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鼓雪のさとり(湯槽にて) 教理観

ある日、湯槽に浸りながら、ゴムホースの先を強く持って蛇口をひねった。水が勢いよくほとばしった。指をゆるめると、水勢はおとろえて、タラタラと落ちる。
何度も繰り返しながら”人間苦労すると勢いが出る。楽々の中には勢いは出ない。「一にいきおい」と仰せになっているが、その「いきおい」は、やっぱり苦労の中から出てくる。なるほど、、、、、。と、うなづいておった。

ゴムホースから流れ出る水から人間の苦労や、いきおいが表現されている、なんともいえないではないか、、、。

またある日、疲れ休みのつもりで午後の湯に浸かった。窓から明るい陽がさしこんで、湯に映っていた。じっとしていると、湯も静かで平ら。光もまた動かない。すこし手を動かすだけでも、おだやかな波が立ち、すると、光線が大小さまざまの楕円の輪を作って変幻きわまりない。これとて、めづらしいことではない。浴場では常に見ることである。この日、道興は、それがとても面白かった。
「水が動けば波紋は無限の変化を見せる。動くのは水だ。窓から射しこむ光は少しも動かない。動かない光りが動く。なるほど、そうか、、、、、」
こういうとき、道興は入浴の快さにもまして大きな満足をおぼえた。

この浴場の光と水の描写がなんともいえない世界観ではないか。
自らが動かなければ何も変化しない。動けば無限の可能性があり変化する。私たちに与えられている光は皆同じである。受け取る私たち一人一人の心の持ち方、考え方、行動によって与えられている光は変化するのである。
大きな満足を味わいたい♪

【道興の教理観】
新鮮なる教理が、「いのち」
その新鮮さは、いつも教祖のひながたを踏んでいこうとする意志と実行から生まれる。教祖のひながたに憧れて、これを踏み行う者のみに、教祖の「おことば」は新清なる教理として生きてくる。

教理を学び、知ることにのみとどまらず、教祖のひながたを通る者にのみ、教理は生きてくるのである。

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