法政アカデミー60回記念定演へ②
こちら↓の続き!書いていこうと思います。
第二ステージ〜どこまで書き切れるかな?
第二ステージ
混声合唱のための「おらしょ」カクレキリシタン3つの歌(千原英喜)
振っていたのは四年学指揮の早川くん。非常に「おらしょの人」というイメージが強かったので、やっときたか!という気持ちで楽しみにしていました。というか、私が選曲しようとして結局やらなかった曲なので、そりゃあもう大好きなんですよね。
千原英喜氏のメジャーデビュー作品とも言えるこちら。「おらしょ」はおそらく「Olation(祈り)」の訛りでしょう。私は音楽を聴く時にあまり言葉を気にしないタイプなのですが、千原英喜氏のこの手の楽曲は良い意味で拍子にハマらず「言葉」を歌っているからこそ、意識してしまいます。あと、以前(7年前?)千原英喜氏の個展に伺った際この楽曲の物語を解説をされていたので、せっかくですから、それを抜粋してみます。
長崎から遠く離れた島へ行って、沈む夕日を眺めていると、隣では漁師さんの唄が聴こえてくる。
夕日を見ながらじっと思いに耽っていると、グレゴリオ聖歌が聞こえてくる。そして、今自分がいるところからタイムスリップして、実は400年前のキリシタン時代へ入っていく。
そこでは、大聖堂があったり信者さんたちが熱い祈りの歌を歌っていたり…一丸となって自分もキリシタンになったつもりで、世界の中に飲み込まれていく。
でも、夜が明けて小山おろしの風が吹き、太陽が昇ったら一夜の夢もどこかに過ぎてしまって、一夜の幻想、イリュージョンの世界は素晴らしかったなあ…という思いの曲なんです。
とのこと。起こっていることはムソルグスキーの「禿山の一夜」と近いとも仰っていたかな。本当に要素が盛り沢山でして、カクレキリシタンの伝承歌・天草の民謡・ルネサンス期の音楽が主な素材となっています。一見結びつかないように見える3つですが、千原ワールドによって、かつて全てが「そこにあったのだ」と思わせられる作品です。思えば早川くんが一年生の時に、音楽監督の小久保先生が「おらしょ」の姉妹作である「どちりなきりしたん(千原英喜)」を、二年生の時に私が「ルネサンス 音楽(グレゴリオ聖歌、ジョスカン他)」を演奏会で選曲しているので、団としても色々積み重ねられた一つの集大成とも言えるのかもな、と勝手に考えていました。という感じで無意識にハードルを上げていたような気もするのですが…しっかり楽しみにしていた通りの演奏なのでした👏
第一楽章
アレルヤに始まり、曲の世界に少しずつ引き込まれていき…そして聞こえてくるのが五島ハイヤ節。
ひとつ唄いましょ はばかりながら
唄のあやまりャ ごめんなりよ
民謡の引用とはいえ、これから始まる「唄(歌)」の口上とも聞こえます。この時点で既に異色の組み合わせとも見えるはずが、自然と音楽が入ってくるんです。その後も、民謡をベースに歌われる中でのメリスマやヴォカリーズに、人の根源としてある「祈り」が、五島灘で揺れる波が、そして迫害への悲哀が…これは楽譜の妙か、歌い手の思いかはわかりませんが、言葉ではないからこそのせられている何かを感じます。その揺れに巻き取られて、気付けば遠いキリシタンの時代へ。
第二楽章
単曲で演奏される機会も多く、千原英喜氏の作品の中でも人気の高い作品とも言えます。
「きりやれんず(Kyrie eleison)」や「ぐるりよざ(Gloria)」が登場し、本格的に「Olation(祈り)」へと向かいます。全体的に一般的な?演奏よりも少し速かっただろうか。ただ勢いだけで過ぎてしまわず、その分熱量が高く、切実に歌われていたような印象があるかな。まさに「でうす」を「まことに信じ奉」っていた。最後は「きりやれんず」ではなく、ラテン語の「Kyrie eleison」で締めく括られます。これは当時の教会用の典礼書である「サカラメンタ提要」に収録されているグレゴリオ聖歌ですね。このことから、やはり最後まで信者が祈りを捧げている様子が窺い知れます。弱音であっても熱量が終止尽きなかった演奏で、素晴らしかった…
第三楽章
個人的には三曲の中で一番好きな演奏でした。まず何よりソロが2回(冒頭、中間部)出てくるのですが、それがどちらも凄い!上手いうえにかなりのハマり役だったように思います。この楽章では最後までほとんどラテン語は「直接的には」登場しません。民謡の「泣き唄」や、あくまで和語の宗教歌で構成されます。舞台は迫害され、殉教者も数多く出たと言われる平戸島の「獅子」でしょうか。第二楽章であれだけ熱い祈りを捧げていた者たちが歌まで「カクレ」て歌っていると思うと、悲哀と同時に改めて強い「Olation」であることがうかがえます。通しで聞けて、かつ第二楽章の演奏が素晴らしかったからこそです!そして、最も印象深いところといえばやはりここでしょう。
獅子は良いところよ、朝日を浴びてね
どんなに迫害されても、貧しくても、仲間が死のうとも、祈りは絶やさない。いつかは「パーパの船」がやってきて私たちは許される。だからこそ、この地には祈りがあり、この地で私たちは祈り続けるのだ…という思いが、あくまで前を向くようなDurで歌われるからこそ感じられるのでしょうか。しかし、千原英喜氏の解説を思い出すと、これはカクレキリシタンの目線ではなくタイムスリップしていた自分の摩訶不思議な体験を思い起こし、一夜の夢を、その感動を噛み締めているとも考えられますね。見方によって歌われ方も変わるのでしょう。今回はどっちだったんだろう?いや、他にも考えられるかもしれないし…
おわりに
演奏の感想というよりは曲そのものへの説明や私の感じ方ばっかりになってしまったような…というのも、半分くらいは早川くんの指揮を集中して見ていたもので()実はそれも楽しみだったんです。なんだかんだ彼の指揮をちゃんと見たのは2年ぶり。やはり別人ですね。なによりも「俺はこれがやりたいんだ!」という指揮であり、演奏であったと思っています。彼の様々な背景、思いを知っていたことや、それに足る演奏だったから
こそ、あと残りの半分はしっかり私自身も曲の世界に没入していたような。歌い手とともにタイムスリップして、祈っていたのではないかなあ。
一つ前のノートもそうでしたが、おそらく身内ではない演奏会の方が客体化した感想が書けるのでしょう()
逆に言えば、ここまでのめり込んだ感想を書くことって中々ないのかな。演奏も勿論良かったんだけど、それに至る過程や思いにも考えを馳せてしまった上での満足感だと思います。あとは通しで聞くことによって「おらしょ」という題の納得感がかなり得られました。素晴らしいステージをありがとう!第二ステージだけでこんなに書いてしまったので今回はここまで…ノートの目次も整理しなくては。