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わたしについて。ー翻訳家を目指していたはずが、なぜか大学美術教員になっていた件

──私は何者?

はじめまして。前回の記事に続いて、改めて「そもそも私は何者なのか?」という点について、エッセイ風に紹介してみます。
m4n4c(マナック)と呼んでください。

ここでは、私がどのような道を歩んできたのか、子どもの曖昧な記憶から大学での迷走、そして現在の美術教員としての視点までを、長くなりすぎない程度にまとめました。よろしければお付き合いください。



現在の私

いまは大学の美術教員として、アーティストやデザイナーの卵を育成する仕事をしています。自分自身は「偉大なアーティストになるには何かが足りないかも…」という思いがありましたが、「人の才能を引き出すならできるかも?」という軽い直感で飛び込んだ世界です。

ところが近年、生成AIの登場によって、言葉とクリックだけで瞬時にイメージが作られる時代へと突入。そこで「手を動かす意義は?」「美術教育はどう変わっていくのか?」と考える日々です。


絵を描く喜びとの出会い

一番古い“クリエイティブ”な記憶は、幼稚園で紙に飛行機の絵を描いたこと。油粘土の匂いや肌触りがとにかく嫌で、「ボール」と「ヘビ」しか作らなかったと記憶していますが、絵を描くことだけはずっと好きでした。
小学生の頃には『キン肉マン』から『ドラゴンボール』が大流行。当時、祖母が私の隣でキャラクターのイラストを描いてくれた影響もあり、自分でもイラストを描き始めたのが大きなきっかけです。


MSXと悔しさ

ちょうどファミリーコンピュータが発売された頃、父の一声で「今やるべきゲーム機はMSXだ!」と強引に決定されました。周りがファミコンに夢中になる中、なぜうちはMSX…と悔しさもありましたが、今ではそれも面白い体験だったと感じています。周囲と違う道を選ぶのも案外悪くないと、子どもながらに思ったのかもしれません。


スポーツ少年からオタクへ

小学校・中学校と水泳部に没頭していた私ですが、部活を辞めたあとに偶然手に取った雑誌『アフタヌーン』の『ああっ女神さまっ』にどハマりし、一気にオタクの道へ。中学時代には美術の先生(武蔵美卒)から「美術に進んだら?」と勧められたものの、なぜか翻訳家を目指そうと英語専攻に燃えていました。結果、高校は英語科のある私立校へ進学することに。


高校・英語漬けの日々とシアトルでの発見

当時はそれほど有名ではなかった私立高校も、いまや進学校として名を馳せ、卒業生だと言うと「頭いいんですね」と言われるのが、ちょっぴり嬉しいところ。
入学してみると、7限中3〜4限が英語という想像以上の英語漬け生活。さすがに食傷気味になりつつも通学を続け、漫画やゲームセンターが唯一の癒しでした。そんな私を見かねた親が、高校主催のシアトル1ヶ月ホームステイを勧めてくれたのが転機となります。

もちろん英語がペラペラ通じるわけもなく、はじめは苦戦ばかり。でも「せっかくだから楽しみたい」と開き直り、イラストを駆使してコミュニケーションしてみると大成功。「絵って国境を超える世界言語かも?」と思い至りました。両親は「これで英語が好きになって戻ってくる」と期待していたでしょうが、結果的にはアートへ進む決心を固めて帰国することになったのです。


美術予備校と浪人

久しぶりに遊びで3時間くらい描いてみた

美大を目指すなら予備校へ行こう、と入校した初日に驚いたのが、周囲の学生のレベルの高さ。「こんなに上手い人が世の中にいるのか…」と衝撃を受けました。さらに講師から「才能あるからどうせならトップ狙いなよ」と言われ、その言葉を真に受けてしまったのが最後。結果、なんと三浪する羽目に。
それでも諦めずに挑み続け、50倍もの倍率をなんとか突破して合格を勝ち取ります。その過程は今でも私の支えになっています(同時に負の影響もあるのですが、それはまた別の機会に)。


大学・挑戦と挫折

大学時代は、正直なところ授業そのものよりも、自分が興味を持った新しい技術や表現に片っ端から手を出す日々。大学教員の評価はイマイチだったと思います。
たとえば3DCG。「ファイナルファンタジーⅧ」の映像を見て「これは個人じゃ無理だ」と挫折。プログラミングもDirectorというソフトで少しかじったものの、限界を感じてリタイア。学生の頃はブログで多少の収益を得ていましたが、仕事を始めると続かず断念…、思えば挑戦と挫折の連続でした。

そんな周囲には、本気で創作だけで生きようとする仲間がいて、その姿や作品を見て「自分が目指していたものはアーティストではなかった」と感じることもしばしば。それでもアートやデザインの世界からは離れたくない。そんなとき「人を育てる仕事なら、自分にもできるのでは?」と思いあたります。当時、大学でお世話になった教授の働きぶりを見ながら「これ、最高の仕事じゃん」と密かに憧れていたのです(実際、専任教員になるまでは超大変でしたが…)。

いざ教える側に回ってみると、自分が挑戦と挫折を繰り返してきた経験が、学生の背中を押すための財産になっていました。新しい技術に尻込みしている学生には「自分も昔やってみたけど、ここが面白かったよ」と言えますし、「やりたいことがありすぎて迷う」という学生には当時の自分を思い出してアドバイスできます。


これからのクリエイティブ

Midjourney

今後はやはり“生成AIがもたらす未来”が大きなテーマになるでしょう。言葉とクリックだけで高品質なビジュアルが生み出せる時代に、手を動かす意義とは何か。美術教育はどうあるべきか。悩みは尽きませんが、好奇心が勝ってしまい、いつの間にか新ツールに触れながら学生と意見を交わすのが常。これも昔から「まずはやってみる」という私の性分が活きているのだと思います。


おわりに

こうして振り返ってみると、ちょっとしたきっかけや思いつきが私の進路をあちこちへと導いてきたようです。でも、ずっと変わらないのは「何かを表現してみたい」「何かを生み出すってやっぱり楽しい」という想い。未だにアーティストとして大成はしていませんが、ものづくりは続けています。

これからも挑戦しては挫折し、そしてまた立ち上がるでしょう。同時に、そうした経験を記していくことで、読んでくださる方の力になれたらと思っています。それでは次の記事でお会いしましょう。


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