「聲の形」が暴く、クソみたいな学校社会の正体
ごきげんよう!M8小隊のT隊長です!
先日の動画でちょっと話題に上がった「聲の形」。話題に上がったので再度みてみたので、僕なりの解釈を話しておこうと思う。
ちなみに動画はこれ
「聲の形」ってのは、表面上はいじめの話に見えるかもしれない。
でも、これはもっとヤバい。僕たちの社会のクソみたいな部分を丸裸にしている話だと思う。
1. 生き残りゲームとしての学校
まず、この学校だけど、子ども達にとっちゃ地獄みてえな生き残りゲームになっていると思う
石田将也、あいつは「いじめっ子」じゃねえ。ただの必死の生存者だ。
西宮硝子、「かわいそうな被害者」じゃねえぞ。硝子だって、耳が聞こえないと言う障害を持ちながら、この学校で自分なりの戦略で生き延びようとしてる。
植野直花も川井みきも、みんな同じだ。地獄の生き残りゲームで必死に生きようとしてるだけ。
誰も「悪者」なんていない。みんな、このクソシステムの被害者ってこと。
2. スクールカーストっていう檻
で、そのクソシステムの正体がなんだと思う? そう、スクールカーストですよね。
上にいりゃ安全、下にいりゃ死ぬ。
そりゃみんな必死になって上に行こうとするよね。
で、誰かを踏み台にしないと上に行けないときてる
これがどれだけクソみてえなシステムか、、、子ども達の自由を奪って、誰かを犠牲にしないと生きられ無い様なシステムになっている。
3. 大人たちの無能ぶり
で、こんなクソシステムを放置してる大人たちの無能ぶり
教師、石田一人にいじめの責任を押しつけるなど、表面的なことしかできねえクソ野郎
でも、よく考えてみると、結局、大人たちもこのシステムの被害者。だから本当の解決方法なんて見つからない。
なぜかって?
まず、この教師たちも、同じようなクソみてえな学校システムで育ってきたんだ。彼らだって、かつては水槽の中の魚だった。
それに、今の学校ってのは、文部科学省の指導要領とか、学校の方針とか、親の要求とか、いろんな制約がある。教師個人の裁量なんてほとんどない。
評価システムもクソ。いじめが起きたら、学校や教師の評価が下がる。だから表面的な対応で済ませようとするしかない。
親たちだって同じ。競争社会で生きてきて、子どもにも「勝ち組」になれって押し付けてる。これじゃあ、いじめの構造なんて変えられるわけがない。
社会全体が、この水槽システムで動いてる。学校は社会の縮図。だから、大人になっても、同じようなシステムの中で生きてくしかない。
つまり、大人たちも別の大きな水槽の中で泳いでる。彼らだって、システムに抗うのは難しい。
でも、これは言い訳にはならない。大人たちには責任がある。
システムの被害者だってことを自覚した上で、それでも変える努力をしなきゃいけない。
それができないから、結局、子どもたちの水槽は変わらない
4. でも、希望はある
でも、「聲の形」はただクソみてえな現実を描いてるだけじゃない。この作品、しっかり希望も示してる。
石田の変化:
自分のクソみてえな過去と向き合う勇気を持った。
他人の気持ちを本当に理解しようと努力してる。
硝子の成長:
自己否定から少しずつ抜け出そうとしてる。
「相手のため」じゃなく、本当の自分の気持ちを表現し始めた。
周りの変化:
植野や川井みたいな周りの奴らも、自分たちの行動を見直し始めてる。
みんなで文化祭を成功させようって頑張るシーン。これ、新しい関係性の始まりだよ。
システムへの挑戦:
スクールカーストや既存の価値観に縛られない関係が生まれ始めてる。
要するに、この作品が教えてくれてるのは
人間は変われる。どんなクソみてえな過去があっても、未来は変えられる。
自分を理解し、他人を理解するのは難しいけど、努力次第で可能だ。
個人が変われば、周りも変わる。そして社会も少しずつ変わっていく。
変化の契機は他者との関わりにある
そして、この作品で深いのは、変わるきっかけが他人だってとこ。
石田の場合:
硝子との再会が、自分を見つめ直すきっかけになった。
妹のゆずるがきっかけで、硝子を探し始める。
母の無条件の愛が、石田の自己肯定感を支えてる。
親友の永束(ながつか)が、石田の変化を後押ししてる。彼の存在が、石田の居場所になっている。
硝子の場合:
石田の謝罪と努力が、自己否定から抜け出すきっかけに。
妹のゆずるの厳しい言葉が、自分の問題に向き合うきっかけになる。
おばあちゃんのいとが、硝子の成長を見守り、支えてる。
植野や川井の場合:
石田たちの変化を見て、自分たちも変わり始める。
互いの変化が、さらなる変化を促す。みんなで文化祭を成功させようって頑張るシーン、まさにそれだよね。
結局のところ、この作品が教えてくれてるのは、人間関係の網の中で生きてるってことだよ。主人公だけじゃなく、脇役たちも含めて、みんながお互いに影響し合って変化していく。
そして、その変化ってのは、必ずしも劇的なもんじゃない。小さな言葉、ちょっとした行動、静かな存在...そういう些細なことの積み重ねが、大きな変化を生むんだ。
「聲の形」の真の希望は、こういう人間関係の複雑さと可能性の中にあるんと思う。
僕たちに、周りの人々との関わりの中で自分を見つめ直し、少しずつでも変わっていく勇気を与えてくれてる。それこそが、この作品の本当のメッセージなんだよ。
結論:このクソシステムを超えろ
結局、「聲の形」が僕たちに問いかけてるのはこれだ。
「このクソみてえなシステムの中で、どう生きていくんだ?」
「いじめっ子」だの「いじめられっ子」だのそんな単純な話じゃない!
そんな単純な目線では、システムの檻から出られない!
システムに従うだけじゃダメだ。時には疑問を持つ抗う勇気も必要だ。
本当の意味で他人とつながること。それが大事なんだ。
何故なら、システムを超えるにはそれしかないから!
明日からどう生きる?
このクソみてえな社会で、どう自分の「聲の形」を見つけていくのか?
それを考えるのが、この作品を観た後の宿題だと思う。
それではごきげんよう!