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やりたいこととかそんなこととか

思ったより考えることを文章にするのは難しいな、と感じたまま1週間以上が過ぎていた。学生の頃は長い文章を書く機会が多かったけれども、今は短く、わかりやすく、という文章ばっかり書いているから、脳内を垂れ流す長文というものを書く筋力が衰えているのかもしれない。

最近はフィジカル的な筋力だけでなく、色んな精神的な筋力が衰えているな、と感じることがある。感受性も感性も動かさなければ鈍るのだから、それらを動かす活動をしていなければ当然に衰えていく。今だってこの文章を書きながら句読点の位置を動かしまくっている。どう読むと気持ちいいのか、と、どう書くのか、ということを繋げる筋肉が長い間動かされていなかったことが原因なのだろうか。

夢を見る、ということも、同じように筋力が必要だ。

ここでの夢は“将来なりたいもの”とかそういった類の夢を指していると思ってほしい。こうありたいと思うその筋力が夢を見ることだと。現実はこうだからと割り切って割り切って割り切って割り切って、そうやってその筋力を使わずにすり減らしてしまうこともあり、夢を見ることはただ単純に社会人として生きていく中では難しいことなのかもしれない。

自分は周りが思っている以上に不器用で、適当にするということが苦手だ。目の前に全力を注いでしまう。仕事とやりたいことと生活することのそれぞれにバランス良く力を割くことは、自分にとって難しいことだ。そして時間の使い方が下手くそでもある。集中がすぐに切れてしまう。(ちなみに、病理的なものではないことを付け加えておく。HSPである可能性はあるが。)だから、夢を見る筋力を維持するのは自分にとってある種至難の業なのだ。

そんな中でずっとやっていきたいと思っていることは、“誰かと一緒に音楽を楽しみ続けること”。そしてその先には“生活の中でその時間が半分以上を占めること”という夢が、あった。前者ですら簡単じゃない、簡単にできるものではまずない。社会人になってから、4年もの長い間、音楽を演奏する側から離れていた。後者も、自分にはそれを続けられる才能と運がない(と思い込んでいる)から、まあ、端的に言えば諦めた。

だけど、やはり思ってしまうのだ。趣味でもステージに立ってしまうと、ここにずっといたいと思ってしまう。ステージの幕が上がるとき、袖からステージに入るとき、1音目が鳴った瞬間、そこでもうどうしようもなく、スイッチが入ってしまう。ここが自分のいるべき場所だと、思い込んでしまう。

要は、実際には、諦めきれていない。諦めきれていないのに努力する気力がないから燻っている。いっそ一気に燃えて炭になって消えてくれればいいのに、と思っているが、数年前に書いた詩がよくこの心境を表していると思う。

選ばれなかった思い出と未来を、暖炉に焚べるようにぼんやり見ている。いつかは炭になる彼らが、ゆっくりと消費される様に心を傷めることもなく、ただ明日が来てしまうことに疑いを持たず煩わしさを感じて、白い灰を片付けるように淡々と過ごしている。そこに暖かさはもうない。

ステージに立ったあとはいつも感傷的で、孤独で、そして多分、一番速い速度で未来に連れていかれている。今がまさにそれ。そんなどうしようもない気持ちをどうにかこうにか処理したくて、この文章を書きなぐっている。

生きていかねばならない。それだけが、どうやって生きるかの足枷になっている。未来を作るには、今を着実に生きていかないといけない。生きるためには、しなければいけないことが多すぎる。

しなければいけないことは多い。その中でも小さくても1個でもいいから、夢に近づくことの何かができたら。白い灰の山の中から砂金一粒を見つけるようなことかもしれないけれど。過去に未来を暖炉に焚べた自分が目元を拭ってそこから立ち去ってくれるのではないかなぁと、そんなふうに思っている。

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