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『天理教 教会について』


ぢばと息一つ

・つとめは、ぢば・かんろだいを囲んで勤める「かぐらづとめ」を指すが、その理を頂いて、国々所々の教会でも月々のおつとめを勤める。
このおつとめを親神様にお勇み頂けるよう一手一つに勇んで勤めるところに、御守護を頂戴できる。
・本部と息一つに繋がる、すべての教会のおつとめが勤められる。
・ぢばの理を頂く世界中至る所に設立されているそれぞれの教会でも陽気なおつとめが勤められる。
・教会の第一の任務は、おつとめを勤めること。
・手を揃え、鳴物を揃えて、一手一つに勤めるという意気込みで勇んで勤める。
・国々所々にあるすべての教会の元である教会本部は、教祖につとめの実行をお誓して許された。
・そのぢば・かんろだいを囲んで勤められる「かぐらづとめの理」を頂いて勤めるのが、土地所の教会における月々のおつとめ。
・おつとめ奉仕者が手を揃え心を揃え、親神様にお勇み頂けるようにおつとめを勤めることは、教会の最も大切な使命の一つ。
・土地所の教会は、ぢばに願い出て、御存命の教祖からお許しを頂いて設立されている。
本部とは同じ息一つのもの、ぢばを離れては、その理を失う。

ぢばの理と世界の理とはころっと大きな違い。
ぢばに一つの理があればこそ、世界は治まる。ぢばがありて、世界治まる。

(おさしづ 明治21・7・2)

本部という理あって他に教会の理同じ息一つのもの。この一つの心治めにゃ天が働き出来ん。

(おさしづ 明治39・12・13)

ぢばの理を頂き、本部と一手一つに動くところに、教会としての働きができる。

・教会本部開設は、明治二十年、教祖が現身をおかくしになるに先立つ、教祖と初代真柱様との間の緊迫したやりとりの中でお許し頂いたもの。
・教会本部の開設は、誰はばかることなくおつとめを勤めたいという上から、教祖に願い出てお許し頂いたもの。
・教祖が厳しい状況下で、あえてつとめの実行を急き込まれたのは、おつとめを勤めることがそれ程にも大切だということ。
・おぢばの理を頂く教会でも同様。おつとめは、たすけ一条の道の根本であり、親神様にお勇み頂けるよう、勇んで一手一つにおつとめを勤めることが、教会の第一の使命。

名称は末代

道と言うたら末代と言う。又所に名称というは末代の理

(明治34・1・19)

・末代かけて陽気ぐらしの世界実現を期するこの道の、たすけ一条の拠点として、いついつまでも変わらぬ心で勤め励むようにと許され、お誓して教会としの歩みを踏み出した。
・折に触れ思い返し、教会のあり方を見つめ直すよすがにして頂きたい。

所々名称々々数あるうち、最初一つの理より変わらん理で押せば変わらんなれど、どういう一つの事情より、めんゝ勝手々々の理出るからどうもならん。日々にもよう重々の理を諭せ。軽いものと思えば軽いもの、重いものと思えば何ぼでも重い。心に曇り跨りの理ありてはならん。日々互いゝの心集めてくれるよう。

(明治29・12・18)

・教会という所は「日々互いゝの心を集めてくれるよう。」
人々の心が寄り集まって、成り立っている。
親神様の御守護に浴し、教祖の教えに勇む人々の心が寄り集まり、たすけ一条の上にしっかり勤めさせて頂こうと願い出たところに、教会は設立された。
・名称は末代と教えられるところから思案して、教会を設立する時にお掛け下さった親心は、末代に続く。
・「最初一つの理より変わらん理で押せば変わらん」
教会を設立することをお許し頂いた時の心定めを、我がこととして勤めさえしたならば、教会設立の元一日にお掛け下さった親心と同じように、変わらない御守護を約束して下さる。
・少なくとも、教会らしい姿が続く御守護を頂こうとするならば、最初一つの理を重いものとして、これを思案することが大切である。
・「心に曇り跨りの理ありてはならん」
心は曇ってはならない、晴れていなければならない。心が曇るか晴れるかということが、理を重く考えるか、軽く考えるかということにも関わってくる。
・代を重ねるたびに、皆真剣で、一生懸命であった気持ちを思い起こし、勤める者の心に繋いでいくから、教会は変わらぬ御守護を頂戴することができる。そうなれば、代を重ねる毎に感激が薄くなるどころか、むしろ強くなってくる。そのために、最初一つの理を重く悟るということが大切。

陽気ぐらしの手本・たすけ一条の道場

・教会はたすけ一条の道場で、陽気ぐらしの国々所々の手本雛形である。
・道場とは、それぞれの技を習得し、精神を練磨して自分自身を向上させる場。
・教会がたすけ一条の道場ということは、たすけを求める人々に、その道の方法を習得してもらう場という意味。
・心一つの立て替えによって、いかなる中も喜び勇み、互い立て合い扶け合い、この世で陽気ぐらしの味わいを共にする人々の、教会での和楽の姿が、土地所で陽気ぐらしの手本雛形になる。
・いろいろな世代の人々が教会に寄り合って!陽気ぐらしを覚え、それを各家庭に及ぼし、社会に及ぼし、やがて世界に陽気ぐらしを実現する種を育むことは、たすけ一条の教会の役目。
・教会は、たすけ一条のために渡される「おしづけ」を取り次ぐ人を育て、おつとめを奉仕して、陽気ぐらしを願う。それに携わる人々が、陽気ぐらしのできる人に成人する。
・教会がたすけ一条の道場ということは、親神様の人間創造の目的である陽気ぐらしは、どうすれば味わうことができるかを体得して実行することを教え導くところであり、学ぶ道場ということ。
・陽気ぐらしは、陽気づくめの心から生まれる。陽気づくめとは何を聞いても見てもありがたい、結構やと喜べる心が台となる。自分の人生で起こる出来事に、親神様、教祖の親心を思案させて頂き、自分自身を振り返って、陽気ぐらしに邪魔になる考え方を改める道を究めるところが教会。
・悲しい時、辛い時、苦しい時や、どう考えたら心が陽気に切り替われるか分からない時には、教会を訪れたら良い。
・教会は親神様の教えを世界中に伝え広めるということを心に定めて、生まれた。たすけ一条の道場としての、おたすけの場であり、おたすけを志す「ようぼく」を育て仕込む場。土地所の陽気ぐらしの手本雛形として、教会に寄り集うお互いが、談じ合い、諭し合い、扶け合って、明るく勇んだ雰囲気を作り出し、その道のにおいを周囲に映していく。
・教会は陽気ぐらしを覚える所。また自分の姿を映し出してくれる所。教会に寄る人々の姿を見たり聞いたりして、自分の心の治め方や、行動の仕方を学ぶ所。陽気ぐらしは、自分の心一つで身に付けられ、生涯を楽しく暮らせるようになれる。
・親神様の思召は、立教に際してのお言葉にもあるように、世界一れつをたすけること。それは元初まりにおける人間創造の目的である、人間を造り、陽気ぐらしを見て共に楽しみたいとの思召からである。
・教会の使命は、陽気ぐらし世界の実現に向かって、世界たすけに邁進すること。それが、教会はたすけ一条の道場であると言われ、土地所の陽気ぐらしの手本とされる所以である。
・たすけ一条の道場ということであるから、まず身上、事情のおたすけを願うたすけ場所である。また、日々の御守護のお礼にと足を運ぶ参り所である。そして、この道を信じる人々が更なる成人に勤める場であり、たすけられた喜びをもって人だすけに向かう拠点である。
・親神様がお望みになる陽気ぐらしは、親神様を親とし、その子供である人間が互いに兄弟姉妹として扶け合い、睦み合う、いわば家族団欒のような世の中。その実現を目指すお道の教会は、会長はじめ、所属するようぼく、信者が一つの家族のような、和やかな雰囲気を湛えていてこそ、土地所の陽気ぐらしの手本ということができる。我が家のように出入りでき、いずんでいる時も教会へ来れば気持ちが晴れる、安らぐといった場所。

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