました。
しかしそれも県内感染者数の増減やクラスターの有無等で状況が急変することがありました。練習してきたのに直前になってイベント中止とかしばしばあったので悔しいことこの上なかったです。サークル活動が再開できたと思えば、また禁止になり、また解除され、また禁止になる、という状況がイヤになり、全てを投げ出してまた岡山に帰りました。(笑)

ちなみにサークル同期のENFP彼氏とは夏にお別れをしました。
私が一方的に冷め、一方的に別れを告げました。(n回目)当時は、すんなり別れられて良かった~すっきりンゴ~と思っていましたが、今思えば本当に酷なことをしたなとしみじみ思います。
この別れを機に私は彼氏を作ることをやめました。だって自由に生きたいし、どうしても傷付けてしまうもん!私と付き合った人は皆不幸になるんだと思いました。まあ私自身は恋愛しないでも全然充実してたので。(ENTJあるある)


そして私はまた半グレ小僧に返り咲きます。(誇らしげに言うな)

ダンス熱は劇的に冷め、高知に戻りたいとは微塵も思いませんでした。
そして私は何をしていたのかと言うと、地元の友達と遊び狂い、飲み狂っていました。先述した通り、規制が緩和されたため、飲食店やその他娯楽施設が通常通り営業し始めました。飲みに行って朝帰り、帰ってきたと思ったら夕方まで寝る、夜になればまた外出、飲み屋・クラブ・カラオケ、行きまくりました。もちろん授業を受ける暇なんてないし、課題を提出する気力もほとんどありませんでした。そりゃあ、単位を落としまくります。
母親はコロナのことを気にして私の外出の頻度の高さを注意してきましたが、こちとら半グレ小僧返り咲きネキです。言うことを聞くわけがありません。

その間、高知では私の通っているクラスがイベントの出演オファーをいただいたり、私も出るはずだった発表会が開催されたりと、ちょくちょくイベントも復活してきた模様です。「まなかは出ないの?」と何度か聞かれることもありましたが、私はめんどくさいと思ってお断りし、岡山でずっと遊び狂っていました。(本当どうしようもないやつだ)


マスク必須だったコロナ禍クラブ



さて、あっという間に10月になり、今度こそ本格的にサークルでイベントを開催することになりました。全然ノリ気じゃなかったんですが、さすがに部長という立場なので高知に戻りました。
サークルとしてはほぼ1年ぶりのイベント、我々幹部もほぼ1年ぶりの運営、1年生は初めてのステージ、というのもあり、やる気を湧き立たせるしかありませんでした。まあ私のことです。練習や準備をしていくうちにどんどん前向きになっていくわけですが。
トラブルや改善点は多々ありましたが、久々のイベントは無事成功しました。
Freiheitのショーケースは相方と話し合って、完全新ネタではなく、1曲目は初心に戻って再スタートという意気込みで結成して初めて披露したネタ、2曲目は新ネタ、3曲目はコロナ前にいろんなイベントに引っ張りだこだった全盛期に自他共に評価が高かったネタを組み合わせました。(なんかメッセージ性があってええなあ)(N型が揃うとこういうこともある)

さて、サークル・レッスン・バイトも再開し、飲み会やイベントもある程度できるようになり、私のライフスタイルはやっと軌道に乗り直してきたわけなんですが、


そういえばわし、卒業できる?




他キャンパスのダンス部の卒業イベントに参加し、案の定アウェイになるもなぜかハイテンションな部外者わし



大学4年生

普通の人は、卒業に必要な単位を3年生まででほぼ全て取得し、残りの1年は卒業に向けて卒論や研究に取り掛かるわけですが、私は卒業単位は足りない上に卒論についてはノータッチでした。
というか授業の選び方がわかりませんでした。(致命的)
卒業するにはこのジャンルから何単位、あのジャンルから何単位必要だよ!みたいなややこしいルールがあるんですが、私は今どこの単位が足りなくて何の授業を選べば卒業できるかもさっぱりでした。学部のしっかり者の友達に授業を選んでもらい、落とした時用に必要単位より余分に授業を選択しました。
周りは授業数ゼロ、もしくはたまにしか授業を受けてないのに対し私は後輩に混ざって毎日授業を受けていました。

そして状況はどんどん悪化していきます。
2年の時からずっとお世話になっていたゼミの先生が私が4年になるタイミングで大学を辞めることになりました。ゼミは、最終的に先生と一緒に卒論を仕上げる場であり、我々の卒業はゼミの先生にかかっていると言っても過言ではありません。
私のゼミの先生は前世がマザー・テレサかと疑うほど寛容で穏やかな方でした。ゼミ中に私が居眠りをしていても「また目瞑ってるね、フフ」と微笑するのみ、課題を提出していなかったら「忙しいですか?できますか?」とマシュマロの如く柔らかい表現で催促してくれました。
そんなマザー・テレサ先生が退職され、この先生以外に私を卒業させてくれる先生は存在しないだろうと思っていた私はかなり焦りました。
結局、マザーテレサ先生と同じ分野を専攻している私の母と同じ名前で優しいと噂のおばちゃん先生のゼミに移転しました。
一件落着と思いましたが、


そういえばわし、就活もしてない。


普通の人は(vol.2)3年生の後半からインターンに行ったり合同説明会に行ったりと、就活を始めます。それにより、周りのみんなはどんどん髪色が黒くなっていきました。それに対し私は、4年になるまでずっと茶髪でした。みんなに「就活は?」と聞かれるのも無理ありません。
4年に上がりさすがにやべえと思い、黒髪にしてとりあえず合同説明会に2回ほど行きました。いろんな会社の話を聞きましたが、全部興味ないし何もそそられず、早めに会場を出ましたね。

そんな感じで授業を受けながら就活をしながらでも、サークル内外のダンスイベントに繰り出しまくっていたわけなんですが。
就活中とか卒論期間とかはダンスお休みします!みたいな感じでダンスから離れる人が多数なんですが、私は人生の核がダンスなのでいつでもダンス優先でした。

本当に就活中か疑いたくなる程イベントではしゃぐ大4わし



そして夏、突然バイトを解雇されました。
大丈夫だみんな!安心してくれ!ダンス優先しすぎて出勤日数が少なすぎたとか、バイト中にお喋り・タバコ休憩しすぎたとかが原因でクビになったわけじゃないヨ‼
コロナの影響で経営困難になった結果、お店・会社を守るために社員以外、いわゆるアルバイトは全員解雇という社長の判断でした。実際、休業や時短営業が重なっていたし、周りで潰れる飲食店も結構あったので、ついにうちもか…と案外受け止めていました。
晴れてプー太郎になったわけです☆

日曜に出勤するとまかないとして処分予定の魚をバイトに食わせる神バ先(激ウマ)



さて、就活に関してですが、なんと内定をもらい8月頃に就活は無事終えました。わしやればできるじゃん。
ハローワークやマイナビアプリで自力で見つけた4社に応募し2社から内定を頂きました。(合説行った意味無かった)どっちみち興味ないので職種とか気にせず給料が良い方にしました。それが今勤めている会社です。


4年生後半に差し掛かり、周りはだいたいの人が就活を終え、授業ゼロ、あとは卒論!という状況でした。対し私は、ほぼ毎日授業を受けながら、内定モラッタ-!!ダンスダンスー‼という感じでした。
はい、言うまでもなく未だ卒論ノータッチです。
しかもこの時期に先輩からPS4をもらい、ダンスの予定が無ければ寝る間も惜しんでAPEXに熱中する日々でした。
ちなみに使用キャラは主にレイス、たまにヴァルキリーとかローバ、好きな武器はカービン、マスティフ、G7スカウトとかでした。

10月頃に会社で内定式がありました。
同じく新卒で採用された私含む3人と、会長・社長・常務等が集まります。
理由は忘れましたがこの日私は寝坊しましたwww
早起きして、祝福するかの如く就活終了直後に染めた茶髪を一日限定の専用スプレーで黒髪にして内定式に挑む予定でしたが、見事に寝坊したので、茶髪のまま家を飛び出し車をぶっ飛ばして会社へ向かいました。
開始時刻の3分前に無事到着し、セーフ!と思い車を降りたら入口に人事の女性社員が立っていて私を見つけるなり、「もうみんな揃ってるよ!急いで!」と言われ小走りで部屋に案内されました。部屋に入るとみんな私のためにいいこして待てしてイスにおすわりしてました。
完全にアウトでした。
会社のお偉いさん達に”遅刻した茶髪のやつ”という最悪なファーストインプレッションを与え、内定式が始まりました。
この日、会社から事前課題なるものを受け取りました。(まだ入社してないっちゅーねん!!)ビジネスマナーの基礎みたいな感じのテキストでした。入社日までに仕上げて郵送で提出してくださいとのことでした。


やるわけがありませんでした。


あっという間に年が明け、年始は岡山に帰省して地元の友達と遊びまくっていました。地元の友達にまで「卒論とかちゃんとやってんの?」と聞かれる始末。もちろん、未だノータッチです。(※提出期日まで1か月を切っています。)
なぜか全く焦りを感じない上に、なんとかなるっしょという私特有の謎の自信がありました。

地元の新年会にて卒論ノータッチには到底見えないはしゃぎっぷりのわし



さて、卒論提出期日5日前になりました。
そろそろやるかぁと思い、やっと卒論作成に取り掛かりました。ゼミの先生の専門分野は言語学だったので、私の卒論のテーマは若者言葉がうんちゃらかんちゃらみたいな感じにしました。(あんま覚えてない)
とりあえず目的も定まってない状態でアンケートを作成し、不特定多数の人にアンケートを実施しました。持ち前の人脈と発信力ですぐに集計できました。
そして規定の16000字以上を2日で達成することができました。
私は、規定の文字数を超える、アンケートを実施する、この二つさえ満たしていれば卒論として認められるだろうと思っていました。

完全に甘い考えでした。

卒論ができてすぐにゼミの先生に添削してくださいとメールで送り付け、すぐに返事が返ってきました。
返ってきたメールの内容を要約すると、

「今まで貴様は何をしていたんだ。期限間近になって初めて出されても困るしもう仕上げるのは間に合わないから今回の卒業は諦めて秋にまた頑張れよ。ワイは絶対に、何があっても、一生、添削せんぞォ。」

という内容でした。
優しいと噂だった先生ですが、完全にブチ切れていました。(おそらくこの先生をここまでブチ切れさせたのはこの世で私しかいないであろう。)
そりゃそうなんです。本来なら1年から半年掛けて徐々に書いていき、合間合間で先生に提出し添削してもらい、と、先生と何度もラリーをした上での卒論完成です。私は一度も先生と連絡を取っていませんでした。先生の研究室にも行ったことがありません。先生がブチ切れて私を見捨てるのも無理ありません。

でも私は諦めませんでした。
ゼミの先生は一旦置いといて、ダメ元でも提出するぞ!と意気込み、同じゼミの友達、学部の友達、同じゼミだった先輩、相方、マザーテレサ先生、頼れる人に頼りまくりました。私の周りの人はみんな良い人で、自業自得だろ、と言って見放す人は誰一人としていませんでした。こんなどうしようもない良い加減なやつに協力してくれたみんなには本当に頭が上がりません。
皆様の協力の基、内容に関してはゴミですが完成した卒論を提出しようと期限の日に大学へ行きました。すると同じ学部の人が卒論提出のためにたくさん来ていました。不思議な事に、みんな私の卒論がやばいことを知っていて、会う人会う人に「まなか卒論大丈夫?」みたいなことを言われました。(笑)まじでみんななんで知ってんだよ。

無事卒論を提出し、心から神にお祈りしました。


こんな状況でみんなと同じように卒論持って笑顔で写真を撮れる強メンタルを持つわし



大学生最後のテスト期間も終わり、いよいよ成績発表です。
私が卒業するには、授業の単位を一定数取得、卒論で合格、この二つが必要です。
まず授業の単位ですが、余分に受講していたこともあり必要単位より6単位程多く取れており、卒業の危機に怯えるあまり、オーバーキルをしてしまった模様です。4年後半にもなって後輩達と一緒に授業を受けた甲斐がありました。
続いて本題の卒論です。60点未満であれば不合格となるんですが、私は60点『可』でギリ合格でした。

みんなやったぞーーーー!!!

とりあえず協力してくれたみんなに報告をし、お礼をできる人にはお礼をしました。60点という合格範囲の最下の点数であることとか、どうでもいいのです。私は合格したのです。卒業できるのです。卒業できれば100点も60点も変わりません。


そんなこんなで卒業式です。学部棟の前に設置された卒業の立て看板の前でみんなで写真を撮りました。いろんな人が「卒業できたんだね、おめでとう」と言ってくれましたが、お前らもおめでとうだよ。
そして周りをよく見ると、先生もチラホラ卒業を祝福している姿が見えます。『やべ、わしのゼミの先生も来たらバカ気まずい』と思ったのも束の間、ちゃんと来てくれました。先生の周りにゼミ生が集まっていたので私もしれっと混ざりました。

すると先生は私を見つけるなり、「もしかしてあなたが〇〇(わしの苗字)さん?」と。

認知されてすらなかった。

おもろすぎ。

先生は、ダメ元でも卒業のためにがむしゃらにもがいた私の熱意を受け取ってくれ、情けで合格にしてくれた感じで言ってくれましたが、私には伝わってきました。
『ワイ氏、こんな問題児をもう半年お世話するなんて絶対に無理ンゴ。』と、先生は思ったはずです。

私は先生にしこたま感謝と謝罪をしました。


予想外の先生降臨でバリ気まずそうにするわし




という感じで大学生活は無事終了しました。



が、皆さんお忘れではないでしょうか。

そうです。会社の事前課題をやっていません。


なんと今回は課題をやらずに入社式に挑みました。(やってないけど持って行った)(『持ってきたけどやるの忘れました』)
絶対怒られるわーと思っていたんですが、人事の女性社員は全然怒ってない上に「業務時間内にやっていいよ」と言ってくれ、バリ感謝しながら秒で終わらせました。



そして今、入社して3年目です。早すぎるよな。
仕事のスタイルは、やるべきことは期限までにはやるけど積極性ゼロ、みたいな感じです。さすがに給料を頂いているので学生時代の不真面目さを続けるわけにもいかず、可もなく不可もなくという感じで頑張りすぎずマイペースに頑張っています。

もちろん、今でもずっとダンス馬鹿です。(モチベ下がる時もあるけど)
ヒップホップとポップ、どちらも同じ熱量で頑張っています。(ロックは2年でやめた)
私はダンスをすることに良い意味で義務的なものを感じています。やりたいからやる、じゃなくて、やらなければならない、もしくは、やるしかない、です。私の人生において、ダンスは当たり前の存在なのです。
『ダンスの存在しない私の人生は、ショートケーキのないショートケーキ。』という感じなのです。


ドンキーコング並に腕を振り上げるショーケース中の最新わし




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最後まで読んでくれたあなたには私からのありったけの愛を捧げます。


細かいこともっと色々書きたいなーと思いながら頑張ってこれだけに収めたので許してくだぱい。




ほなまた





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