東京の空の星は見えないと聞かされていたけど見えないこともないんだな
フジファブリックを知ったのは、奥田民生がきっかけでした。奥田民生はわたしの人生に多大なる影響を今なお与え続ける存在なのですが、ゆえにそれを語り始めると長いので今回はおいておきます。
その奥田民生がかわいがっている後輩としてフジファブリックを知り、そしてボーカルの志村正彦は奥田民生のファンであるという点でわたしは勝手に親近感を感じいわば同志のように思っていました。
雑誌などで奥田民生を語る志村正彦はわたしのようないち奥田民生ファンの目線や気持ちがあり共感できたし、何より志村正彦本人がうれしそうで、2人が並んでいる写真でのやわらかな奥田民生の表情からも関係性の良さが感じられました。
志村正彦が音楽を志したのは奥田民生のライブを観たから、というのはその界隈ではあまりにも有名な話で奥田民生本人からしてもかわいい後輩であったのかもしれません。まあ知りませんけど。
今から10年前の2009年12月24日、志村正彦の訃報を耳にした時は、なんの関係もないわたしですらショックだったのと同時に奥田民生のことを考えてしまいました。わたしの心配には及ばないと思いますが…。
そして迎えた年末のCOUNTDOWN JAPAN、奥田民生のステージ。わたしは行っていませんでしたが、会場にいる友だちから連絡がありました。
民生が「茜色の夕日」をやった、と。
最後は声がつまった、と。
「茜色の夕日」が志村正彦の思い入れも強い楽曲だったことは本人も語っており、本人も歌いながら感極まったことがある曲でした。
志村正彦が感極まって歌えなくなったところ
奥田民生もほぼ同じところでつまってしまったんだとか。
長い間、奥田民生のファンでいますがそんなことは聞いたことがなく、それだけのことだっとんだと思います。
タイトルにしたのは「茜色の夕日」の歌詞の一部
志村正彦は静岡県富士吉田市の出身。地方出身のわたしも似たようなことを言われ東京の空を見上げ、同じことを感じたことがあります。そして思うのです、ああ志村正彦はやっぱり同志だな、と。
あれから10年経ってわたしは東京の空ではなく地元の空を見えるというほど星も見えないんだけどね、と見上げています。
まとまらないけど、そしてまとめる気もないけど、12月になると頭に浮かぶことでした。
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