奮闘記
スマホのアラームの電子音。止めても止めても連続で鳴り響き、飛び起きた。絶対に寝坊する、と6回連続でアラームをけしかけた馬鹿な昨日の自分を褒め称えたい。無事目覚めたぞ。苛立ちと不快感増し増しでな。
つい数時間前の自分が過ごした怠惰な時間の副産物である重たい重たい瞼を引っ張り上げて立ち上がり、顔を洗いにノロノロと洗面所へ向かう。寮生共用の洗面所。先人の残り香とビッチャビチャの洗面台。寝ぼけ眼とメガネ無しのダブルパンチで何も見えず、水溜りの上にスマホを置く。
絶望だ。
「ビチャッ」て。スマホの半径10cmで一番鳴ってはいけない音だぞ。終わった。
絶望ゆえの余裕でゆっくりとスマホを裏返す。ぐっちゃぐちゃ。そっともう一度裏返し、母の優しさの如く柔らかなタオルで包む。これでもうスマホは見えない。見えなければ無いのと一緒だ。よし。スマホが濡れた事実は無かったこととなった。
こんなことをしている場合では無いのだ。目覚めたとはいえ若干の寝坊。さっさと顔を洗って朝食を食わねばならない。洗顔料を泡だてネットの上に出す。この100均の泡だてネットがまあ優秀。もっこもこの密度の高い泡が出来上がる。もこもこの泡を手に乗せ、顔を押しつける。至福。手で擦ることなく、滑らかでもっちりとした泡が顔の汚れを全て取り去っていく。だがしかし、浸っている時間はない。ほどほどにして泡だらけの顔を水で洗い流す。
顔の右側面あたりを洗い流している時、「ガポッ」というこもった音。
絶望リターンズ。達人は二度刺す。
耳に泡が入った。かなりたくさん。
終わった。
この泡畜生は確実に耳の造形の複雑さを舐めている。いや、それを知って的確な嫌がらせをしているのか。水の流れる力を借りた泡畜生は複雑に込み入った耳の手前部分にじんわりと絡みつき、耳の奥までも浸食する。耳の穴を全て塞ぐほど、かつてない泡の多さ。もうどうしようもない。この瞬間、右耳は死んだ。
絶望と共にやってくる諦観に身を任せ、またもやゆっくり顔の泡を洗い流す。もう普段の時間に朝飯は食えまい。
泡が全て無くなり、すっっきりした顔とは裏腹に、未だ聞こえない右耳。水を豪快に耳にぶっかけてみるものの、奥まで入って耳を塞ぐ泡は取り除けず、なんなら奥へと入っていく。終わりだ。この泡と生涯を共にする覚悟を決めなければいけない。
いや、まだだ。まだ舞える。どうにかしてこの泡を取り除かなければならない。今、戦いの火蓋は切って落とされたのだ。この私と泡の一騎打ち。もはやこの戦いに水を差せる者は一人たりとも存在しない。そう、時間ですらも。
手を丸くし、椀状にする。レバー全開で蛇口からとめどなく流れ出る水の下へ手を差し込み、豪快に手で作った椀へと水を流し込む。溢れる水を湛えた手を、耳の方へ持っていく。
と見せかけて顔を手の方に向けて突っ込む。
かかったな、泡畜生め。今さっき私が言ったことを忘れたか。「この戦いに水を差せる者は存在しない。」と。そう、耳に水を差すのではない。耳を水にぶつけるのだ。
手に溜めた水に耳を叩きつけ、水圧で耳の奥まで水を入れ、泡を耳から引き摺り出す。極め付けに蛇口から溢れてくる水で全ての泡を消し去る。
嗚呼、完璧だ。これほどスマートな泡の討伐がかつてこの世界に存在しただろうか。全て計画通りに事が進んだ。
バシャァ…と見事な余韻を残し、水飛沫と共に手の中の水が洗面台に打ち付けられる。所詮は泡畜生。多少手こずりはしたが、日々の安寧は保たれた。さあ、早く朝食を食べに行かねば。
そう思い、顔を上げかけたその時、
ジュワァァァ…
耳の奥から鳴り響く、絶望のファンファーレ。ああ、私は、甘かった。
失敗したのだ。泡を取り除くことに。
まだ耳の奥に残る残党に気付かず、「完璧だ。全て計画通りだ。」と宣っていた人間のなんと愚かな事か。泡はまだ生きていたのだ。私が見せかけの勝利に躍らされ、胡座をかいていたその瞬間にも。生きて、まだ耳の奥へと向かおうと、前進していた。油断した。私は、この泡畜生を完全に舐めていた。
しかし、私は失敗をした。これがどういう意味なのか、泡よ、貴様にはわかるまい。失敗をしても、何度でもやり直せば良いのだ。成功するまでやれば、失敗ですら美談になる。私は敗北を喫したわけではないのだから。
朝食の時間には間に合うまい。それどころか、点呼の時間がすぐそこまで迫りつつある。しかし、そんなことはもはやどうでもよいのだ。私はすでに、快感を覚えていた。泡、などという圧倒的弱者の風格を漂わせた物質に、ここまで苦戦を強いられている。プライドはとっくのとうにズタズタだ。それが、私の心を加速させる。もはや泡畜生などと呼ぶことは出来ないだろう。
泡よ、お前と、人間というこの世の全ての生物の頂点に立つ真生物とここまで互角に渡り合い、ここまで不快感を味わせたお前と、私は心ゆくまで真正面で勝負を楽しみたいのだ。
覚悟は決まった。再び洗面台に向き直り、レバーを捻り直す。二人の勝負を祝福するように激しく、それでいて行方を見守るように心地よく、水が流れ出した。
泡の残党は僅かだが、見過ごすには多すぎる量だ。そして、先ほどよりも奥へと入り込んでいる。どうするのが正解なのか。そう考えている間にも泡の不快感は増していく。もうこの私には一刻の猶予も与えられていないらしい。そうと分かれば、もうやることはひとつしかあるまい。
圧倒的物量戦だ。
泡の残党どもは小賢しく耳の奥へと歩を進める。だがそれがなんだ。こちらは人間。そして蛇口からとめどなくあふるる水だ。舞台は水の国日本。こんなちっぽけな泡ども、まとめて水を流し込み、薄め、そのまま場外へと押し流してしまえば良い。
そうと決まれば早かった。耳を水に突っ込んでは、流す。突っ込んでは、流す。最早これはウイニングラン。音を立てて弾け、舞い散る水しぶきは窓から射す陽の光を反射して宝石の如く輝く。点呼の開始を告げるチャイムはさながら勝利を祝福する鐘の音。ああ、私は……
気付けば、かつてないほど清々しい顔をした自分が、鏡に映っていた。右顔面はびちゃびちゃ、服も首元だけでなく胸や腕の辺りまでしとどに濡れて、それでもなお、私は笑っていた。
まさか泡畜生と見くびっていた相手にあれほどまでの不快感を植え付けられることになろうとは。見事。見事だ。敵ながら拍手を送ろう。あれほど貧弱な体で良くぞここまで上り詰め、私を追い込んでくれた。もう何人たりともお前のことを泡畜生などとは呼ばせない。もう影も形も、気配も感じられぬ好敵手へと賛辞を送る。ありがとう、そしてさようなら。私は勝ったのだ。
「点呼当番さん、すぐ管理棟まで来てください。」
点呼当番を呼び出す放送で我に返る。顔も服もびちゃびちゃ。洗面台もびちゃびちゃ。なんなら床まで濡れてる。まっっっっずい。とりあえず拭かなきゃ。傍らにおいてあった、水を浴びてしっとりとしているタオルを鷲掴んで、顔を拭こうとしたその瞬間。
ゴジャッッ
え゙
恐る恐る音のした方を見る。ああ。ああ
そこには
無惨にも床に横たわる、ずぶ濡れのスマートフォン。
全然語ってる場合じゃない。光の速さでスマホを拾う。画面が明るくなってとりあえず一安心。内部に水が入ってなさそうでもう一安心。カバー裏に水が染み込んでてその場で大の字になろうかとも思ったが堪えて。
これまたものすごい速さで顔を拭いて洗面台もざっと拭いて、最短最速で自室に戻って。
そのままベッドにダイブ!!!!!!
もう!!!!!!!
やってらんねえよ!!!!!!!!!!!
このあと10時間寝た。
とか言いたいところだけどそのあと普通に着替えたし普通に点呼行ったし普通に朝飯抜きで学校行きました。現実は残酷です。