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次のステージへ。

3月です。まだまだ寒い日はありますが、私が生活している島根県西部(津和野町・益田市)では、各所で春の予感をそれとなく匂わせてきています。

このたび、みなさんへご報告したいことがいくつかあります。


1.島根県立大学総合政策学部を卒業します!

2年の頃から「次卒業?」とよく聞かれていたのですが、ついに!4年間通った(2年次以降あまり行ってないので「在籍した」のほうがしっくりくる)島根県立大学総合政策学部を卒業することになりました。

卒業論文は「過疎地域における大学生のサービスラーニングの学習効果と学習環境のありかた:島根県益田市・津和野町を事例として」というタイトルで書きました。これに関してはまた別の機会にご報告したいと思います。

入学してから今までについて、大学の学期ごとや長期休暇ごとに振り返ってみたいと思います。
※卒論の規定文字数に届きそうなくらい長いので、ゆるゆる読んでいただくことを強くお勧めします。

①1年春

センター試験で大失敗し前期入試に落ち、後期入試で島根県立大学総合政策学部に滑り込んだ私は、3月20日に大学が決まったため、入学が決まった1週間後にはもう浜田にいました。段ボール3つを宅急便で送って、浜田のキャンパス内にある学生寮に引っ越しました。親元を離れて生活するのは初めてで、料理上手な父親に「どうせまさみは料理せーへんやろうから」と当時我が家のアイドルだった大容量のティファールケトルを持たせてもらい、新生活をスタートさせました。ベランダから見える山の風景とともに「なんにもないです」とインスタに投稿したのが懐かしい。寮は土地勘のない県外出身者ばかりが集まっていたので「最寄り駅まで徒歩60分」の恐ろしさを知らず、駅前のスーパーから重い荷物を持ち、徒歩で急な坂道を励まし合いながら歩いた日も、今となってはいい思い出です。はじめの寮総会では誰も手を挙げなかったので、その場から早く帰りたかった私は手を挙げて寮長になりました。仕事は特になかったですが、セコムが鳴ると(ネコとかに反応したりする)寮生の誰かから電話がかかってくるので「みんなカギ閉めて寝てね」とLINEのグループで注意喚起したことは覚えています。4月は、高校生の頃から気になっていた内閣府「世界青年の船」の応募書類に取り組みました。30歳まで応募できるので、「今年だめでもまだチャンスはあるからなあ」と軽い気持ちで取り組んでいました。コロナ禍で次年度以降の事業は中止やオンラインでの実施になっています。今ふりかえると、あの時応募して、合格して本当によかったと当時の自分に感謝しています。5月からの3カ月間はフットサルサークルに所属しました。練習が週4回あり、コーチと呼ばれるおじさんと一緒に活動する謎のサークルでした。練習日が多かったりセクハラぽかったりでやめました。5月から個別指導の塾でバイトを始めました。浜田教室と益田教室で3年の夏前まで続けました。高校時代から参加すると決めていたプログラムに参加するため、大学独自の海外活動奨学金Global Dream Hunt(https://www.u-shimane.ac.jp/international/index/GDH/)に応募し採択されました。15万円をもらってアメリカのシアトルに行くことが決まりました。春学期は、毎月用事を作っては大阪に帰っていました。5月はゴールデンウィーク、6月は内閣府事業の面接、7月は大阪に来る知人に会いに。そんな感じで特に浜田のまちを知るようなこともなく、夏休みに突入します。

②1年夏休み

夏休みは、「私は県大生の中で一番長い距離移動した!」と言えるほどいろんなところに足を運びました。以下FB投稿からの引用です。

・名称…まさみの夏休み
・期間…8/1〜9/30
・場所(期間)
1.大阪府茨木市(8/1〜8/7)
2.島根県浜田市(8/8〜8/15)
3.大阪府茨木市(8/16〜8/17)
4.ワシントン州シアトル🇺🇸(8/18〜9/7)
5.大阪府茨木市(9/8〜9/11)
6.島根県浜田市(9/12〜9/13)
7.島根県出雲市(9/14〜9/16)
8.島根県浜田市(9/17〜9/18)
9.東京都渋谷区(9/19〜9/26)
10.島根県松江市(9/27〜9/28)
11.島根県鹿足郡津和野町(9/29〜9/30)

ハイライトは以下の4つです。

2.島根県浜田市(8/8〜8/15)

お盆を浜田で過ごしました。帰省している人が多くて普段の倍以上の人を見ました。国府海岸に行って初めて海水浴をしました。海水は本当にしょっぱかったです。焼けました。焼けすぎてこれから行くアメリカでもっと焼けたらさすがに心配だからと、友達が日焼け止めをプレゼントしてくれました。

4.ワシントン州シアトル🇺🇸(8/18〜9/7)

大学独自の奨学金などを利用して、米国のNPO法人iLEAPが日本の大学生を対象に提供する「Global Leadership Program」に参加しました。このプログラムは高校生の頃から知り合いが数人参加していて、大学生になったら自分も参加したいと思っていたもので、意外とすぐに実現することができました。シアトルでの生活は素敵なスタッフのみなさん、寛容なホストファミリー、日本から参加した刺激しあえる大学生に恵まれ不自由なく過ごすことができました。私の理想の生活を構成する要素のいくつかがあそこにあったような気がします。また行きたいです。

9.東京都渋谷区(9/19〜9/26)

オリンピックセンターで内閣府事業の事前研修合宿がありました。日本人参加青年だけでの合宿でしたが、いざ会ってみると日本だけでなく世界各地から集まった個性的な人たちに完全に圧倒され、トイレで泣きました。それは自分の中で安定していた(と思っていたというか、そうなっていてほしいと思っている節がある)自己肯定感がグラグラ動いたのを感じ、そんな自分を受け入れることが難しかったからです。以来、「自己肯定感が高くない自分を受け入れがたい自分」がいることを認識しながら、なんとかうまく(たまにうまくいかない)自分自身を手の上で転がしています。

11.島根県鹿足郡津和野町(9/29〜9/30)

私の現在の活動拠点の1つである津和野にはじめて足を踏み入れたのがこの日。夏休み最終日、滑り込みでした。前日まで松江にいて、始発の特急に乗って3時間くらい汽車に揺られたのが懐かしいです。津和野じゅうを案内してもらい、今も関わることのある人たちに出会わせてもらって、「私が島根で求めていた環境は、ここかもしれない」と思いました。

③1年秋学期~1年春休み

大学の講義に関しては、テスト期間の2月初旬が内閣府事業と被ってしまうため、履修登録の期間は受講を考えている講義の担当の先生にメールを出しまくって試験をレポートに代えてもらったり、成績評価の配点を変えてもらったりしました。全部うまくいってフル単でした(お世話になった先生方ありがとうございました)。10月の後半から月2回くらいのペースで3カ月くらい津和野高校に通う県外生の下宿でのインターンをしていました。そのために金曜を全休にし、3連休は津和野の週末住人となりました。その間に益田にも行き、当時引っ越し先を探していた私は、2年の時にインターンしていたユタラボの檜垣さん(当時は教育委員会所属だった)に「家を探しています」と言ったら「インターン付きで家探しておいてあげる!」と言われ、全てを委ねました。そして年明け、数日だけ大学に通ったあと東京へ飛びました。内閣府の国際交流事業「世界青年の船」に日本代表青年として参加し、横浜港からハワイに寄ってメキシコを往復しました。これに関する船上での私の日記(メモ?)は(マガジン:SWY32)をご覧ください。下船後、松江の合宿で免許を取りました。入校から免許証取得まで14日間でした。1人で参加するにもかかわらず相部屋を選び、同室のお姉さん方と仲良くなって彼女たちが効果測定で間違えた問題の解答解説をもらい、課金することなくいろんなテストをパスしたことは、我ながら生きるのがうまいなと思いました。教習で宍道湖沿いを走るのは楽しかったです。当時住んでいた学生寮は1年生限定だったので、3月20日までに退去する必要がありました。そのため檜垣さんに決めてもらった(内見など一切していない)、益田の市街地にある空き家だったお家に引っ越し、シェアハウス生活、そして益田での暮らしをスタートさせることになります。国道を挟んで向かいにコンビニがある、駅から徒歩10分程度の市街地にあるお家だったので、車がなくてもあまり不自由なく過ごすことができました。

④2年春

私が所属する島根県立大学は授業形態等の発表が他大学と比べて遅く、4月の1週目私はずっとそわそわしていました。結局5月から原則オンラインの授業が始まりました。それに4月早々、夏から予定していた留学の奨学金がキャンセルになり、当時行きたかったブラジル行きを諦めました。4月から一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー(ユタラボ)でインターンを始めました。4月は大学の授業開始が延期になったので1か月まるまるフルタイムで関わりました。主にオフィスの壁や柱を塗るなどしました。5月からは週3回大学に汽車で通う生活が始まりました。免許はとったものの、車を持っていなかったからです。大学の先生に「この辺車いるの、知らないの?」とちょっとばかにされました(笑)。1限(9:00から)に授業がある日は朝6時半くらいに家を出ていました。幸いにもお家が駅から徒歩圏内だったのでがんばって通いました。汽車の中では時々電波がなくなるのでずっと本を読んでいました。最高記録は1か月に確か12冊でした。都市部に緊急事態宣言が出されていたゴールデンウイークは、帰省せずに過ごしました。暇を極めすぎて、津和野駅から益田駅まで歩きました。ちょっと筋肉痛になって、焼けました。そういえば4月に誕生日がきて20歳になりました。誕生日にいただいた益田のお酒を飲んだ感想は「奈良漬の味がする」でした。はじめて手で田植えをしました。大学のパンフレットの表紙に載りました。

⑤2年夏休み

8月にマスコスでバイトを始めました。最近までレストランで働いていましたが、始めた時から2~3か月はホテルのフロント(主にチェックアウト業務)をやっていました。ご飯が美味しくて人も面白くて、大好きな職場です。まん防のときはバイトが減ることもありましたが、なんやかんや2年半続けました。夏休みはフルタイムでユタラボにかかわっていた記憶があります。8月に高校生を対象とした益田市の社会教育事業「ミライツクルプログラム」で「海外」をテーマに、友人と一緒に自分たちのSWYの経験を話しました。「日本人と外国人、だけじゃなくて日本人同士も異文化理解が必要だよね」というお話をしました。この頃から、「異文化理解」というキーワードが頭の中に残り続けました。その時のレポートはどこかにあります。8月25日に車を買いました。およそ半額は当時内閣総理大臣を務められていた安倍晋三様に支援していただきました(給付金。パパ活ではない)。そこから行動範囲が広がり、1週間後くらいにはインターン3人で100キロ離れた大田にプチ旅行をしました。浜田の高校で個人のお仕事をいただきました。9月にはインターンの1人が卒業して東京に帰りました。

⑥2年秋

大学は年内つまり12月で学期が終了する過密スケジュールだったため(通常は2月上旬まで)、6限に授業があるなどしましたが「暗くて怖いので帰ります」といって中国語の授業をサボりました(なんと公認で欠席にならなかった)。週2回マイカー通学しました。移動時間が乗り換えなどの影響で片道2時間近くかかるときもあったのが、45分に短縮されました。でも同時に、歩数と読書量も減りました。あるオンラインイベントで、アメリカの大学に留学していた先輩が「留学きたおかげで英検準1級取れました」と言ってて、「行ってなくても取ってやる…!」と謎に対抗意識を燃やし、勢いで申し込んでしまいました。

⑦2年春休み

2021年の年始から春休みでした。年越しは友達と益田でして、その後すぐに帰省しました。成人式は人が集まり不安だったので家族と一緒に実家のまわりの思い出の場所で前撮りをしました。1月からの3カ月間、フルタイムでユタラボにいました。1月はミライツクルプログラム、2月3月は小学校カタリ場など今までがっつりかかわってこれなかった事業に張り付いていました。1月に受けた英検は行きに車の調子が悪くなり焦りましたが、前日にお風呂の中で覚えた「英作文テンプレート(YouTubeでやってたやつ)」のおかげで合格しました。2月から、今住んでいる益田市の二条地区にある桂平小学校で行われている「ボランティアハウス」という活動に参加していました。放課後の時間、小学生とバスケしたり箸袋作ったり、お味噌を仕込んだりしました。3月は別れの季節でした。私自身がユタラボを卒業しました。仲良しのインターンずも卒業して益田を離れていきました。

⑧3年春学期

また引っ越しからのスタートでした。益田よりもさらに西、島根県最西端の津和野町へ引っ越しました。人生初の「町民」です。益田にはイオンがありましたが津和野にはイオンがありません。20時に閉まるスーパーと22時に閉まるコンビニと、我らがコーナン(高校の先輩の親御さんの会社だとか)のみです。世間では「イオンは田舎の印」と言われていて、私も大阪にいるときはそう思っていましたが、今では「イオンがあるなんて都会だな」と思ってしまいます。同時に数カ月前に関わり始めた二条地区に偶然空き家が出て紹介していただいたので、友達とシェアハウスをすることにしました。家の前には棚田が広がり、裏には竹林がある一軒家。夏は湿気やムカデ、冬は隙間風による寒さと闘いました。仕事の面では、町営塾HAN-KOHのスタッフをしていました。大学生である手前、インターンなのかそうじゃないのか分からない立ち位置でした。いろいろ考えた結果、「インターンのような気持ちで、職員のような振る舞い」をすることにしました。4月は新しい環境に慣れるのに必死で顔にぶつぶつができまくりました。中高の先生方や中高生の顔と名前を覚えるところからのスタートでした。高校生向けの講座を学期に1つ担当し、1学期は大学選びや大学生活について複数人の話を聴き自らの将来を考える講座をやりました。プレッシャーなどは特に感じることなく、のびのびとやりたいように活動させてもらいました。気づいたら21歳になっていました。このあたりから、中高6年間皆勤賞だった私が体調に不安を感じ始めました。生理痛はひどくなり、低気圧で頭が痛くなったり耳が聞こえにくくなったりするようになりました。コーヒーを飲むと頭が痛くなりぼーっとするのであまり飲めなくなりました。これらの症状には抗わずうまく付き合うことにしています。6月くらいに逆流性食道炎と耳管狭窄症になりました。鼻から耳に空気を通すために何度か通院しました。津和野町は全国と比べても比較的対応が速かったため、7月にコロナのワクチンを2回とも打ち終えました。6月に塾講のバイトをやめました。あ、そういえば週に1回だけ大学に講義を受けに行っていました。オンラインやオンデマンド形式の講義もいくつか履修していて、行政法の講義では実際の講義映像を配信する形(対面も可)だったので先生の言っていることが正確に聞き取れず、諦めて文献を買って過去問を1週間やりまくることで「優」をとりました。我ながら頑張ったと思います。このあたりで、今まで「どこか外部の院に院進したいなー」程度に考えていた私が候補を絞り始めます。

⑨3年夏休み

長いお休みをいただいて帰省し、実家で墓参りや花火などをしました。ちょっと羽を伸ばして旅行に行きました。SWYに参加したときは全然交流がなかったのに、6月くらいに急に電話して、船上での関係からは考えられないくらい仲良くなった友達と大分を旅行しました。楽しかったです。

⑩3年秋学期

まず大学について。10月からは履修登録がうまくいった(抽選に漏れなかった)ので、全講義オンラインになりました。でも週1回の平日の休みをアカデミックな時間にしたかったので、たいていは大学の図書館にいました。試験に関しては2月の2週目に対面試験が1つあっただけで、レポートがほとんどでした。仕事では、高校生に向けて2学期は外国で作られた映像(英語)を観て、自分の暮らしと結びつけて考える「映像で学ぶ世界の"いま"」、3学期は映像を英語に限定せず「映像で学ぶ社会」と題し、ざっくり言うとドキュメンタリー番組や映画を観て、それに対して自分の意見を発表してみる講座を開講しました。12月は2度九州に行きました。1回目は友達とクリスマスマーケットに、2回目はパートナーと車で九州北部をふらふらする旅をしました。正月には家族が来ました。また振袖を着ました。1月に受けたTOEFL iBTの結果は目も当てられず、自分に合ってないと感じTOEFLを受けた日に直近のTOEICに申し込み、すぐさまスタディサプリで対策を始めました。高校生の時に通っていた東進の映像授業やPC上で完結する学習ツールの数々を思い出しながら結構がんばりました。学期末、ほぼ毎日レポートに取り組み、春休みに入る資格を得ました。結果的に、単位をすべて取ることができました。

⑪3年春休み

2月の中旬から3月のさいごまで春休みでした。2月中旬までは何度か雪が積もりました。1年頑張った自分への慰労と今後の下見を兼ねて東京に行きました。ひっそり行ってひっそり帰ったので、ほとんど知っている人と会いませんでした。美術館や劇場に足を運び、普段なかなか触れることのないものに触れました。帰ってきてすぐ3回目のワクチンを打ちました。38度手前の熱が2日間続きしんどかったです。今年も小学生と味噌作りをさせてもらいました。二条での同居人が東京へ帰る時期になり、お別れ会(という名の地区内での飲み会など)に数回行きました。ルームメイトがいなくなるのは寂しかったです。同居人が帰る日は、お隣のご夫婦が車が見えなくなるまで手を振ってくれていました。その後ろ姿を見ていて泣きそうになってしまいました。二条でも一人暮らしとなった次の日の朝、さっそく昨日お見送りをしてくれていた隣のおかあさんが「気が抜けたんじゃないかと思って~」とお米を持ってきてくださいました。なんとか一人で一軒家に暮らすことに慣れてきたころ、社内で異動をすることが決まり、職場で送別会をしていただきました。入職する際に何個か選択肢をいただいていたのですが、ここを選んでよかったなと改めて思いました。島根に住んでいながらはじめて、世界遺産石見銀山のある大田の大森町へ行きました。年度末は昨年のように新しい環境に対する緊張や不安などでそわそわすることなく、落ち着いて迎えられました。

⑫4年春学期


2022年度、ちょっとした転職(社内)をしました。2021年度は町営塾で働いていましたが、今年度は津和野町の教育魅力化コーディネーター(保小中学校)の方々について、インターンをすることになりました。前年度よりも仕事で関わる人の数も幅も増え、ほどよいストレスを感じ4月は毎日布団に入った瞬間即寝ていました。母がはじめて私の家に来てくれて、二人で朝から筍を掘り(倒し)ました。大学の授業はとるものがなかったので、自主的に週に1~2回図書館通いをしました。ゴールデンウィークは地元近辺で家族やパートナーと過ごしました。パートナーは関西出身ではないので、今まで気づかなかった我が地元の魅力を外の視点からたくさん教えてくれました。ゴールデンウイーク明けは、大学院の夏入試に向けて大学の卒論をたくさん進めました。整えれば出せるね、くらいにはなりました。二条では田んぼでドッチボールをしたりバレーボールをしたりする素晴らしいイベントがありました。そのあとちゃんと田植えもしました。自治会の宮掃除にも参加しました(言われた時間に行ったらほぼ終わってた)。仕事では保育園児から高校生まで、子どもたちといえどもほとんどすべての世代と関わらせてもらいました。保育園児さん(5)に「まさみちゃん世界一かわいい~」とちやほやされました。チャラくて驚きました。もうひとつ、半プライベートなことだと島根大学の社会教育主事講習(通称:社教士講習)を受けられることになり、授業がスタートしました。

⑬4年夏休み


8月は生きていたら終わりました(当たり前か)。津和野町のビッグイベント「教育フォーラム」の全体司会を任せていただき、それまでの準備でも広報活動をしたりゲストとの調整をしたりしていました。当日、なんと大学院の2次口述試験(zoom面接)と被ってしまい、納得のいくパフォーマンスが出せず、準備不足を悔やみました。とりあえず1回大学院落ちました。すべて終わった後、大きなイベントが終わった燃えつき感と大学院入試に対する自分の不甲斐なさに、1週間ずっと1人になるたびに泣いていました。2週間続いたらさすがにやばいなと思っていたら、1週間くらいしたあたりで徐々に回復してきました。ここで、「病むのは一瞬、治るのには何倍もの時間がかかる」ということを学びました。
9月はたくさんお休みをいただきました。疲れたとか病んだとかではなく、ほとんど大学の集中講義のため。「最後の対面授業!」と楽しみにしていたら、台風のせいでオンライン授業になりました。1人でプログラミングの授業を4日間連続家で受けるのはきつかったです。もれなく体調を崩しました(風邪)。そのあとはお盆の時期にできなかった帰省と、高校同期との東北旅行へ。大阪近辺だけで生活していた友人との旅の中で、私が「都市部だけでなく地方部で暮らしてきたこと」は、今後の人生において必ず自分の糧になると実感しました。毎日毎日なんやかんや予定を入れてしまい、よく分からない毎日でした。

⑭4年秋学期


集中講義で卒業要件の単位を取り切ったので、10月からも、大学の授業はありませんでした。さらに大学に行かなくなりました。東京であった同窓会に参加し、下船ぶり(2020年2月)にたくさんのSWYer(内閣府「世界青年の船」既参加青年のこと)に会い、時々会う人、話す人を変えることが大切だなあと気づきました。10月下旬に流行りのウイルスに感染し、あまりひどくならず熱も1日で下がったので、何も考えず何もしない1週間を過ごしました。もっと休みたかったです。10月末には、1年以上前から地区住民のみなさんと丁寧につくってきたお祭りがありました。この地区に暮らしていることを、地区の一員として認めていただいていることを心から幸せに思える瞬間でした。来年以降も続けていきたいとのことなので、絶対帰ってきたいと思っています。
11月上旬に、高校同期で現在福岡で医学生をやっている友人と旅行しました。彼女が大学に合格して以来会っていなかったので、近況報告が止まりませんでした。話している中で、私はHSS型HSPであることが分かりました。このあたりから、今までよりも自分のケア法がよく分かるようになった気がします。仕事の面では新しいプロジェクトを始めたことで急に(特に気持ちが)忙しくなった半面、タスクを洗い出したり日時を決めたりして進捗を管理することが自分の強みであると気付くことができました。プライベートでは、父の誕生日のために帰省をしました。実家を離れて4年目、コロナ禍初期の2020年以外はこうしてリアルに祝えていること、あと何回できるか分からないので、これからも続けていきたいなと思っています。
12月にやっと研究室訪問(オンライン)を終え、出願する大学院・研究室を最終決定しました。卒論はちょっと修正してぴゅっと出しました。図の下のスペースとかミスっている気がします。年末年始はマスコスで5連勤でした。気づいたら年が明けていました。年始以降はひたすら院試のために、大学の専門外の分野を勉強するために時間を使い、姿勢の悪さからか顎関節症になりかけました。理学療法士のたまごである弟を大阪から呼び寄せようか3日間悩んだほど。途中で社教士講習のラスト集中講義があったり、普段の業務は動かさなければならなかったりと、スキマのないスケジュールは生きている心地がしませんでした。あまり記憶にありませんがもう絶対にやりたくないです。無事に大学院に合格し、急いで東京に家探しに行きました。知り合いに助けてもらい、1日(午前:物件検索→午後:内見)でなんとか4月から住む家を決めました。卒業式は、オンライン授業ばかりで実際に友人に会っていなかったことから「久しぶり」の連続でした。ポスターセッションでの受賞により、学長賞をいただきました。益田で袴を着付けてもらい、大学へ向かいました。帰りにマスコス→津和野と、お世話になった方々や場所と写真を撮りました。


2.4月からのこと

2023年4月からは、拠点を東京に移し大学院生として生きていくことにしました。まだまだ学生です。

春から東京都立大学大学院 都市環境科学研究科 都市政策科学域(長い)の博士前期課程(修士)に進学します。ここでは、住環境分析の観点から、地域としての寛容性を高めるための要素について研究を進めていくつもりです。具体的には、「主に公民館による社会教育活動は、地区住民の暮らしやすさの向上に役立っているのでは?」という体感からうまれた仮説を検証していく予定です。

私が「地域の寛容性」について興味を持ったのは、私の島根での生活の中で感じた違和感からでした。

https://note.com/m4s2m1_2000/n/n63ebdb3671be

1年生の頃から、石見地域のいろんな地区で地元の方と関わる機会をいただいてきましたが、どこに行ってもよそ者の私は「この地域は私を受け入れてくれている…!」とか「この地域は私を必要としていないんだ…」など、感じるアンテナを高くしながら生活してきました。完全なる個人の主観ではありますが、こういうことを考えるうちに「寛容性の高い地域とはなにか」とか「寛容性を高めていくためには子どもだけにアプローチしてもだめだし、大人だけにアプローチしてもだめ。みんなで学び合うためにはどんな学びの環境やイベントがあればよいのか」とか、たくさんの問いが頭をめぐるようになりました。でもこれを研究するための知識や手法は、現状ここにある教育・研究機関では足りないと、そう感じるようになっていったのです。これらは、私が島根に、浜田・益田・津和野に住んだからこそ感じるようになったことです。
フィールドが島根県西部と東京都内の両方になる予定なので、今まで島根でお世話になった方々にはこれからもお世話になると思います。よろしくお願いします<(_ _)>

高校3年生の時、「実際に住んでみないと分からないことがあるだろうから、とりあえず島根行ってくる!」と、18年間離れたことのなかった大阪を離れた自分に言ってあげたいです。「あなたは4年間、ここでしかできない経験をし、ここでしか持つことのできない問いを持つことができたよ。そして、現段階ではこの選択は間違っていなかったと思っているよ、ありがとう。」と。

4年間、たくさんお世話になったみなさんへ感謝の気持ちを込めて。そして、これからもよろしくお願いしますの気持ちと一緒に。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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