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自己紹介&人生ログ



お疲れ様です🐬


早いことでもう9月になってしまいましたね。

私がnoteを始めて約2ヵ月経ちました。

なんと週1以上のペースで投稿している。すぎょい。




ということで今回はタイトルにある通り自己紹介しようと思います。

そういえばちゃんとしてなかったなと思って。

めっちゃ今更なんですけど。


私のプロフィールふざけすぎているので。(でもあながち間違ってない)



ついでに私の人生について書いてみようと思います。
めちゃくちゃ長いよーん。



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高知県で働きながら趣味でダンスしています、まなかといいます。

2000年生まれだけど早生まれなので世代的には99世代です。誕生日は3月13日で、血液型は意外とA型です。(よくBとかOとか言われる)
何度も言うようで申し訳ないですが、ENTJ-Aです。
パーソナルカラーはブルベ冬で骨格はおそらくウェーブです。


仕事は卸売業の会社で事務的なことをしています。
毎日デスクに縛り付けられてパソコンと向き合っています。

週末はだいたい夜の街に繰り出して飲み歩いたりクラブで踊り狂ったりしています。月1~2ペースでダンスのイベントがあって練習をしなきゃいけないのに加えて、ありがたいことに友達が多いです。つまり、プライベートが充実しすぎています。基本的に忙しいので丸1日オフ!っていうのがあまりないです。
ISFJ-Tの年下彼氏と半同棲状態です。一度別れましたが私もちゃんと人間だったので寂しくなってよりを戻しました。上手くいってると信じよう。


【好きなもの】
ダンス:ジャンルはHip-hopとPOPを頑張っています。
音楽:ヒップホップばっかり聴くけど意外と色々好きです。V系とかK-POP(昔)とか無難にJ-POPとか。
お笑い:金属バットを生で見るのが小さい夢。最近は粗品のYouTubeを見ることから1日が始まる。
車:RAV4乗ってるけどかっこいい車はなんでも好きです。
ゲーム:APEX、COD、スマブラ(練習中)、パズドラ、モンスト、その他クソゲー
アニメ:NARUTO、NANA、最近では葬送のフリーレン、メイドインアビスがおもしろかったな

踊っている時のわし(右はENFJの相方)


誕生

岡山県で三姉妹の末っ子として生まれ育ちました。

THE・お母さんな母親(ESFJ)と女に囲まれて権力がほとんど無い父親(予想:ISFP or INFP)としっかり者の長女(ISFJ)と引っ込み思案な次女(ISFP)とバチクソ問題児の末っ子(ENTJ)です。チワワとヨークシャのミックスのラッキーくん(ISTPっぽい)を昔飼っていましたが亡くなってしまい、今はチワワとダックスのミックスのむぎちゃん(ENFPっぽい)を飼っています。

むぎちゃん



幼少期は、人に向かって変顔しまくったり、何かと自分で選びたがったり、くっそわがままで甘えん坊で泣き虫でした。人を笑わせるのはこの時から好きだったみたいで、母親にたくさんボケをかましてたらしいです。(既に芸人の素質ありィ)
小児喘息を患っていました。毎朝夜に服薬、深夜に発作、緊急入院等、親に大変な思いをさせていましたが、母親は根気強く私の喘息と向き合ってくれました。そのおかげで今では完治しております。

幼稚園で初恋を経験し、小学4年生でグレ始めました。(グレるの早すぎる)
学校に遅刻する、先生に反抗する、乱暴な言葉遣い、前髪長い(?)、そういうのがかっこいいと思っていました。一緒にいる友達もどんどん変わり、気付いたらギャル3人と仲良くなっていました。
「ゥチら四天王ぢゃね?ゎら」って言ってました。(マジすか学園の影響)

このままでは将来が危ういと察知した私の母は、私を私立の中高一貫校に中学受験させます。めちゃくちゃ勉強させられました。本当にイヤだったししんどかった。水、土、日と週3で塾に通っていました。まだ小学生なのに(´;ω;`) 面接練習を担当してくれていたデブメガネのおっさん先生に勉強関係ないことでも詰められました。今思い出しても憎い。
いや、でも1対1で勉強教えてくれてた先生は若くてイケメンだったなァ。

そしてなぜか合格。

私含めみんなびっくりしてました。


母の選んだ服を却下し自分で服を選んだもののあまりにもダサすぎる上に変顔をカマす幼少期わし




中学生

晴れて自称進学校に入学できたわけなんですが、

お母さんよ、そんな簡単にはいかないぜ?

周りが真面目ちゃんだらけの中、私は普通にグレたままでした。
いろんな人と喧嘩してました。怒鳴り散らしてました。
でも友達は大事にするし、部活動にも励んでいました。

そうです。ここで私はダンスに出会ったのです。

新入生歓迎会で部活動紹介が行われ、ダンス部の先輩方がかっこいい衣装でかっこいいショーケースを踊っていて、
”はい決めましたワイ将軍はダンス部に入りますはい決めました。”と思いました。体験入部期間は全日ダンス部に参加するという熱烈な姿勢を見せ、無事先輩方に認知してもらえ、念願のダンス部に入部できました。

ここから私のダンス馬鹿人生が始まったわけです。

しかしそのダンス部は、コンテストや大会に出たり外部コーチとして現役ダンサーが教えに来てくれたり、という私が思い描いていたダンス部のイメージとは真逆の状況でした。
踊る機会は一年に文化祭と新歓の二回だけで、普段の部活は来ても来なくてもいい、顧問は定年間近のおばあちゃん先生(愛称:まちゃこ)という実態でした。

思てたんとちゃうなァ。

でも私はとにかくダンスが好きだったので、披露する場がなくても勝手に練習して勝手に踊って、誰よりもダンス部をしていました。

中学2年に上がった頃、案の定、私は部活に対しての物足りなさメーターがMAXになってしまい、学校とは別でダンスを習いたい!と、母に訴えました。たしか知り合いづてにダンススクールを紹介してもらえて、私はついにダンスを習い始めました。(おかんありがとう涙)

ちなみにここで初めてまともな彼氏ができました。
あだ名はれんちゃんです。(誰もわからないと踏んで公表してる)
噂の低身長文武両道イケメンです。勉強ができるバスケ部キャプテンでした。

勉強面では、授業中は喋る寝る、成績の学年順位は下から15番以内くらい、宿題なんてするわけがない、という感じでしたが、なぜか英語だけ出来ました。
宿題未提出者またはテストの点低すぎるヤツを教室(牢獄)に監禁し条件を満たせば解放(釈放)される補習とやらで、先生(監視員)の隙を見て脱走し、部活(シャバ)に出るということが日常でした。
ただ、でしゃば(シャバ)るのが好きだったので行事ごとではリーダー的立ち位置をよく務めており、人気者陽キャっていう感じでした。(自分で言い切ります)先生とも仲良かったし!
勉強以外には全力で取り組んでいました。

その当時は完全にESTPでしたね。(またMBTIの話しよるわいこいつ)

体育祭で選手宣誓をする満面の笑みの中3わし


ちなみに中2から中3にかけて私はモテ期&大恋愛時期でした。
れんちゃんとは中2の終わり頃にお別れをし、中3では学年一のムードメーカーと付き合い別れ付き合い別れと繰り返していました。間にクラスで男女仲良いグループみたいな内の一人を挟みました。この時の振り文句は「忘れられない人がいる」でした。絶対言ってみたかっただけやん。
結局誰とも付き合わず高3の受験期卒業間近の頭の良いヤンキーみたいな先輩に片思いしてました。めっちゃ好きでした。

そんなこんなで中学卒業を迎えました。先述した通り中高一貫校なので、何もしなくても高校に上がれるわけなんですが、ここでファイナル補習みたいなものがありました。よく補習で見る人、授業態度悪い人、あんまり学校来ない人等、いわゆる問題児が集められていました。ちなみに私はこれにすら遅刻していきました。学年主任のおっさんの説教から始まり、最終的にはなぜか教室内のゴミを拾いまくれという謎のミッションをみんなで遂行しました。まあ要するに、高校に上がるんだからいつまでもガキやってないでちゃんと自立しろよ、ということが言いたかったんだと思います。(にしても最後のゴミ拾いは謎すぎた)

※中3わし(冬休みver.)



高校生

というわけでギャルJKになり、今まで通り勉強なんてせずに部活や行事に励んでいました。が、ここで問題発生。
なんと高校では、定期テストで一科目でも赤点(20点以下)を取ると一定期間部活動禁止という条約が結ばれていたのです。

聞いてないぞ。

JKになっての初回定期テストで私は見事赤点を多数獲得し、本来のなら踊り狂っていた部活動時間は補習という名の罪の償いで潰されてしまいました。

この時私は悟ったのです。

イヤなことをしないで自分のやりたいことだけするという考えはこの世の中には通用しないのであ~る、と。

そこから私は勉強という概念を自分の人生に取り入れました。勉強しないせいでダンスができないなら勉強すればいいのでは?という安直な考えの基で。成績はある程度良くなっていき、高1後半では学年順位真ん中くらいだったかな多分。そこから私は、順位が上がっていく、点数が高くなっていく、みたいな、自分の努力の成果が数値化・可視化されることに対して快感を覚え、結構勉強にも励むようになりました。

それと同時に私はどんどんギャルから遠ざかっていきました。地元の友達との夜遊びもやめました。(夜遊びしてたんかい)隠れてタバコ吸うのもやめました。(タバコ吸うてたんかい)夏休みに髪染めるのもやめました。(髪染めてたんかい)濃い化粧もやめました。(ギャルだったもん)
加えて、私は本を読むようになりました。当時は山田悠介と住野よるにドハマりしていました。どちらの作家さんも良い意味で難しい単語や表現を使わなかったので教養がない私でも黙々と読み進めることができました。
まだギャルというイメージはついているまま、もしくはギャルの名残があったので、クラスメイトや先生は物珍しそうに私(文学ギャル)をいじってきました。

まだギャルだった高1の夏


高2半ばでダンス部最後の文化祭でのパフォーマンスをして、そこで部活は引退という形で終わりました。最後のステージでエンディングが終わり、幕が下りてくると同時に盛大な拍手が起こった瞬間に私は泣きそうになりました。ちなみにESFPの友達はステージ上にいるのにも関わらず既に顔ぐちゃぐちゃにしてでけえ声でえんえん号泣していました。私は幕が降りきってダンス部が終わったことを実感したら涙が止まりませんでした。(物足りんとか文句言ってたくせに)部長もやっていたのでほんとにほんとに寂しかったんです。

そして受験期ということで、高3になるタイミングで通っていたダンススクールもやめました。それは全然悲しくなかったです。(あんまり楽しくなかった)(なんじゃそりゃ)
私にとってダンス部は”ダンスを楽しむ場”で、スクールは”ダンスを磨く場”という感覚でした。でも得たものの価値はどちらにもあります。とりあえずみんなアリガトーウ!

ダンス部最後のステージ



さあやってまいりました。高3。
この1年は勉強べんきょうベンキョウBENKYO‼でした。

私の母は昔から、何が何でも大学には絶対に行けと口うるさく言っていました。その上、コッコーリツ!!コッコーリツ!!とうるさかったので、(とにかくうるさい笑)なぜか昔から得意だった英語を活かし、当時の私のレベルで行けそうな国公立大学を探して見つけたのが高知大学です。一旦高知大学の推薦入試(面接オンリー)を受けるつもりで、もし推薦で落ちたら一般入試で頑張ろうという計画でした。

高3当時の私のスクールライフは本当に皆が引くくらい勉強しかなかったので紹介してやりましょう。

まず朝敢えて早めに登校し、自習室という教室で勉強をしてから自分の教室に行ってました。授業はキショいくらい真面目に受け、休み時間や放課後は職員室に行き先生にわからないところを教えてもらい、小テストは満点当たり前、希望者補習という受けたい人が受ける補習を放課後に受けまくり、学校から帰れば塾に行っていました。
ちょっぴり自慢エピですが、私のクラスは勉強に励んでいる人が少数だったので、授業中先生達も誰かを当てようとして困ったら私を当てるというのがお決まりでした。(ガチ優等生☆)
夏休みは勉強大好きマンのために、自習室の開放・希望者補習があり、自習室で勉強して、補習の時間が来たら補習を受け、終わり次第また自習室に戻り勉強、たまに職員室にいる先生に質問&だる絡みしにいく、というのを毎日していました。

キショ・スンギ

環境が整いすぎている自習室の机


もちろん友達との付き合いは悪くなりました。でも友達はそんな勉強ヲタクになってしまった私をしつこく誘ったり、逆に嫌いになって離れていったりということはなく、理解して温かく見守ってくれていました。みんなありがとうダヨ!当時のマブダチは言うまでもなく、問題集と先生でした。

ていうか中学の頃は指定されてイヤイヤ補習を受けていたのに今になっては自らの意思で補習を受けに行くってなんかすごくないですか。

そうなんです。これだけ勉強づくしだとしんどいのでは?無理に頑張っているのでは?と思う方もいると思いますが、なぜかそこまで苦ではありませんでした。勉強することが自分のためになるということを理解していたし、実際にどんどん自分が賢くなっていくのが嬉しかったんです。あと、ギャルだったのに賢くなってるって思われるのが好きだった。(笑)

学校の定期テストは全科目8~9割以上取ってました。英語に関しては満点とかたまに取ってました。まあ学校の定期テストはクソほど簡単だったので。これもまた、各科目で点数上位者は名前を晒されるんですよ。毎回自分の名前が載るのを楽しみにしていました。それが快感でした。学年順位は言うまでもなく、上から15番以内ですよ。(ここで伏線回収)

推薦入試の日が近づくと、私は勉強+面接練習をしていました。これがまた厄介で、私が受けた面接は全部英語で受け答えしなきゃいけないし、グループディスカッションみたいなものもありました。おっとりしていてめっちゃ優しいオーストラリア出身のベン先生と、元ニューヨーク銀行員の英語のプロフェッショナルの藤井先生に面接練習を付き合っていただきました。ベン先生は、あんたの英語めっちゃセンスあるよ!自信持って!と、とにかく私を褒めまくってくれました。しかし、藤井先生はド正論ド直球ぶちかましニキで、くっそ厳しかったし怖かったです。でも私は当時からTだったので(またMBTIの話しよるわいこいつ)ぶちかまされる正論にも納得できてしまい、どうしようもなく悔しくなりました。藤井先生にたくさん指摘された日は、一人泣きながら下校していました。でもまた次の日には藤井先生に文句を言われないように考えた英文を添削してもらっていました。

無事に入試を終え、結果待ちのタイミングで、高知大学で学祭があると知ったので遊びに行きました。たまたまダンスサークルがイベントをやっていたので見てみました。興奮しました。レベルは高いし、男性がたくさんいたし(今まで女子ばっかりだった)何よりみんな楽しそうでキラキラしてたんです。そこで私は思ったのです。
”はい決めましたワイ将軍はダンスサークルに入りますはい決めました。”と。(vol.2‼️)自分がそこにいることを想像してウキウキしました。

ついに入試の結果発表の日。下校中でした。
ドキドキしながらスマホで結果を見ました。

無事合格していました。

すぐに母親と担任に電話しました。
職員室では、元ギャルのあいつが国立大学に合格したぞ!と大騒ぎになっていたらしいです。

当時の職員室の様子


私は嬉しくて嬉しくてたまりませんでしたが、驚きはありませんでした。
私があんだけ頑張ったんだからそりゃそうだよな、と、勝手に腑に落ちていたのです。

合格がわかって卒業までの間、私は自分で勝手に禁止していたゲームをやりまくり、友達と遊びに行き、スタジオをレンタルしてダンスをしたりしていました。ピアスも複数開け始めました。

しばらく経って、大学から事前課題というものが送られてきました。(まだ入学してないっちゅーねん!!)課題をやって期日までに大学に郵送しなければいけません。


やるわけがありませんでした。


期限が近付いた頃、大学からの催促の連絡がありました。もちろんお母様に怒られ、しぶしぶ課題に取り組もうとしましたが、ナンジャコリャ。
なっげえ英文を和訳して要約しろみたいなやつでした。
さっぱりでした。
時間もやる気も無かったのでGoogle翻訳大先生に頼ってなんとか仕上げ、期限ギリギリに大学にぶち送りました。教授の添削返ってきたけどボロクソでした☆(ゝω・)vキャピ

見た目が落ち着きすぎたわし(卒業式)



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ここまでで一旦終わろうかなと思います。

大学生からもまた濃い濃い濃い!なので長くなりそうです。


続きはまた書きます。



続き↓



ほなまた





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